2020に伝えたい1964

男子だって金メダルに向かって躍進していたのだ《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「へぇー、バレーボールには男子もあるんだ」
これは、1964(昭和39)年当時5歳だった私の率直な感想だ。私だけではなく、ほとんどの日本人は、同じ感想を持っていた。
 
前項に記した通り、前回の東京オリンピックでは、バレーボールが盛り上がった。今でも、東京オリンピックの代表的金メダルとして語り継がれている。16個もの金メダルを獲得した日本選手団の中で、最高視聴率をマークしたのだから最も注目された証明でもある。
その反対に、世界3位の称号でもある銅メダルは、ほとんど注目されなかった。
中には、円谷選手のマラソンや水泳の800mリレーの様に、主要競技の最終種目で獲得し記憶に残るものはある。しかしそれは、‘悲願感’が強く出ていて賞賛されることは少なく感じる。
そんな、記憶から消された銅メダルの代表格は、男子バレーボールチームのものだろう。
 
有難いことに、私は5歳だったにもかかわらず、バレーボール男子の存在は認知していた。正確には、5歳だったから記憶していたのかも知れない。
何故なら、テレビでの中継があったものの、男子の試合は午前中から夕方に掛けて行われていたからだ。ゴールデンタイムは、女子、特に『東洋の魔女』に席巻されていたからだ。したがって、そんな夕方時間の中継を観ることが出来るのは、専業主婦か未就学児童だけだ。
私はというと、小売店を営んでいたバレーボール経験者の母に、
「しっかり観ておいて教えなさいよ」
と、きつく言い渡されていたので、バレーボールの全試合を凝視していた。
そんな5歳児の記憶では、女子と同じ配色のユニフォームを着ていたとはいえ、
こんな長身揃いの日本人を見たことが無かったので、何処か違和感だけが残っていたものだった。
それに、女子バレーボールチームに付いていた『東洋の魔女』みたいなニックネームが、男子には無かったので注目され様も無かった。『東洋の魔女』対『背の高いお兄さん(それでも世界標準には劣る)』では、勝負に成ろう筈も無かった。
 
男子バレーボールの優勝チームは、当時世界最強といわれていたソビエト連邦だった。日本チームはというと、女子と同じく『9人制』が主流だった時代なので、何とか東京オリンピックに恥かしくないチームを間に合わせたというのが実情だった。オリンピックまでも、国際試合でさしたる成績を残せないままの本番突入だった。
事実、日本男子バレーボールチームは、総当たりのリーグ戦前半で、銀メダルを獲得するチェコスロバキアに敗れた。その前日には、6位入賞はしたもののその時点で日本よりは実力が劣ると考えられていたハンガリーにも敗れていた。ただでさえ低かった注目度が、より一層低くなり日本中で『バレーボール=女子の競技』の構図が出来上がっていた。
その頃私はテレビの中継で、大柄な選手の中でやや小柄な背番号2の選手と、タイムアウトごとに、何やら真剣な話をしているコーチが気になった。背番号2は、後に世界一のセッターと言われ、オリンピック四大会連続出場を果たす猫田勝敏選手。横に居るコーチは、後に監督を務めたばかりか、殿堂入りをも果たした松平康隆コーチ(当時)だった。
先に述べておくが、この二人が中心となって、後の男子バレーボールが隆盛となるのだった。
 
前半戦でもたついた男子バレーボール日本チームだったが、メンバーをジャンプ力に優る若手に切り替えたことでモメンタムを取り返した。またその裏には、セッターの猫田選手が、低く速いトス回しに切り替えたこともあったとテレビ中継の解説者は言っていた。勿論、コーチの松平氏のアドバイスによるものだった。
その後、勢いが出て来た日本チームは、なんと、優勝候補のソビエト連邦にセットカウント3-1で勝利してしまう。
その試合、第一セットは徹底的に相手のスパイクを拾いまくり、デュースにまでもつれ込む。結局はソビエト連邦に第一セットは取られたが、第二セット以降日本はスピードで相手を上回ってくる。それも、15-5・15-8と一方的な展開で日本が連取すると、会場の雰囲気もテレビの中継も俄然テンションが変わってきた。その中で、一際長身な南将之選手(196cm23歳)が、ポイント毎に元気にコートを走り回っていた。私は、格好良く実に頼もしく感じた。
日本は、第三セットも15-10で制し、金メダル候補筆頭のソビエト連邦を破る快挙を達成した。翌日の新聞でも、その快挙が他の競技を抑えてトップの記事となっていた。
ただし、それはこの一日だけで、翌日には『東洋の魔女』の文字が紙面に踊っていた。
 
世界三位の銅メダル獲得の快挙を達成した男子バレーボールチームだったが、『金メダルポイント』『俺についてこい』『回転レシーブ』の声に押された『東洋の魔女』の陰に完全に隠れてしまった。
こんなエピソードが残されている。
銅メダル獲得後、選手村でパジャマ姿になった松平コーチが顔を洗っていると、正装した女子チーム監督の大松博文氏と出会った。
「大松さん、いい格好しちゃってどこへ行くの」
と、聞いたところ、
「祝賀会だ」
と、冷淡に答えたられた。そこで松平コーチはてっきり、女子チームの祝賀会だと思い、
「おめでとうございます」
と、言って送り出した。それから1時間ほどして日本バレーボール協会の西川政一会長から電話があり、
「松平君、君ね、祝勝会をボイコットするなんて、僻むのもいい加減にしろ!」
と、怒鳴られた。その上、
「祝勝会に男子バレーが来ないので、みんなカンカンに怒っている」
と、加えて叱責された。
その事件はその後、事務方の手違いで本来、協会主催の祝賀会に男子も呼ぶ予定であったが、男子には連絡が行っていなかったことが分かった。
協会内部でも軽んじられた男子バレーボールチームだったので、一般の観客に広まる訳も無かったのだ。
 
ただ、オリンピック後に代表監督に就任した松平康隆氏は、この忌々しき事態に危機感を感じていた。折角、苦労の末に銅メダルを獲得したのに、このままでは男子バレーボールは世の中に忘れられてしまうと思ったのだ。
そこで打ち出したのが、8年後のオリンピックで金メダルを狙えるチーム作りだった。その裏には、東京オリンピック招致が成功してわずか5年で銅メダルを獲得出来たので、8年掛ければ何とかなるとの松平氏の自信の表れでもあった。
そこで松平氏は、東京オリンピックのメンバーの内、若手の長身エーススパイカー南将之選手、チームの要で名セッターに成長する猫田勝敏選手、中型だったが人一倍元気者でムードメーカーの中村祐造選手を残し、選手の“超大型化”を図った。
その他の現有選手は、松平氏の構想を一番理解しているとのことで、コーチはトレーナーに転換させた。その構想の中で、大古誠司・森田淳悟・横田忠義といったビッグススリーが誕生した。
 
松平氏の“超大型化”は、ただ長身選手を集めることではなかった。兎角、180cmを超えると動きが鈍くなる日本人特有の弱点を補強する為、長身選手を徹底的に鍛え選抜した。その中で、
「倒立(逆立ち)で9m歩けなければ、オリンピックに連れていかない」
と、奇抜な宣言をした。倒立を維持する腕力だけでなく、9m移動出来るバランスを重視した為だった。
困ったのは、ビッグスリーの中で最も体重が重かった大古選手(194cm100kg)で、苦労の末やっと達成するありさまだった。しかしそのお蔭で、以前よりも無理な態勢からのスパイクが可能となり、対戦相手にとって脅威となった。
 
男子バレーボール日本代表チームは、東京オリンピックの8年後のミュンヘン大会で、悲願の金メダルを獲得した。その頃になってやっと、バレーボールは日本でもメジャーとなり、女子だけでなく男子も注目される様になって来たのだった。
 
その間の松平氏の活躍は、監督としての選手強化に留まらず、バレーボールを人気競技にしようと数々のアイデアを提供するプロデューサーとしての側面にまで至った。
例えば、練習に励む選手の脇で、流暢にインタビューに答えていた。また、松平氏の発案で、『アニメドキュメンタリー ミュンヘンへの道』が制作され、ゴールデンタイムで放映された。この番組を見ていた私(当時中学2年生)等は、ミュンヘン大会では、バレーボールは金メダルを獲るものだと信じ切っていたほどだった。
代表監督を退いた後の松平氏は、協会の役員となった。今度は役員の立場で、バレーボール中継の解説等もこなしていた。それも、代表レベルの試合ばかりではなく、高校バレーの試合にまで及んだ。その解説は実に丁寧でポジティブで、観ている観客は試合より松平氏の解説を楽しみにしたものだった。
現在、バレーボール中継でよく見掛けるジャニーズ所属のアイドル登場だが、これも発案したのも松平氏だった。
 
この様に、松平隆康氏の功績は、単に金メダルを獲得した監督だけではなく、世界中のバレーボール界人気の基礎を作ったと言っても過言では無かろう。
松平氏は、その苗字から想像できる通り徳川時代の家老の末裔だ。東京生まれで慶應義塾大学卒という経歴から、言動自体が実にクールでスマートだった。超長身選手と一緒だったので、すごく身長が低く感じられたが、175cmあり当時としては小柄な方ではなかった。
私達男の子は、選手よりも松平氏の方が憧れの大人として認識していた。
 
そんな松平氏だが、2011年の大晦日に肺気腫が原因で亡くなった。2012年は、衝撃のニュースで明けた。丁度、オリンピック・ロンドン大会の年だった。
そして、今年の東京オリンピックで、松平氏の名解説を聞くことが出来ないのは誠に残念だ。
 
東京オリンピックから、4大会連続で日本バレーボールチームのセッターを務めた猫田勝敏選手。金メダルを獲得し、世界中の有名選手と為った後の1983年、39歳の若さで胃癌に侵され亡くなった。
現役引退直後で、所属チーム(現・JT)の監督しか務めていなかったので、猫田氏の代表チームでの監督姿を見ることは出来なかった。そればかりか、解説をする間も無かったので、世界一のセッター目線での話を、私達は聞くことが出来なかった。
本当に、残念なことだ。
 
半年後に迫った、二度目の東京オリンピック。
松平隆康氏と猫田勝敏氏は、天国からどんなサインを日本チームに送って下さるのだろう。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-02-10 | Posted in 2020に伝えたい1964

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