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2020に伝えたい1964


掲示板の表示枠を超えて、白い妖精が舞い降りた(1978年モントリオール大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)

〔始めに〕
先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!

 
 
1976年7月17日に開幕した第21回近代オリンピック・モントリオール大会。
当時17歳で高校3年生になっていた私には、大変有り難い開催期間だった。それは丁度、試験休みと夏休みに入っていたからだ。
カナダの大都市モントリオールは、時間帯がアメリカ東部標準時間と同じで、日本との時差は、ほぼ半日(12時間)。但し、日付変更線を越えるので、実質的には日本が半日進んでいる状態だ。
進もうが遅れ様が関係無い。私は、昼夜逆転という休み中の学生特権を存分に使い、連日深夜から早朝、時には日本時間の午前中に掛かる時間まで、リアルタイムでモントリオール大会を観戦し応援し続けた。
何のことは無い。オリンピック馬鹿には、当然過ぎる行動だった。
 
 
オリンピック・モントリオール大会は、初もの尽くしの大会だった。
先ず、開催国カナダは、近代オリンピック初の金メダル無しに終わってしまった。これは、オリンピック招致に力を使い過ぎ、選手強化が後手を踏んだことと、共産圏諸国のステートアマの躍進と考えられている。実際、金メダルを含む獲得数で、トップか2位が殆どだったアメリカが、一気に3位に迄(1位ソ連、2位東ドイツ)転落したことでも明白となった。その時点では、中国の参加が叶ってなかったのに。また、この時点で初めてドーピング問題が、表面化した大会でもあった。
そして、今日でも問題となっている、オリンピックの開催費用が一気に嵩(かさ)む問題も起きた。これは、実施競技の増加や参加人数の増加が主な原因であったが、競技施設の改修や新設も含めると、オリンピック・モントリオール大会に関わる負債は約1兆円に上ったとされている。その負債は、開催都市であるモントリオール市の負担となり、30年後の2006年にやっと完済したと言われている。
 
暗い話題ばかりの“初もの尽くし”だが、微笑ましい話題も有った。
これはクイズによく出されることですが、
「日本のオリンピアンの中で、後に初めて内閣総理大臣に就任した人は誰でしょう」
と、いうものが有る。答えは、2008年に第92代内閣総理大臣に就任した麻生太郎氏(現・財務大臣、副首相)。オリンピック・モントリオール大会当時、36歳で、クレー射撃に出場し41位の成績を残している。
注目されるのは、当時の麻生氏の肩書だ。厳密にアマチュアを守っていた日本選手団は、選手紹介の際に所属する企業や学校名を併記していた。選手の多くは、スポーツで有名な大学や、ノンプロチームを運営していた所属企業名を肩書としていた。勿論、練習の傍ら、学生は学業に社会人は通常業務についていたのだった。
そこで、麻生太郎氏が所属していたのは『麻生セメント』と記録が残っている。社名で解かると思いますが、この会社は麻生家の家業で、麻生太郎氏は当時、代表取締役を務めていた。
元々、クレー射撃という競技は、大変の金が掛かる競技で、練習施設も限られている上に“4tトラック1台分(の散弾)”を撃つほど練習しないと、オリンピックには出られないと言われる競技だ。御金持家系の麻生氏だからこそ、成し得たともいえるだろう。
 
もう一問、クイズを。
「近代オリンピック史上、唯一、性別検査を受けなかった選手は誰でしょう」
答えの前に、少し解説を。古代オリンピックは、男性の‘戦士’しか参加が許されていなかった。しかも、武器を隠し持たぬ様、全裸で競技した。
近代オリンピックが検討され始めた20世紀直前では、古代オリンピックと同じとは行かず、選手はウエアを着用しての競技となり、女子選手も参加する様になった。
ただ、男性が偽って女子競技に出場することを防ぐ為、性別検査(セックスチェック)を女子選手にだけ義務化された。そんな参加女子選手の中でただ一人、性別検査を受けなかった選手が居るのだ。
それは、オリンピック・モントリオール大会の馬術競技に出場した英国のアン王女。このプリンセス・ロイヤルは、幼い頃から馬術が得意で、1973年には馬術が縁で知り合った、オリンピック・ミュンヘン大会団体馬術の金メダリストの英国陸軍将校と結婚した。結婚後も夫と二人三脚で練習し、国際大会でも活躍する様になった。そして、オリンピック・モントリオール大会の英国馬術チームの一員となった。
本来なら、性別検査を受けなければならいが、開催国カナダの国家元首でもあった(当時)エリザベス女王の王女ということで、検査を免除された。一説には、アン王女の王位継承順位が、弟のアンドルー公爵やエドワード侯爵より低いということで証明されたといわれている。
アン王女に関して、もう一つの“初もの”を定義するなら、
『史上初、開催国国家元首の子供がオリンピックに出場』
と、いうことになるだろう。これは、1992年のオリンピック・バルセロナ大会に続くことになる。
 
 
「コマネチ!」
これを聞いて、大多数の方はビートたけし(北野武)のギャグを思い浮かべることだろう。
50歳以上の方なら、ルーマニア女子体操のナディア・コマネチ選手が、その原型であることを御存知だろう。ルーマニアのレオタードが純白だったことから『白い妖精』と呼ばれたコマネチ選手は、史上初めて競技点数の電光掲示板を突破したことでも知られている。
1976年当時、体操競技の演技点は10点満点で採点されていた。従って、オリンピックの体操を観慣れて来た私でも、“9.95”が最高点と思い込んでいた。それは、競技施設を作る側も同じで、体操競技場の得点掲示板は、小数点以上は一桁しか表示枠が無かったことでも解かるのだった。‘完璧’は、想定されていなかったのだ。
1976年7月21日、体操の競技会場であるモントリオール・フォーラムに登場したナディア・コマネチは、平均台と段違い平行棒で異次元の演技を見せた。それは、これが4回目の女子体操競技を観ることになった私にも、十分にその違いが理解出来た。ノーミスに観えた演技だったが、私を含めた世界中の観客は、電光掲示板に“9.95”の表示が出るものと期待し待っていた。
ところが、表示された点数は“1.00”だった。それはそうだろう、掲示板製作時には、まさか10点が出るとは誰も想定できなかった筈だから。
呆気にとられる観客をよそに、テレビのアナウンサーは、
「出ました! 10点です!!」
と、興奮気味に叫んでいた。どうやらNHKの中継アナウンサーは、コマネチ選手の完璧さに10点満点を想定し、事前に審判団に取材して置いた様だった。そうでなければ、あんな自然に10点満点を受け入れられる筈が無いからだ。
何と言っても、史上初の満点なのだから。
 
大変だったのは、2日後に一学期の終業式を迎えた高校三年生(しかも男子校)の私達だった。終業式当日の話題は、自分の成績等どこへやらで、ナディア・コマネチ一辺倒だった。ヨーロッパ人らしい、金髪碧眼の白人少女は、自分達とさして変わらぬ年齢だったので、人気は一入(ひとしお)だった。
ところが、コマネチ人気は二分された。アイドル好きの連中は、
「こんな可愛いオリンピック選手は観たことない」
と、絶賛した。
その一方で、少し背伸び気味の連中は、コマネチの目の下にクッキリと残るクマを見て、
「不健康そう。小学生みたいな身体。角兵衛獅子(子供の大道芸)みたいで悲惨」
と、ネガティブな反応を見せていた。
私は、同じ東欧でもチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ選手を贔屓にしていたので、後者の反応だった。
それでもナディア・コマネチ選手は、このモントリオール大会を語る上で、真っ先に名前が上がる存在だったことは間違いない。
 
 
日本選手団も、数々の史上初の快挙を達成した。
先ず何と言っても、男子体操団体でローマ大会から続く、初の5連覇の偉業が挙げられる。惜しくも加藤沢男選手の、個人総合3連覇は絶たれたが、それでも空前絶後の偉業だった。
そして、東京大会以来となる金メダルに輝いた女子バレーボールチームも、圧巻の強さを発揮した。なにしろ、予選リーグ・決勝トーナメントを通じて5試合すべてを1セットも落とさぬストレート勝ちした。これは史上初のことで、特に決勝戦の対ソビエト連邦の最終セット等、15-2(当時は15ポイント制)と圧倒してみせた。
 
念願の“初もの”もあった。それは、東京大会の柔道無差別級で、神永昭夫選手がオランダのアントン・ヘーシンク選手に敗れた時からの悲願の金メダルだった。
柔道発祥の国の威信を掛けて、日本では体重無差別級の金メダルを切望していた。ところが、正式競技となった前回のミュンヘン大会でも、日本は無差別級を含む重量級で金メダルを逃していた。
悲願を託されたのは、重量級の柔道選手としては小柄(公称で身長174cm。一説には169cm)な上村春樹(うえむらはるき)選手だった。明治大学で神永氏の指導を受けた上村選手は、メキメキと実力を上げオリンピック・モントリオール大会の前年には、毎年4月29日の天皇誕生日(当時。現・昭和の日)に開かれる全日本柔道選手権で優勝する。オリンピック直前、翌年の同大会では準決勝で当時注目の大学生だった山下泰裕選手に苦戦した挙句、決勝戦では1歳年長のライバル、警視庁所属の遠藤純男選手に敗れた。
それでも、畳上での美しい立ち姿を評価された上村選手は、モントリオール大会の柔選手団に加えられた。但し、遠藤選手に次ぐ2番手の扱いだった。
1976年7月30日、先に畳上に現れたのは遠藤選手だった。93kg超級の闘いだ。そこには、最重量級の93kg超級と無差別級のいずれかに出場する、ミュンヘン大会93kg級金メダリストのショータ・チョチョシビリ選手(ソ連)を避ける作戦があった。
ところが、予定通りに事は運ばないもので、チョチョシビリ選手を避けて確実に金メダルを狙った遠藤選手は、準決勝で敗れ銅メダルに留まった。
モントリオール大会の前年に行なわれた柔道世界選手権の無差別級準決勝で、上村選手はチョチョシビリ選手と対戦している。テレビ中継されたその試合は、大きく内股で投げ飛ばされた上村選手が、勢い余って倒れたチョチョシビリ選手の上に落ち、そのまま押さえ込み勝ちしたラッキーなものだった。両者気絶したままの凄惨な試合だったが、その実力差は明らかに感じられた。
7月31日(現地時間)に行なわれる柔道無差別級のトーナメント表が決まると、多くの日本人ファンは、今回も無差別級は良くて銅メダルと落胆した。何故なら、上村選手は順当なら準決勝で、前年投げ飛ばされ気絶したチョチョシビリ選手と当たることになったからだ。しかも、上村選手は一回戦で、身長2m10cmの長身選手と当たることになっていた。12年前の日本武道館で、師匠の神永選手が大柄なオランダ選手(ヘーシンク)に敗れた記憶が残る私は、テレビ画面を直視出来ずにいた。それでも師匠の教えを忠実に守った上村選手は、師匠の得意技の大内刈りで見事に一本勝ちした。
現地時間夕刻に始まった無差別級準決勝では、勝ち上がって来たチョチョシビリ選手に対し巧みに技を封じ続け、自らは技を掛け続けて優勢勝ちを勝ち取った。この7分間は、実に長かった印象が私には残っている。
そして決勝戦。自信を増した上村選手は、対戦相手の英国選手を大内刈りからの寝技で一本勝ちを収めた。日本初、柔道無差別級での金メダルだった。
 
 
日本以外でも“初もの”が多かった。
陸上男子100mでは、オリンピック史上初めてアメリカ選手が表彰台から消えた。前回のミュンヘン大会では、信じられないポカ(有力選手が予選に遅刻)が有り、銀メダルに終わったアメリカ陸上選手団だったが、選手の世代交代が上手くいかなかった今回は、完全に力負けし4位が最高だった。
しかも、金メダルをトリニダード・トバゴの選手が、銀メダルをジャマイカの選手が獲得し、共に自国初のメダル獲得となった。私達日本人は、初めて地図帳や地球儀が必要となった表彰式だった。その頃は日本人の誰もが、トリニダード・トバゴやジャマイカの位置を知らなかったからだ。
 
競泳競技の“初もの”といえば、アメリカのジム・モンゴメリー選手が、100m自由形で人類初の49秒台を叩き出した。モンゴメリー選手は、身長190cmの恵まれた体格と35cmあった大きな足を有効に使おうと、それまでの4ビート泳法(腕の1ストロークの間に4回足を打つ)を8ビート泳法に変えていた。その豪快に波しぶきを上げる泳法は、“人間魚雷”と称された。
男子競泳競技では、アメリカが圧倒的に強く200m平泳ぎを除く全競技で金メダル、それもほとんどが金・銀独占で獲得した。競泳での金メダル獲得数は、史上最高だった。
 
女子の競泳では、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が強く、特に私と同学年だったコルネリア・エンダー選手が、4個の金メダルと1つの銀メダルを獲得した。勿論、史上初の偉業だった。
ただ、初めてだったのはこれだけではなかった。
男子選手を凌ぐ体躯だったコルネリア・エンダー選手のことを、ライバルのシャーリー・ババショフ選手(アメリカ)が、
「あんなの、女の子の身体じゃ無い」
と、公然と批判した。批判したのは、エンダー選手のことだけでは無く、東ドイツの国ぐるみで疑われたドーピングについてだった。
選手によるドーピング批判は、史上初のことだったので大きなニュースになった。
さらに、モントリオール大会の直後、コルネリア・エンダー選手が18歳の若さで、同じ東ドイツの競泳メダリスト、8歳年上のローランド・マッテス選手と結婚するとの報道に、
「共産圏では、結婚までドーピングとして使うのか」
と、非難の標的にまでなってしまった。
 
 
そんな後味の悪い“初もの”も有ったオリンピック・モントリオール大会。
しかし、最後の平和な大会でもあった。
 
何故、最後の平和だったのか、私はそれを4年後、目の当りにするのだった。
 
 
《以下、次号》
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち 
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-07-27 | Posted in 2020に伝えたい1964

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