リーディング・ハイ

音を調える人たちの森《リーディング・ハイ》


とりいさん ピアノ

記事:鳥居美紀 (リーディング&ライティング講座)

 

 

月曜日の朝、目覚ましの音で起こされる。7時半だ。うーん、起きなきゃ。でも、あと10分、10分だけ布団の中でゴロゴロしてみる。ああ、楽しかった週末もあっという間に終わってしまった。次の週末まであと5日。今週は何を楽しみに仕事を乗り切ろうか。水曜日くらいに、ちょっと豪華なランチをしに行こう。じゃないと、仕事つまんなくてやってられない。

 

それにしても、いつの間に私、こんなに会社に行くのが億劫になってしまったんだろうか。辞めたいほど仕事が辛く、嫌なわけでは決してない。でもやる気がでない。就職したての頃は、キャリアウーマンを目指していて、仕事をするのが楽しくてたまらなかった。週末も町で書店に入れば、専門書コーナーに行き、仕事に役立ちそうな本は片っ端からチェックしていたなあ。キャリアアップにつながる資格取得にも興味があって、平日の夜や週末まで勉強していたなんて、今では考えられない。

 

今の私は、あの頃の私が夢見ていた、部下も持つ管理職(中間、が前につくけど!)のキャリアウーマンなのに、どうしてこんなにやる気がでなくなってしまったのだろう。

 

 

 

 

『羊と鋼の森』(宮下奈都著)は、主人公・外村がピアノの調律という仕事を通じて、人間として成長していく物語である。高校時代に一人の調律師・板鳥と運命の出会いをした外村は、彼のような音を生み出すことを目指し、調律師の道を進むことを決意する。板鳥をはじめとする先輩調律師には、真摯に仕事に取り組む人もいれば、仕事と割り切っているようにしか見えない人もいる。調律を頼む客も、本当にピアノが好きで、音にこだわるふたごの女子高生もいれば、自分のピアノの腕を顕示するために調律師を遣うような人もいる。調律を通じて起きる自分や周りの人々の出来事によって、外村の理想とする音も変わっていく。その音とは……

 

本を開いている間、外村に、板鳥に、先輩方に、仕事をしてきた20年間の自分の姿を見ていたように思う。

 

新入社員だった頃の自分は外村と同じだった。情熱も理想も高く、でも実力が伴わない20代。ちょっと自信がついても、すぐにそんなちっちゃな自信がこっぱみじんに打ち砕かれるようなこともあった。そんな時には、外村と同じように、周りの先輩が嫌な顔もせずにフォローをしてくださった。愚痴も聞いてくださった。よく先輩の前でビービー泣いたっけ。

 

努力すれば必ず報われる、という幻想が打ち崩されたのもこの頃だった。地道な努力をしていても天性の才能を持った人間には叶わないこと。外村の“音”という抽象的な世界ほどあからさまではないが、ビジネスの世界にも確かに存在することのように思う。仕事は努力だけでは報われないことが多々あることを、私も外村と同じように学んだ。

 

それでも、“焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです”、と板鳥は外村に努力の大切さを教える。「若い時の苦労は買ってでもしなさい。必ず得るものはあるから」と部下に言う、今の私と同じ心境のように思える。若い頃はすぐに結果が出ることを求めるけれど、長い時間かけて地道に努力することでしか到達できない場所もある。そういうことをおっしゃってるんですよね、と私は心の中で板鳥に語りかける。もっとも、板鳥は私みたいに、「若い時に努力しておかないと、齢を取って同じことをすると、すごくシンドイ」なんてことは言わなかったけど。(オンナは現実的なのである)

 

板鳥をはじめとする外村の先輩たちは、それぞれの独自の哲学で、調律という仕事に向き合っている。理想を高く掲げる外村にとっては理解し難いような発言をする先輩も、彼の調律師となるまでの経緯を知ったり、その仕事ぶりを間近で見たりすると、先輩なりにベストと考える方法で仕事をしていることがわかる。やり方の違いは人それぞれ、正解なんてひとつではないし、絶対的な正しさなんてない。外村が仕事を通じてそのことを理解したように、私も20年かけてそのことをわかってきたように思う。

 

そんな中で心にひっかかったこと。今の私は、物語の調律師たちと同じように、自分なりにベストと思えるやり方で仕事をしているのだろうか、という疑問。外村が、20年前の私が、今の私の仕事ぶりをみても、恥ずかしくないような仕事をしているだろうか。

 

外村や板鳥たちと、今の私との大きな違い。それは、自分の仕事を愛しているか否か、に思えて仕方がなかった。物語の調律師たちは、それぞれ調律と言う仕事を愛し、“音”を通じて顧客を幸せにしようとしている。今の私は、そこまでの情熱を持って仕事をしているとは思えない。自分の資質をうまく生かした仕事だとは思っているが、天職と思えるくらい仕事を愛してはいない。

 

やりたいこと、好きなことを仕事にできる素晴らしさ。好きな仕事だからこそ人一倍努力もできるし、その努力によって成長もできる。物語ではそんなことに改めて気付かされる。月曜日に出かけるのが面白くないくらいの仕事であれば、本当に好きなことを仕事にし、自分も周りも幸せにする道を選んでみることはできないのだろうか。毎日毎日、外村や板鳥が自分の“音”を追い続けるように、私も毎日毎日を精一杯努力して生きて行けば、これからの20年で到達できる場所が違ってくるのではないか。

 

……という、ある意味、非常に厄介な考えが自分の心の奥底から現われてしまい、その問いかけの森に迷い込んでしまったようである。どんな形であれ、新しい決断が必要な時期なのかもしれない。静かで美しく、そして私にはキケンな物語である。月曜日に仕事に行くのがイヤだと感じる方、大きく人生が変わることも覚悟されたほうがよいかもしれない。

 

一流の調律師が組み立てる音が人の心を打つように、決して特別な言葉を使っているわけではないのに、美しく澄み切った文章が心に響く素晴らしい物語だとも思った。

 

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