チーム天狼院

スタバでMacぱたぱたして、何が悪いねん《川代ノート》


初夏。

6月のまだ明るい午後6時前の、都内某所のスターバックスのテラス席で、モカを飲みながら、MacBook Airのキーボードををぱたぱたとリズミカルに叩き、ふとそよぐ風に顔を見上げ、そよそよと新緑の葉が心地よさそうに揺れるのを感じてひとり微笑む女がいる。

私である。

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いやあ、スタバでMacを叩くというのは気持ちがいい。実に気持ちがいい。何が気持ちいいって、ようやく毎日、推定5キロの東芝ダイナブックを持ち歩かなくて良くなったことである。ヤッター!

古い型のダイナブックの重さといったらなかった。物理的にもスペック的にも重い。それでも毎日隙あらば文章を書いていないといらいらしてくる病気にかかっている私は、パソコンを持ち歩かざるをえなかった。

アイパッドにくっつけるキーボードも持っていて使いやすかったのだけれど、やっぱり小さいと打っている気がしない。書く心地よさというのはカタカタカタカタ……ターン!! と思いっきりエンターキーを押せるところにあるのではないだろうか。小指の先っちょぶんくらいしかないアイパッド用のキーボードでは、あのターン! ができない。ついでに言うと、怒られるかもしれないけど、マックのキーボードをアメリカ使用にする人の気がしれませんね私は。全然気持ちよくない。あんなのエンターキーじゃないでしょ。小さすぎてかぎかっこのキーと間違えちゃうんだよ。

といういろいろな葛藤もあり、私は大学3年からほぼ365日、どんな予定だろうが、学校だろうがバイトだろうが、出かける日は毎日必ずダイナブックを持ち歩いていた。パソコンがないと落ち着かないのである。
今日は何もないし、授業行って直帰する予定だし、パソコン持っていく必要ないから、置いていこうかな……と思い、ダイナブックを机の上に放置したまま玄関を開けたこともあった。でもドアが閉まる瞬間、はっとするのである。
もし万が一、電車が脱線して帰りの電車の中に閉じ込められて、5時間も暇な状態に陥ったらどうする?
もしゲリラ的に休講になって、学校来た意味ないじゃーんってなったらどうする?
もし突然頭にすばらしいアイデアが浮かんできて、キーボードを打ちたくてたまらなくなったらどうする?
もし銀行によったときにたまたま強盗犯が入ってきて、暇な状態に陥ったらどうする?(ないわ)

とか考えてしまうのだ。たぶん絶対パソコン持ってなかったら後悔する。あー、この時間でいっぱい記事書けたのにとか思って後悔する。
そうやって悔しがる自分を想像すると、やっぱりアイツを置いてなんかいけない、ということで、冒険RPGのヒーローよろしくパーカーを翻し、颯爽と家のなかに戻りダイナブックを抱えて家を出ることになるのだ、結局は。

社会人になってもそのくせはぬけなかったが、さすがに8時間の肉体労働を終えた後の筋肉痛の肩にのしかかる5キロの重みは、辛すぎであった。おまけに古い型のダイナブックははっきり言ってダサい。イケている(という言葉を使っている自分こそかなりダサいが)OLが使うにはふさわしくない。しかも使い込んでかなり年季の入ったダイナブックは、もはやひとりで生きれなくなっていた。そう、充電器である。こいつがいないと動かないのである。充電なんて、一時間ワードを使っていたらすぐになくなる。そういう脆いヤツと長年付き合ってきたので、その重みと操作の遅さとヴィーーーーーーン……と突然なる機械の音と使いにくさにもはや愛着を持ち始めてもいたが、さすがに社会人になってもダイナブックを持ち歩くのはきつい、ということで、新しいPCを手に入れることを決心したのだ。

そのときの私は、三つの選択肢で迷っていた。

①マイクロソフトのsurfaceを買う。
②MacBook Airの新しいやつを買う。
③三年前に壊した2010年版のMacBook Airを修理する。

まず①surfaceについては、あのCMを見てかっこいいなと思ったこと、画面に触れるし持てるし画面とキーボードが別れるし軽いしいい、というのをきいてかなり惹かれたというのもあったが、なんかウィンドウズのはじめのパスワード入れるとこがいちいちめんどいなと思い出して却下(たいして調べてない)。

②と③ではかなり迷った。MacBookユーザーは私のまわりでかなり多かったし、その操作性のスタイリッシュさ、速さもきいていた。しかも新しい型は充電が12時間ももつというではないか。いい。充電器を持ち歩かなくてもいいのも、いちいち電源のあるカフェを探す必要がないのも魅力的だ。でもぜんぶそろえようと思ったら13万くらいする。うう、高い。かなり高い。新卒の給料ではちょっと厳しい。

というわけで、まずは選択肢③、三年前に壊した古いMacBookを修理に出してみて、だめだったら新しいMacを買おうという結論に落ち着き、私はさっそく修理屋さんにMacの診断を依頼した。

どういう経緯で私がダイナブックユーザーになったかといえば、そもそも大学入学と同時に買ったMacBook Air11インチに除光液をぶっかけたからである。どうして除光液をぶっかけたのかというと、Macで動画をみながらマニキュアを落としていたからである。バカの極みである。
そのとき私はアメリカに留学していて、しかも田舎だったのでAppleストアに行くとなると二時間以上かかるし、手間もお金もかかるし、とりあえず日本に帰ってからなおそうということで、比較的安めのダイナブックを買って日本から送ってもらったのだ。今思えば、二時間の距離を面倒くさがるくらいなら日本から送ってもらう方がずっと面倒くさいだろと自分で自分につっこみを入れてしまうのだが、まあ、なんか、Appleストアに英語で説明するのとか、想像しただけで面倒くさかったのである。そもそも「パソコンの修理」という言葉のひびきがもうめんどい。それに当時の私は、まだ隙あらば文章書きたい病におかされていなかったので、別にパソコンなんて、レポートが提出出来て、ネットが出来て、スカイプができればなんでもよかったのだ。

そういうわけで日本に持って帰っても「いつか直そう、いつか直そう」と先延ばしにしているうちに、MacBook Airには埃がつもり、気がつけば三年たっていたというわけである。

そんな経緯を修理やさんのお兄さんに話したら、ちょっと(いや、かなり)びっくりされた。

「さ、三年ですか」
「はい、三年です」
「そのあいだ、どうしてたんですか」
「他のパソコンを使ってて」
「じゃあ三年間、一回も触ってないってことですか」
「はい、放置してたんで」
「あの、何をかけたんでしたっけ?」
「除光液です」
「……」
「あの、なおりますかね?」
「うう〜ん……いやあ、はい、あの、ちょっと、診断させてください」

かくして、Macは内部まで細かく調べられた。そして呆れているお兄さんの怪訝そうな表情に反し、三年放置していたにもかかわらず奇跡的にキーボードの交換だけで復活したのである。

三年の眠りからめざめたMacBook Airの仕様を確認し、昔の写真やファイルを懐かしみながら整理し、なんとかOSをヨセミテにアップロードし、快適なMacライフを取り戻した私が、見せびらかさずにいれようか、いや、いられない。

というわけで前置きが長くなったが、私の日課はこうしてスタバでMacをぱたぱたすることとなったのだ。
今となっては珍しくもなんともない光景だが、やはりスタバとMacは合うのである。相性がいいのである。なんかかっこいい。なんかノマドワーカーっぽい。そういう「なんか」的心地よさを求めて、多くのMacユーザーがスターバックスに集まる。

ちなみに今、店内を見渡したら、目分量でだいたい80席中、私を含めなんと14人がMacをぱたぱたしていた。4人はウィンドウズのPCを使っていた。そのうちのひとりはウィンドウズにAppleのりんごシールを貼っていた。すごいなあApple。愛されてるなあApple。

もはや「スタバでMacをぱたぱたする」という行為そのものが、ブランドとしての価値を確立しつつある。スタバでウィンドウズでも、スタバでアイパッドでもだめなのだ。やっぱり「スタバでMac」じゃないとだめなのだ。私もウィンドウズユーザーであり、アイパッドユーザーだからわかる。なんかいまいち気分が乗り切らないのである。70%くらいしか能力を発揮できていないような気分。そして言わずもがな、「ドトールでMac」でも、「マックでMac」(だじゃれじゃないよ)でもだめなのだ。

一般的に「かっこいいこと」として認識されている行動だからこそ、「スタバでMac」は効果を発揮するのである。それはたとえば、マークジェイコブスのジャケットを着てデートに行くとか、ミニクーパでドライブするとか、そういうことと同じで、「なんか」気分が上がる行為、モチベーションが高まる行為として認識されているのだ。

人々の脳のなかに、たとえば共有ファイルのようなものがあったとしたら、「マクドナルドでたまる」といえば中高生の放課後というイメージで登録されていて、「表参道で買い物」といえばセレブの休日というイメージになり、そして「スタバでMac」だと、かっこよく仕事をこなす大人のイメージになっているのだと思う。

人それぞれ少しずつ違えど、おそらく「イメージの辞書」のようなものが人々の間には存在して、みんなでそれを共有しているのだと思う。だからこそ成り立つ会話もある。おそらく国籍の違う人同士が関わるなかで混乱するのは、その「イメージの辞書」に書いてある言葉の説明が、国それぞれで大きく違うからなのだろう。

人々はそのイメージの辞書をいつも意識しているわけじゃないけれど、ふとしたとき、たとえばいつもと少し違う特別な行動をとったときなんかにぱらぱらとめくって、その言葉の意味を調べて再確認する。そしてそのイメージをその場にいるみんなで共有しているからこそ、モチベーションが上がるのだ。

たとえば「制服ディズニー」という言葉を引いたときにテンションが上がるのは、いい年してるのに高校生のふりをするという「おバカな行為」をディズニーだからこそ許してもらえるとわかっているからで、そういう全力でバカをやっていた高校時代に戻れているような感覚をみんなで共有しているからテンションが上がるのだと思う。

辞書を引くことによる、一体感。団結感。

スタバにいるMacユーザーたちも、そういう感覚を共有しているのだ。
「スタバでMac」って、なんか、いいよね、おれら。仕事はかどるよね。そういう感覚。みんなが同じ辞書を持っていて、スタバで作業をするときにはみんな同時にその辞書を引く。そして思う。「スタバでMac」はかっこいい、と。

そうやって外から見た自分を気にしている連中をバカにする人が結構いるけれど、それがどうしたと私は言いたい。小さな声で。

「スタバでMacやっちゃって」とか、
「ブルーボトルコーヒーに並んじゃうミーハーなやつら」とか、
「上っ面だけの上質な暮らしにこだわるなんて」とか、
そういう声をさいきん周りでちらほらときくけど、でも、まあまあ、いいじゃないのと思う。そんなん言わんでもいいじゃん、と。

本当に好きじゃないのに、みんながかっこいいって言うから便乗して「好き」って言ってみる、みたいな行動は嫌われがちだけれど、私は別にいいと思う。ガチとかにわかとか気にしなくていいと思う。ミーハーでもいいじゃないか、別に。

形にばかりこだわって本質が見えてなくてもいいじゃないか。スタバでコーヒーのみながらMacぱたぱたしてツイッター更新してもいいじゃないの。だって単純に、好きだし。だってその方がはかどるんだもの。

いくら自分は自分のポリシーにのっとって生きていて、人や流行りになんかに振り回されないと思っていても、案外知らないところで、イメージが自分を操っているものだ。
さまざまなイメージをみんなが共有している限り、私たちはどんなに影響されたくないと思っていても、どこかでは振り回される。自分がした選択が本当に自分の心の奥の部分が下したかどうかなんてわからない。自分の意見だと思っていても、案外どこかできいてたまたまそのときに思い出せたイメージにすぎないのかもしれないのだ。

人をバカにするのって、すごい度胸だ。
「こういうのはバカだ」とか
「こういうのはアホだ」とか、「わかってない」とか。

これはあくまでも私の意見でしかないし、同じように思う人もいないかもしれないけれど、誰かをバカにするのって、損しかしないと思う。
誰かをバカにしたら、そのバカにした誰かにはもうに度と関わりたくないと思われるし、そのバカにした自分の意見に賛成してくれる人が現れても、結局は誰かをバカにする人しか自分のまわりにはいなくなる。ということは、自分も周りの彼らにどこかでバカにされる可能性があるということだ。それはすごく損じゃないかなあ。

こう言えるのも、私が実際にそっち側、つまりバカにする側の人間だったからだ。そして、バカにして生きて、損してきたからだ。

私は何かにつけて人をバカにするのが生きがいのような性格だった。最悪な性格だと今でも思うけれど、とにかくみんなをバカにしたかった。人のあら探しばかりして、「人間観察」という名目でバカにしまくっていた。いや、バカにしているつもりすらなかった。本気で、自分は上のステージにいる人間で、下のステージにいる人間を冷静に観察できていると思い込んでいたのだ。高尚なことを考えているつもりだった。

ミーハーな人間や、上辺だけで人の意見に流される人間のことを「意思がない」とバカにしまくっていた。そうしているうちに私の周りにはそういう人をバカにする人間しか残らなかった。それを「自分が上のステージに行ったから誰もついてこれなくなったのだ」と都合よく解釈したけれど、なんのことはない、みんな私にバカにされたくなくて離れて行っただけのことだ。強いて言うなら、ステージが下がったのは私の方だったのだ。

みんながすること違うというのはなんとなく価値があるような気がして、だから私はみんなが抱いているイメージを否定した。「スタバでMac」とか別にかっこよくないから、なんともないし、ノマドワーカーぶってるやつ、だっさいなあ、みたいな。

余計なお世話である。そんな風に他人をばかにしている暇なやつよりも、なんとなくかっこいいイメージに操られてスタバでMacで作業をしている人間の方がよっぽど社会の役に立っているということなんか無視していたのだ。本当に余計なお世話だ。何しようが個人の勝手じゃないか、わざわざ首突っ込んで「あいつら、自分がかっこいいつもりかよ」とバカにしてる自分こそ、頭いいつもりかよ、お前、と言いたい。私は本当に、終始そういう感じの人間だったのだ。今もまだそういうところあるけど。直し中だけど。

まあとにかく、「みんなの流れに逆らってる自分かっけえ」っていう中二病的発想に変わりなかったわけである。自分は特別だと思いたかったから、みんなのイメージを否定していたのだ。そういう人間こそ、みんなの抱くイメージがある日突然ぱっとなくなったら、否定できるものがなくなったら、本当の自分がどこかに飛んでいっちゃうんだけどね。自分こそイメージに操られているのだということにはまったく気がつかなかった。

そういう「あれってださい」「これってださい」というみんなのイメージにケチをつける習慣をやめたら、一気に楽になった。素直になった。

素直とはいいものである。やりたいことができる。みんなと同じことができる。むりやりに特別になろうとしない行為というのは、楽だ。
流行りに逆らわなくていいというのは、楽である。

別にもちろんどんな流行りにものっかったれとは思わないけど、無理に批判しなくてもいいんじゃないかと。便乗して何が悪いんじゃいということを、声を小にして言いたい。(小心者)

まあつまりだから、長くなったけど、何が言いたいかというと、スタバでMacぱたぱたしてて何が悪いねん、ってことです。別にかっこいいと思われたくて作業しててもええやん、ゆるしとくれ、という感じ。

あ、ここでこうして語尾が関西弁になるのも、「関西人のつっこみは鋭い」というイメージの辞書をひいた結果にすぎないのかもしれないな。

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2015-06-11 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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