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2020に伝えたい1964


一つの時代が終わった大会(1972年ミュンヘン大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)

〔始めに〕
前回、お知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、今号より1年間、本連載のエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていきます。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!

 
  
私が13歳の中学2年生だった1972年、当時の西ドイツのミュンヘンで第20回近代オリンピック大会が開催された。
1972年といえば、東西冷戦真只中の時代で、西ドイツの正式名称《ドイツ連邦共和国》を覚えているのは、当時に受験を経験した者の特徴だ。これは余談だが、
『大戦後、分断された国家をあげよ』
等の問いに、即時、
『中国、朝鮮(韓国)、ベトナム、ドイツ』
と、入試では答えねばならなかった。因みに、トラップとして、
『パキスタン』
という誤答が有る。ミュンヘン大会の直前(1971年12月)まで、現在のバングラデシュはパキスタンと同一国家で、インドを挟んだパキスタン東部地域を通称として『東パキスタン』と呼んでいただけのことだ。バングラデシュは後に、パキスタンから分離独立して出来た国家なのだ。
尚、今後の受験生の為に記すと、現在のドイツ(東西が統一された)は、ソビエト連邦の影響下にあった旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)が、旧西ドイツに編入された形になっている。従って、正確には『ドイツは統一された』ではなく、『東ドイツが吸収されて統一国家となった』となる訳だ。ただ、国家統一はドイツ国民の念願だったので、首都機能を西ドイツ時代のボンから、旧来と同じベルリンに移動する大事業と莫大な手間やコストを、ドイツは負担することとなったのだった。
またこの頃すでに、西側ヨーロッパ随一の経済国であった西ドイツは、アメリカ・日本と共に、自由経済圏の主要国になっていた。そして大戦後の混乱からの立ち直りは、日本と並び称される程でもあった。
 
こんなユダヤ・ジョークが有る。
ドイツを分断するベルリンの壁を前に、物思いにふけっている中年の東洋人に、現地ベルリン在住のドイツ人の同年代男が、
「もしかして、日本人か?」
と、問い掛けた。そうだと日本人が返答すると、そのドイツ男は周りを見渡しながら近付き、小声で、
「御互いに戦争に敗れたお蔭で苦労したな。でも、こうして復興出来たことは、大いに胸を張ろうじゃないか」
と、言ったそうだ。さらに続けて、
「ここだけの話だけど、次はイタリア抜きで戦おうな!」
と、言ってのけた。
私の好きなジョークだ。
 
私が何故に、ここまでこだわりを持ってしまうかというと、オリンピック・ミュンヘン大会は、第二次世界大戦の残像が残る分断国家で初めて行われた大会で有るからだ。1960年のローマ、64年の東京と、2大会続けて枢軸国(敗戦国)でのオリンピックは開催された。残るはドイツだけだった。
1936年に旧ドイツ帝国の首都ベルリンでオリンピックが開催されていたが、それは戦前の話だ。しかもベルリンは、1916年の第6回大会開催地に決定(第一次世界大戦の為中止)していた。
そこで、このミュンヘン開催は、一つの時代にケリをつけた形となった大会でもあったのだ。
 
また、私の成長と同期して情報の国際化が進み、国際情勢に興味を持ち始めた中学生は、ことの外、思い出深いオリンピックとなった。
その上、同じ1972年2月に札幌でアジア初の冬季オリンピックが開催された。
ノルディックスキーのジャンプで、日本初の冬季オリンピック金メダル獲得もあり、冬場のことだったので、連日のテレビ中継は驚異的な視聴率を記録していた。
冬季オリンピック札幌大会の後、NHKを中心にオリンピック・ミュンヘン大会を盛り上げる“番宣的”番組が、数多く放送された。8年前にオリンピックに出会い、類を見ない『オリンピック馬鹿』に成長してしまった私は、同じドイツで開催されたオリンピック・ベルリン大会、その中でも『がんばれ前畑!』で知られる前畑秀子さんのエピソードに感動し、遂に、3年半前には『44年前の記録、さらに、36年目の歓喜(「ガンバレ!」の代名詞)』という記事を書いてしまう程に成長出来ていた。
 
このオリンピック・ミュンヘン大会は、後に『ミュンヘンオリンピック事件』として記憶されている、パレスチナゲリラによるイスラエル選手団襲撃事件が起こってしまった。この、計15名が命を落としたオリンピック史上最悪の悲劇は、当時の中学2年生には衝撃と共に今後学び語り継がねばならない多くのことをもたらした。何しろ、聖書に出て来る問題が、2000年の時を経ても解決していないことと知ったからだ。
私は、8年前の東京オリンピック当時、多くのことを教えてくれたお兄さん(通っていたキリスト教系幼稚園の園長先生の御長男)を訪ね、再び多くのことを質問させて頂いた。彼は、上智大学神学部を卒業後、横浜の教会で牧師をされていた。
夏休み最終盤の月曜日、横浜の小高い丘に建つ協会を訪ねた私を、牧師さんは快く招き入れて下さった。そして、
「先ずは祈りなさい」
と、教会の祭壇の前に跪(ひざまづ)かせた。
「2000年の歳月を経ても、何故、争いが止まないのか」
私の問いに、悲しい顔の牧師さんは、
「それでも時代は動いている。争いを止めるのは、互いの信頼だけだ」
と、中学生には理解しきることが出来ない、哲学的な言葉で答えて下さった。苦渋に満ちた言葉を選んで下さった牧師さんは、その時も私にとっては頼れる兄貴分だった。
この『ミュンヘンオリンピック事件』に関しては、ユダヤ系アメリカ人である映画監督スティーブン・スピルバーグが、『ミュンヘン(MUNICH)』という作品で克明に描いている。是非、機会が有ったら御覧頂きたい。
 
暗い話が続いてしまうが、このオリンピック・ミュンヘン大会では、出場選手のアマチュア規定問題が、大きくクローズアップされた。
それは、東西冷戦当時西側諸国のリーダー的存在のアメリカ合衆国が、金メダル&メダル総獲得数で、首位の座を戦後ライバルにのし上がって来たソビエト連邦に明け渡した大会でも有ったからだ。
また、以前からスポーツ大国であった開催国の西ドイツも、分断されていた東ドイツにメダル獲得数で敗れるという結果になった。もっとも、東京オリンピックと同じ様に“統一ドイツ”として出場していたならば、金メダル数ではアメリカと同数で2位、メダル総数では断トツの世界一ではあった。
この、ソビエト連邦と東ドイツの躍進が、オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタン男爵の信念であった“アマチュア選手の祭典”という、オリンピック基本精神を大きく揺るがすこととなった。勿論、1972年のオリンピック・ミュンヘン大会には、プロの運動選手の出場は認められていないし、実際に出場はしていない。
ところが、社会主義国家である東側諸国の選手は、その競技活動(練習やトレーニング)しか行っていない国家公務員(“ステートアマ”と呼ばれていた)が殆どだった。これでは、西側諸国や発展途上国のプロ選手と同じではないかとの声が上がった。その典型的例が、男子バスケットボールで、学生を中心にチームを編成したアメリカ合衆国が、バスケットボールが正式種目としてオリンピックに採用されてから初めて金メダルを逃す結果となったからだ。ソビエト連邦との争いとなった決勝戦では、終了間際の不可解な判定(試合時間を3秒伸ばした)に抗議したアメリカ選手団が、表彰式をボイコットする後味の悪い結果となった。
こうした“ステートアマ”問題は、2年後のIOC総会で討議され、正式にオリンピック出場資格の項目から、アマチュアが必須とする条項を削除されることが決まったのだった。ただしその後、紆余曲折(後述)が有り、プロの競技選手がオリンピックに出場することになるのは、1992年のオリンピック・バルセロナ大会からとなるのだった。
 
ミュンヘン大会に出場した日本選手団は、3大会連続して2桁の金メダルを獲得する活躍を見せた。その要因の一つに、2大会ぶりに正式種目となった柔道の存在が大きかった。また、御家芸の体操やレスリング(当時は男子のみ)も強かった。そして何といっても、男子バレーボールチームが、大苦戦となった準決勝で、対戦相手のブルガリアを辛くも振り切り、結果的に金メダルを獲得したことに注目が集まった。日本全体が、興奮すると共に安堵したものだった。
陸上競技では、マラソンの君原健二選手の5位入賞が有ったものの、世界との差が一段と開いた感じがした。
東京・メキシコを不振だった水泳競技では、男子100m平泳ぎで田口信教(のぶたか)選手が、女子100mバタフライで青木まゆみ選手が、久々の金メダルを獲得した。特に、青木まゆみ選手の金メダルは、ミュンヘン大会の36年前のベルリン大会での前畑秀子さん以来となる女子選手の金メダルだったので、私は個人的にとても印象に残っている。
 
こうして、大きな社会問題と事件や数々の歴史的矛盾が表面化したのが、このオリンピック・ミュンヘン大会だった。私の個人的には、大会前の素晴らしい思い出と共に、時代の節目の一つを実体験し、大きく成長出来たオリンピックでもあった。
 
こうして私は、稀に見る“オリンピック馬鹿”として邁進する道を選択したのだった。
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち 
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-06-22 | Posted in 2020に伝えたい1964

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