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「ラスト3分、運の掴み方」《週刊READING LIFE Vol.78「運」は自分で掴め》


記事:青木文子(天狼院公認ライター)
 
 
チラリと見た時計の針は15時47分。
「落ち着け、落ち着け」心の中で必死に自分に言い聞かせる。周りではほかの受験生が鉛筆を机におく音がする。ラスト3分で投げ出すわけにはいかない。このままではダメのはわかっている。でもまだなにか方法があるはずだ。必死で頭をめぐらして考える。
 
下の子が生まれた年にはじめた司法書士受験は、これで4年目になっていた。気がつけば下の子は年中になっていた。毎年毎年、年に数回受ける司法書士試験模試はいつも判定がCかD。BとかましてAなんて見たこともなかった。それでも、なんとか、と自分を励まし続けてたどり着いたこの日だった。
 
司法書士試験というのは年一回丸一日試験だ。午前と午後にそれぞれ択一式問題35問と、午後に記述式2問が出題される。択一式には7割から8割の足きり点設定され、その足きり点をクリアした受験生だけが記述式を採点してもらえる。つまり足きり点にとどかないとそもそも採点してもらえないのだ。私は3回の受験とも足きり点に引っかかっていた。だから全体を採点してもらったことがない。もう自分には届かない壁なのだろうか。そんな言葉がいつも頭をよぎっていた。
 
試験科目は11科目。指折り数えてみると、ひとつずつ折った指がまた開いてプラス1。憲法、民法、刑法、会社法、民事訴訟法、民事保全法、民事執行法司法書士法、供託法、不動産登記法、商業登記法。
 
司法書士試験は毎年7月の第一日曜日と決まっている。
名古屋まで電車に揺られて、向かうのは名城大学。毎年受験していると、大学の校舎に一番近い地下鉄の出口の番号も覚えてしまう。同じ地下鉄の出口から次々と地上に人が出てくる。90%、いや99%が今日の司法書士受験生なのだろう。すこし坂になった道を歩いて行くと校舎が見えてくる。校門近くでは司法書士試験予備校のパンフレットを配る人たちが並んで「頑張ってくださーい」と声をかけている。
 
まだ会場には入れないようだ。大学のキャンパスのベンチに座って、鞄から復習用のバインダーを取り出す。めくってみてももう頭の中には入らない。ぼんやりと眺めるようにページをめくって行くだけだ。
 
ふと空を見上げた。7月の空は青かった。神頼みはしないつもりだったけれど、心の中でつぶやいた。
「神様、もしここで私が合格できたなら、私の能力はすべて世界のために使って下さい。約束します」
今年落ちたら受験勉強をやめよう。そう自分に誓っての4回目の受験だった。
 
試験会場の教室に入ってぐるりと見渡した。300人は余裕で入る教室。席をあけて、受験番号が貼ってある。この教室だけで150人は受験生が入るのだろうか。当時、司法書士試験の合格率は2.8%。この教室だけで受かるのは4人? 考えただけでも、そのままそこから逃げ出したくなりそうだった。慌てて頭をふってその計算式を頭からかき消した。
 
自分の席を確かめて座る。手に馴染んだ鉛筆、消しゴム、腕時計と念の為もう一つのミニ時計を机の上に出す。一番自分にしっくりくる位置に配置するのはもう慣れ親しんだ儀式のようだ。
 
試験前にはいつも深呼吸をする。ゆっくり呼吸をひとつひとつ深くしていくと、1分間で3回の深呼吸になる。それが何分か続いたころに声が聞こえてくる。
 
「はい、はじめ」
 
試験が始まった。一斉に鉛筆の音が聞こえてくる。時間配分を確かめながら午前の35問を解いていく。見直す時間があった。問題を見直していく。あぶない、あぶない。ケアレスミスの問題を2つみつけた。慌てて消しゴムで消して正解の番号をマークし直す。
 
調子は悪くない。そのまま平静な気持ちのまま昼休みを過ごした。
午後の試験は、択一式35問と、記述式2問。問題は同時に渡されるため、どちらを先に解いてもいいし、時間配分も自分の裁量に任されている。
 
「はい、はじめ」
 
午後の試験が始まった。合図と同時に、教室は表紙から問題文をめくる慌ただしい音で騒がしくなった。まずは択一35問と記述式の問題をざっと見て時間配分のあたりをつける受験生が多い。私もまずは全体の把握と素早くページを捲りながら確認をしてく。途中でページをめくる手が止まった。
「!」
声にならない声が出た。
 
私と前後して、会場のあちこちで、息をのむ気配や「?!」と声にならない驚きが沸き起こった。今年の記述式の問題はいままでに見たこともない、聞いたこともない形式だった。前年までに本試験で出題された記述式過去問はすべて解いている。その形式はすべて分かっていた。ところが、今年の記述式はそのどの年度にもない新形式の出題だったのだ。
 
いや、まて、慌てるな。自分に言い聞かせる。これは考える時間を確保するのが先だ。いつものように択一式35問を解いてからだ。いつもより時間を短くして、記述式で考える時間を確保しないと。
 
一斉に鉛筆の音がカツカツと教室に響き始めた。私も無我夢中に35問を解いていった。ペースは悪くなかった。おそらく、見直しにもどってこられる時間はないだろう。どの問題も一発勝負だ。ビルとビルの間に張られた一本の綱の上を、バランスをとりながら渡るようだ。瞬間瞬間に意識を集中するしかない。すでに解いた問題のことを考えたり、先の記述式のことを考えたらバランスを崩す。とにかく自分の呼吸だけ止めないように息を吐いたり吸ったりしながら、でもペースを上げて問題を解いていく。
 
35問が解きおわった。机の上の腕時計をみると、時間的にはいつもより早く時終わっている。これなら記述式に時間が確保できる。
 
記述式の問題をめくった。記述式は2問。不動産登記と商業登記の実際の案件の、登記申請書類を書くという形式だ。ざっと眺めてみて商業登記の方が手慣れていたので、まずは商業登記を解く。商業登記とは会社にまつわる登記申請だ。試験なので実在でない会社の案件になっている。
 
「は?」頭の中が真っ白になる。扱う住所の中に「ケイマン諸島」という文字がある。そんな登記なんて見たことがない。私は未だに「ケイマン諸島」の名前を聞くと一瞬ドキッする。このときの衝撃がいまだに残っているからに違いない。
それでもなんとか商業登記を解きおわった。思った以上の時間をとってしまった。ケイマン諸島のせいに違いない。
 
残り時間で不動産登記だ。不動産登記とは、土地や建物を法務局に登記する手続きだ。誰から誰かに土地が売り渡されたり、新しく新築の家を建てた人が、銀行からお金を借りるローンのために、家と土地に抵当権をつけたりする。その権利の所在を法務局に申請するのが不動産登記である。
 
案件の書類を各欄は4欄あった。ということは、今回の試験の解答は4枚の申請書である可能性がたかい。試験用紙の裏表紙の白い部分に、まずは頭を整理するために全体の登記申請書の構成を書き出していく。家を建てる前の設計図のように、この設計図さえちゃんとかけたら、あとは組み立てるように申請書を書き出していけばいい。
 
ところが、だ。
書き出した設計図では申請書が3枚しかなかった。おかしい4枚あるはずではないのか? 回答欄が4欄あるからといって、もちろん全部埋まるのが正解とはかぎらない。でも、過去の出題から見て、4欄あればほぼ4欄埋まるのが正解である可能性が高い。
 
おかしい。なにかおかしい。なにがおかしいのか。
申請すべき登記の申請書を見落としているはずだ。時間は刻々と過ぎていく。もう一度設計図を見直す。確認しながら、1欄、2欄、3欄の申請書を先に書き出していく。
 
あとから分かったことだが、私は1枚目の申請すべきものを見落としていたのだった。致命的だった。1欄に書くべき申請書が抜けているので、すべて解答の欄がずれている。4欄目はそのまま白紙のままだった。
 
周りでは鉛筆の音が静かになり始めていた。見直しに入った受験生がいるのだろう。私は鉛筆を握りしめたまま、問題文と自分の設計書をにらめつけていた。わからない、わからない。どこが違うのだろう。
 
もう一度冷静に考えた。おそらく申請をひとつ見落としている。でも、全体のわたしのたてた設計は間違っていないから、ラストの申請書は間違いなくこの申請書がくるはずだ。これが本来は4欄目に来るはずだ。
 
時計をみた15時57分だった。あと3分。とっさに判断した。私は3欄目に書いたものと同じものを4欄目に書いた。間に合うかどうかは分からなかった。鉛筆を握りしめて、とにかく書いた。書き終わったと同時に声がした。
 
「はい、そこでおわりです」
 
今年も試験に落ちただろうと思った。帰り道はもうなにも考えたくなかった。
試験日の夜には、早くも各司法書士受験予備校の出す解答速報がネットに上がってくる。持ち帰った自分の解答と照らし合わせて、点数をつけて、「あ、今年も足きりにかかったな」とがっかりする。そのあとは2ちゃんねるの「司法書士試験反省会スレ」を眺めるのがいつもの恒例だった。2ちゃんねるでは「今年もオワタ」「いや、足きり今年はクリアできるんじゃ」「いや、それは甘い」という悲喜こもごもやりとりをぼんやりと眺めるのが私の試験の日の夜の過ごし方だ。
 
ところがこの年は違った。意外にも午前午後の択一式の点数が良かったのだ。模試ではCとかD判定ばかりだったのに。2ちゃんねるの足きり予測からみても、どうも足きり点をクリアしているようだ。
 
しかし問題は記述式だ。商業登記はともかく、あの最後苦し紛れに3欄と4欄に同じ申請書を解答した不動産登記。記述式も模範解答が出てくる。見て息をのんだ。やはり最初の1欄目に書く申請書を落としていた。すると全部回答欄がずれてくる。でも、でも。全体の設計はあたっていた。だから、3欄に書いてしまった申請書を写した4欄目の申請書は正解になっていた。
 
1万時間の法則というものがある。これはマルコム・グラッドウェル著『天才!成功する人々の法則』によって広められたものだ。その分野の一流の人を調べてみると1万時間の練習を積み重ねている。だから大きな成功を収めるには1万時間の積み重ねが必要だと言うのが1万時間の法則という。司法書士試験に合格するには7000時間の勉強が必要だという調査があるらしい。
 
毎日つけていた勉強日誌。子どもが小さいから計画は立てられない。せめてと、毎日どの科目を勉強したか時間の記録をとっていた。今日は4科目をそれぞれ1時間半ずつやって合計6時間とか。今週は総計142時間とか。合格発表の夜、その全部を足してみた。全部で6800時間になっていた。
 
最後の3分間の悪あがきのような試み。それを掴んだのは6800時間の積み重ねと、瞬間頭にひらめいた思いつきを掴む勇気だったのだと思う。
 
「運」とは小舟で気まぐれに運ばれてくる幸運ではなく、かといって、断崖絶壁をひたすら登って摘み取る高山の青い芥子の花でもない。自分にできることを積み上げていく小さな小道の一歩一歩と、ひらめきに身を任せて最後、崖に向かってジャンプすることが運を掴むのだ。
 
司法書士試験にこの年合格した。そして今年司法書士になって11年目だ。
受かった私の合格点数はギリギリだった。点数構成はわからないけれど、あの最後の4欄目に来た点数で私は合格したのだと信じている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青木文子(あおきあやこ)(天狼院公認ライター)

愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23rd season、28th season及び30th season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。

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2020-05-04 | Posted in 記事, 週刊READING LIFE vol.78

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