2020に伝えたい1964


ワレンティナが一緒なら、追い付ける気がしていた(1996年アトランタ大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》


2020/12/28/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)

〔始めに〕
先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!

 
 
「また、アメリカなの!?」
私がそう思ったのは、第26回近代オリンピック・アトランタ(ジョージア州・USA)大会が開かれる6年前のことだ。
1990年に開かれたIOC(国際オリンピック連盟)総会は、1996年の第26回大会の開催地を決める会合だった。総会は、東京で開かれた為、日本のニュースはトップで投票結果を伝えた。
1996年といえば近代オリンピックが、フランスのクーベルタン男爵の提唱によって、ギリシャのアテネで始まってから丁度100年目の節目だ。総会前には、立候補していたアトランタ(USA)・ベオグラード(ユーゴスラビア)・メルボルン(オーストラリア)・トロント(カナダ)・マンチェスター(英国)に比して、アテネが頭一つ抜けているとの前評判だった。
東京で開催されていた為、テレビでは開催地決定の投票を、ライブで中継していた。
 
オリンピック開催地決定の投票は、最下位になった都市を振り落とす方法で、5回にわたって行われた。始めは、本命と目されていたアテネが順調に票を集めていた。ところが、徐々にアトランタが差を詰め、遂には逆転し開催地に決まった。
冒頭の私の言葉は、その瞬間出たものだ。何しろ、総会の僅か6年前に同じアメリカ合衆国のロスアンゼルスで、オリンピックが開催されたばかりだったからだ。
“同じ国での開催が続いているのでは”との疑問に、アトランタ大会組織委員会会長で、ゴルフのマスターズ・トーナメントが毎年開かれることで名高いオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ会長でもあるビリー・ペイン氏は、
「アメリカは広い。西部と南部では、別の国だ」
と、言ってのけた。既に社会人に為っていた私は、
「これはきっと、コカ・コーラの資本力が、背景に在るに違いない」
と、深読みする様に為っていた。
 
1996年7月19日、第26回近代オリンピック・アトランタ大会は、新装されたオリンピック・スタジアムで開会式を迎えた。
時間が真逆の日本で私は、眠い目をこすりながら開会式を観ていた。それは、この大会の聖火最終ランナーが発表されていなかったからだ。私は密かに、最終ランナーは、メキシコ大会のボクシング・ヘビー級の金メダリストで、アトランタ大会当時、45歳にしてプロの世界チャンピオンに復活君臨していたジョージ・フォアマン選手だと信じて疑っていなかったからだ。
 
アテネからリレーされて来た聖火は、ソウル大会とバルセロナ大会の金メダリストで、アトランタ大会にも出場していた競泳のジャネット・エバンス選手によって、競技場に運ばれてきた。
この先、フォアマン選手に引き継がれ聖火台に点火されるものと、私は信じ待っていた。
ところがだ、私の想像通り聖火台下まで走って行ったエバンス選手は、手が震えている大きな男に聖火を引き継いだのだ。
 
「アリだ!!」
私は、早朝にもかかわらずテレビの前で大声を上げてしまった。
ジャネット・エバンス選手から聖火を受け取ったのは、他でもない、ローマ大会の金メダリストで、後に数々の逸話を残し、特に若き日に『キンサシャの奇跡』と呼ばれる名試合で、絶対王者といわれた若きジョージ・フォアマン選手からベルトを奪った、モハメッド・アリ(旧名、カシアス・マーセラス・クレイ)氏だったのだ。
いまでも、ボクシングファンの間では“神話”となっているモハメッド・アリ氏は、ローマ大会から帰国後、金メダリストでも人種的差別される社会に嫌気が差し、故郷の橋の上から苦労して獲得した金メダルを投げ捨てたのだった。
それは、プロの世界でチャンピオンに為り、白人社会を見返してやるとの意思表示でもあった。
その逸話は余りにも有名だったので、IOCはアトランタ大会の開会式後、再びアリ氏に復刻した金メダルを授与した。その金メダルには、彼が捨てた旧名ではなく、『オリンピックチャンピオン モハメッド・アリ』と刻印されていた。
 
私は、特別にモハメッド・アリ氏に思い入れがある。それは、アリ氏と私の誕生日が、1月17日で同じと知ってからだ。尊敬し憧れているアスリートと同じ誕生日なのは、ことの他嬉しいものだ。
アトランタ大会の開会式をテレビで観ながら、私は一人、モハメッド・アリ氏に詫びていた。病気(パーキンソン病)で体調が優れないとの報道で、聖火の最終ランナーを予想する時、全くアリ氏のことが頭に浮かばなかったことが、大変申し訳ない気持ちで一杯になった。
 
私にとってのオリンピック・アトランタ大会は、ほぼ、開会式にモハメッド・アリ氏を拝見したことで、終わっていた。余り、記憶に残ることが無かったからだ。
特に、大会期間中に起きた爆弾テロ事件が、アトランタ大会の印象をさらに悪化させた。
そのテロ事件に関しては、今年、クリント・イーストウッド監督が、映画『リチャード・ジュエル』で詳しく描いている。御興味ある方は、是非一度、御覧になることをお勧めする。
 
この大会、印象に残った選手を一人上げると、それはやはり、唯一の私と同世代の選手、アメリカのカール・ルイス選手だろう。ルイス選手は、前回の地元大会であったロスアンゼルス大会(1984年)から、専門にしていた走り幅跳びで3大会連続して金メダルを獲得していた。
カール・ルイス選手は、このアトランタ大会でも2位に入ったジャマイカの新鋭に大きく差を付け、走り幅跳びの金メダルを獲得した。これで、4大会連続だ。4大会連続とは、12年間オリンピックチャンピオンに君臨したことに為る。
この大会、既に36歳に為っていたカール・ルイス選手は、周りのライバルに向かって、
「若造ども! 俺を追い越してみろ!」
と、言わんばかりの雰囲気で、試技を行なっていた。王者らしい堂々とした立ち振る舞いは、実に頼もしいものだった。
 
金メダルを授与される表彰式で、カール・ルイス選手は一転して緊張している様子だった。アメリカ合衆国国旗が掲揚されている間も、国歌を口ずさみながら両頬には大粒の涙が見て取れた。
歴史に残る偉業を成し遂げた、レジェンドにしか味わえない瞬間だったのだろう。
陸上競技での、同種目4連覇はルイス選手の他、同じアメリカ合衆国の円盤投げのポール・オーター選手しか出現していない。
 
この、オリンピック・アトランタ大会。日本選手団は、全くといっていい程奮わなかった。何しろ、獲得した金メダルは僅か3個。しかも総て、本家芸というべき柔道だけだった。メダル獲得総数は、世界23位だった。
世界最強だった体操は、メダル無し。御家芸のレスリングは、やっと銅メダル1つ(当時は男子のみ)。金メダル経験が有るバレーボールは、女子が予選リーグで敗退。男子に至っては、オリンピックの出場権すら獲得出来なかった。主要競技の競泳は、数名の入賞(決勝に残ること)は有ったものの、トップとの差は大きかった。
 
アメリカでの開催で採用された野球は、プロ選手の参加が認められていなかった。それでも日本チームは、松中信彦・今岡誠・谷佳智といった後にプロ野球で活躍する選手や、井口資仁・福留孝介といったMLBでもプレイする選手が選ばれていた。ところが投手陣が弱く、決勝戦ではキューバの打撃陣を抑えられず銀メダルに終わった。
同時に採用されたソフトボールは4位。日本の女子ソフトボールが強くなるのは、この先のことだった。
 
そんな中で、今でも語り継がれる活躍をしたのが、メキシコ大会(銅メダル獲得)以来の参加となったサッカーだ。
世に『マイアミの奇跡』といわれる試合は、最強のブラジル相手に1-0で勝った試合だ。私は余りサッカーには詳しくないので、多くを語ることは避けるが、GK川口能活選手の再三にわたるファインセーブは、今でも映像を観ると思わず声が上がってしまう程だ。
しかしそんなサッカーも、残念なことに得失点差で、決勝トーナメントに出ることは出来なかった。
日本を盛り上げるには、ほんの少し足りなかった様だ。
 
金メダル3・銀メダル4・銅メダル1と、何とか面目を保つ結果となった日本柔道陣。その中で、一人だけ悲劇を味わった者が居た。
男子60kg級でオール1本勝ちを治め、金メダルを獲得した野村忠弘選手がその人だ。それは当時、野村選手が未だ21歳の大学生選手で、ただでさえ印象が薄い最軽量級の選手であったことが原因の一つだ。
 
男女同時に一階級ずつが闘われる柔道競技。野村忠弘選手と同じ日に出場した女子選手は、最軽量48kg級の田村亮子選手だった。
前回のバルセロナ大会で銀メダルを獲得し、その後、世界選手権等では連戦連勝だった田村亮子選手は、金メダルを有望視されていた。しかも、『ヤワラちゃん』
の愛称で日本中から呼ばれていて人気も高かった。
この、アトランタ大会の入場行進で、日本選手団の旗手を務めたのも田村亮子選手だった。期待の程が、お解り頂けるだろう。
準決勝迄、全く危な気なく勝ち上がった田村選手は、自信満々の表情で決勝戦の畳に上がった。『はじめ』の声が掛かる寸前、田村選手の表情が一瞬曇った様に私は感じた。対戦相手の北朝鮮の選手が、奇襲を仕掛けて来たからだ。
その奇襲とは、当時ルールで禁じられていなかったとはいえ、道義的にする筈の無い、柔道着を“左前”に着るという戦法だ。日本では、着物を“左前”に着るのは“死装束(しにしょうぞく)”を意味するので、有ってはならないことだ。
しかも、柔道着を“左前”にされては、右構えの田村選手は引き手が取り辛くなる。その事を見込んで、対戦相手は敢えて柔道着を“左前”にしたのだろう。
勝手が違った田村選手は、あれよあれよという間に、小差の判定負けを喫した。
翌日のスポーツ紙に一面には、茫然と畳に座り込む田村亮子選手の写真と共に、
『田村、まさかの銀』
の文字が、大きく印刷されていた。
同じスポーツ紙の裏一面には、ガッツポーズをする野村忠弘選手の写真に、
『野村、まさかの金』
の文字が躍っていた。
 
アトランタ大会の日本選手で、僅か3個しかない金メダルの内の一つを獲得したにもかかわらず、新聞の一面を飾れなかった野村選手。
これは、悲劇以外の何物でも無かった筈だ。
 
もう一人、アトランタ大会で私が印象に残る選手が居る。正確には、もう一人のロシア人選手を加えて二人だ。
その選手とは、前回のバルセロナ大会に続き、メダルを獲得した女子マラソンの有森裕子選手だ。(バルセロナの女子マラソンに関しては前項を参照願いたい)
 
暑さを避ける為に、早朝に行なわれたマラソン競技だったが、女子マラソンのスタート時には、既に気温は摂氏30度を超えていた。
過酷な暑さとの闘いになったレースだった。
気温が高かった為、各選手は牽制し合いながら集団を形成していた。タイムは勿論、遅かった。
 
19kmを過ぎしばらく行った後、20kmの給水ポイントに向かって、長身の黒人選手が一人で前に出た。エチオピアのファツマ・ロバ選手だ。全く無名の選手だったので、誰もが気にはしなかったが、先頭集団との差はみるみるうちに広がって行った。
集団が、次の給水ポイントに差し掛かり、各自給水を取った後に元の形に集団は戻った。一つ違っていたのは、日本の有森裕子選手が、集団を引っ張る位置に出ていたことだった。
バルセロナとは違い、しっかりとコンタクトレンズが入った有森選手でも、遥か先を行くロバ選手を確認出来ないでいた。それ程までに、ファツマ・ロバ選手は先行してしまっていたのだった。
気が付くと、有森選手の隣りに、バルセロナの覇者ワレンティナ・エゴロワ選手が上がって来ていた。
焦りの表情が見て取れた有森選手は、周りの選手を確認した。並走するエゴロワ選手と一瞬目が合った。互いに、うなずき合った様に私には見えた。
多分、
「もう、間に合わない。先に行くよ」
「解かった、付いて行くよ」
バルセロナのモンジュイックの丘を共に駆け上がった二人は、こんな会話をアイコンタクトでしたことだろう。
「ワレンティナが一緒なら、きっと追い付ける」
「裕子と一緒なら、必ず勝てる」
有森裕子選手とワレンティナ・エゴロワ選手は、多分そんな気持ちで居たことだろう。
そこから二人の追い上げは、もの凄いものだった。
 
結局、有森裕子・ワレンティナ・エゴロワの両選手は、ファツマ・ロバ選手に追いつくことは無かった。有森選手が3位、エゴロワ選手が2位だった。
それでも、レース後の会見で有森裕子選手はこう語った。
「どうして、もっと頑張らなかったと思いたくなかった。今日は、思っていない」
そして、名言と為った、
「自分で自分を褒めたいと思う」
と、言葉を残した。
私は、この言葉は、有森裕子選手自身への言葉であると共に、ライバルで戦友でもあるワレンティナ・エゴロワ選手の気持ちも、代弁している様に感じた。
 
会見後、今度は自国ロシアの国旗を身体に巻き付けたワレンティナ・エゴロワ選手と、同じく日の丸を巻き付けた有森裕子選手は、仲良く写真に納まっていた。そこは、金メダルは無かったが、2人にしか共有することが出来ない空間だった。
 
オリンピック・アトランタ大会で、私が一番印象に残るシーンは、この二人の満足一杯の笑顔です。
 
 
《以下、次号》
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-12-28 | Posted in 2020に伝えたい1964

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