2020に伝えたい1964

日本サッカーの奇跡は、東京でも有った。その32年前も!《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

オリンピックに於ける日本サッカーといえば、先ず思い付くのはオリンピック・メキシコ大会での銅メダル獲得だろう。また、若い方々なら、1996年のアトランタ大会で繰り広げられ世に『マイアミの奇跡』として語り継がれる、グループリーグ第1戦の日本対ブラジルが記憶に新しいところだろう。
 
実のところ日本のサッカーは、1964(昭和39)年の東京オリンピック当時マイナー競技の一つだった。その証拠に、まともな専用サッカー場すら無かった。陸上との兼用競技場や球技場と称したグラウンドはあるには在ったが、その殆どが土のグラウンドだった。芝生が整った場所と言えば、競馬場かゴルフ場、そして野球場の外野と国立競技場(霞ヶ丘)程度だった。
但し、芝生が整ったといってもこれは国内標準の話で、冬場になると競馬場の芝生は枯れたし、大半のゴルフ場は冬場にはクローズしていた。国立競技場の芝生も、御多分に漏れず冬場は枯れて、子供だった僕等はそれが当然と思っていた。
しかしその感覚は、当時でも国際標準からは大きく遅れていた。
サッカーのレジェンド、ブラジルのペレ選手が来日した時、こんなエピソードが残っている。
世界的大スターの来日なので、記者会見は旧・国立競技場のグラウンドで行われることになった。予定通り会見が終了したが、ペレ選手は不思議像な表情で、
「ところで、サッカーコートはどこだ?」
と、聞き返してきた。通訳が、貴方が立っている此処がグラウンドだと答えると、
「ここがグラウンドだと? 芝生のグラウンドは日本には無いのか?」
と、訴えてきた。ペレ選手には、暖地型の日本芝が、冬は冬眠することを御存知無かったのだ。芝の冬眠は、枯れているのではないことも。
 
そんな時代だったので日本のサッカーは、世界中で多く行われている競技にもかかわらず、レベルは決して高くなかった。高校や大学の選手権、社会人チームによるリーグ戦は行われていたが、注目度は低かった。今でも元日に行なわれている天皇杯も、国立競技場で開催される様になったのも、テレビでライブ中継が行われる様になったもの、1964年の東京オリンピック以降のことだった。
したがって、当時5歳がった私は、サッカーに対する記憶が非常に乏しい。それでいて、オリンピックに於けるサッカーを語りだすと熱くなってしまうのか。それは、オリンピック・メキシコ大会での日本代表チームの、銅メダル獲得という活躍が有ったからだ。
 
1968(昭和43)年当時、オリンピックではアマチュア意識が厳格に審査されていた。そこで戦後になって、アスリートを国家公務員としている東側(共産圏)国家のステートアマが、問題視される様になった。ステートアマとは、読んだ通り、ステート(国家)のアマチュア資格のことだ。
厳格なアマチュア規定の為、プロ化されていたサッカーでは、一流選手はオリンピックに出場することが出来なかった。現に、ワールドカップの出場常連国が、オリンピックでは苦戦の連続だった。特に、プロ選手が出場する様になる前の、1952年ヘルシンキ大会から1980年モスクワ大会まで、西側諸国がサッカーで獲得したメダルは、1952年ヘルシンキ大会のスウェーデン(銅メダル)、1960年ローマ大会のデンマーク(銀メダル)、それに、1968年メキシコ大会の日本(銅メダル)だけだ。
その中で、日本の銅メダルは3位決定戦で地元のメキシコを破った快挙で、子供心にも非常に誇らしかった。しかし、この銅メダルを日本では当時から誰も“奇跡”とは言わなかった。勿論、試合場の名前を取って『アステカの快挙』という表現は有った。その理由に関しては、もう少し調べてみたいので、お待ち頂きたい。
 
1996年アトランタ大会の『マイアミの奇跡』は、東京オリンピックの頃と違って、日本サッカーもプロ化されており、その上、情報も格段に集められていた。その結果、対ブラジル戦でも事前予想では、何とか引き分けに持ち込めるのではないかとの結論も出ていた。こちらも、もう少し時間が欲しいところだ。何故なら、その時迄にはサッカーを観慣れていた私には、この勝利は奇跡では無く必然だと感じるからだ。
 
1964年の東京オリンピックを遡(さかのぼ)ること28年、オリンピック・ベルリン大会に日本のサッカー界は代表チームを送り込んだ。オリンピック自体に参加国が少なく、予選の概念が無かった当時、問題は代表チームを如何に編成するかだったらしい。
社会人チームが無かった時代、大学の強豪チームを中心に代表チームとすることが最適と結論が出た。急場しのぎであったが、協会は何とか形を整えたチームをベルリンに送り出した。体育協会からの旅費を補填する為、代表チームを応援する浴衣や手ぬぐいを販売したそうだ。今日のグッズ販売につながる先進的な行動だった。
 
そんな努力のお蔭か、日本代表チームは短期間にヨーロッパで主流になりつつあるフォーメーションをマスターし、その上で、体格が劣るチームの定番ともいえるショートパスを多用する戦法を取った。これで、日本人特徴である機敏さを前面に押し出すことが可能となった。
その結果、泡沫参加(次の1940年、東京大会成功の為の参加)国と思われていた日本が、トーナメント1回戦で、優勝候補筆頭のスウェーデンを破る快挙を成し遂げた。
ヨーロッパ各地の新聞は、
『不可能なことが起きた』
『こんな結末を誰が想像出来ただろうか』
『美しく正々堂々とした戦いだった。日本の戦いぶりが歓喜を呼んだのだ』
と、祝福しつつ報じた。実際、両チームの写真を見ると、大人と子供以上の体格差に、思わず絶句してしまう程だ。
その中での快挙なので、1936年のベルリン大会は奇跡に他ならないだろう。
 
そして、1964年の東京。
今考えると、56年前の日本で、2週間のオリンピック開催期間中にリーグ戦方式の予選と、決勝トーナメントを欠けることなく開催出来たことが奇跡というべきかもしれない。
その例として、先にも記したが、まともなサッカー場等どこにも見当たらなかったからだ。実際、試合会場として国立と駒沢の陸上競技場のフィールドが用意されたが、これだけで間に合う筈は無かった。応急処置として、国立競技場と同じ神宮外苑内に在る秩父宮ラグビー場を使うこととなった。ここなら、オリンピック期間中は縦横に使用可能だったからだ。
ところが、実際に試合をする選手には不評だった。それはそうだろう。第一、ラグビー場とサッカー場では、芝生の深さ(ラグビーは深め)が違うからだ。しかも、秩父宮ラグビー場を訪れた方ならお気付きと思うが、グラウンドは両タッチラインに向かって傾斜が付いているのだ。その傾斜は、雨天でも試合を行うラグビーという競技の特徴を補う為、水捌(は)けを良くする目的で付けられている。
水溜まりを使ってボールを止めるサッカーと、水の上ではスクラムを組むことが出来ないラグビーとは、根本的な違いも有るのだ。
秩父宮ラグビー場を割り当てられ選手は、必ずタッチを割ってしまう両サイドのスルーパスを使えずゲームを組み立てたそうだ。
最終的には、冬眠しかかっている日本芝のグラウンドを休憩させる為、横浜の三ツ沢蹴球場(現・三ツ沢公園球技場)と、埼玉の大宮蹴球場(現・さいたま市大宮公園サッカー場)が追加された。
 
日本サッカー界は、オリンピックの東京承知が成功して直ぐの1960年、ドイツからデットマール・クラマー氏をコーチ格の顧問として招聘した。後に、“日本サッカーの父”と称されるクラマー氏は、2005年に制定された『日本サッカー殿堂』の第一回受賞者となった。
クラマー氏の教えは、選手に寄り添った実践的教えで、特にインステップキックやインサイドキックといった基礎の練習を、選手には徹底させた。
当初は、開催国として恥かしくない試合をする為(壊滅的結果とならない為)招かれたデットマール・クラマー氏だったが、熱心な基礎練習の結果、予選リーグで強豪のアルゼンチンを破る快挙を達成する。いうなれば、『駒沢の奇跡』だ。
1964年10月14日(水曜日)午後1時、駒沢競技場で行われた対アルゼンチンの予選を、5歳の私はテレビで観戦している。確か、幼稚園のホールで、数人の園児仲間と応援したと記憶している。
子供にも解り易いルールのサッカーは、私を直ぐに興奮の領域に近づけた。テレビの中継も、初めは冷静に伝えていたが、徐々に熱を帯びてきて、後半36分の川淵選手(三郎・初代Jリーグチェアマン)による同点ゴールシーンでは、これまでない大声で実況していた。
 
東京オリンピック終了後、任期を終えドイツに帰国する際、出っとマールクラマー氏は、
「強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
コーチ制度の確立。
芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
国際試合の経験を数多く積むこと。代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること。
高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと」
と、提言を残したという。
 
その、提言を忠実に守ったサッカー日本代表は、4年後に大輪の花を咲かすこととなるのだった。
 
来年に延期された東京オリンピック。何等かの奇跡が起きる気がしてならない。
 
 
 

【今後の掲載について】
お楽しみ頂いている『2020に伝えたい1964』ですが、文中にも記しました通り、東京オリンピック延期の決定により、本来の形を続けることが困難となりました。
4月に掲載予定している記事は、そのままで行こおうと存じます。
それ以降に関しましては、READING LIFE編集部と相談の上、予定を変更させて頂くことになります。詳細は、逐次報告させて頂きます。
どの様な形にせよ、東京オリンピックが開幕するまで、完遂する所存で御座います。
(山田将治)

 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-04-13 | Posted in 2020に伝えたい1964

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