【京都天狼院通信Vol22:おばさんへの一歩】
*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。
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記事:池田瑠里子(チーム天狼院)
自分、おばさんになったなー。そう思うことが、ここ数年でだんだんと増えてきたなと思う。
たとえば、階段。今までだったら普通にのぼりおりしていた階段なのに、久しぶりにのぼってみたら、息切れがひどかったり。
たとえば、揚げ物。どんなにくどいものだって、大学生の頃はばくばく食べていたのに、今となっては、次の日に胃もたれを必ずしてしまうから、食べる量を自然とセーブするようになっていたり。
たとえば、物忘れ。「これをしなきゃ!」と思っていたことなのに、別のことをし始めたときに、すっぽりと頭から忘れてしまったり。
そういったことは可愛い。昔よりも、全く見知らぬ人に話しかけることも怖くなくなった。
公園を通りかかって子供が危なっかしく遊んでいたら「危ないよ!」と声をかけたくなっちゃったり。
改札で困っている外国人を見たら、「大丈夫ですか?」とお節介を焼いてしまったり。
ハッとしたときに、おばさん化している自分に気がつく。
ディズニーランドなんかにいくと、おばさん化は顕著である。中学や高校の頃は、開園の1時間以上前に行き、オープン前に並び、オープンと同時に開いたら、目当てのアトラクションまで全力疾走!(※今はこちらやってはいけません! 危ないため、キャストの方にやんわりと止められます)
そんな風にダッシュを朝イチからしているにもかかわらず、閉園ギリギリまでしっかりかっちり遊ぶことが当たり前だった。
それが最近、どうだろう。まず開園前に行かなくてもいいか、遊園地が逃げるわけでもないしと、行く時間が遅くなり、それにも関わらず1日遊ぶと疲れてしまって、閉園前に「もういいよ、帰ろう」となる状態に……。自分の体力の衰えを感じる瞬間である。
そんなこんなで体がどんどん、20代から30代に衰えていっていることを肌で感じるのだが、
それ以上に、私が「ああ、自分、年取ったな」と思う瞬間は、なによりも、恋愛をしているときだ。
これを世間一般では、「悟る」というのだろうか。
昔より、胸キュンをすることも少なくなったし、男に対して幻想を抱くことも少なくなり、そして、ドキドキした恋愛を求めることも少なくなったと感じている。
つまり、どんどん、恋に対して、昔に比べたら冷めて淡白になっている自分がいるのだ。
決して恋が嫌いなわけではない。私は今も昔も恋愛が大好きだ。
仕事をしていても恋だって全力でしたい私は、いつだって、どんな時でも、その時々で大好きな人はいる。
好きな人に、好きだという気持ちを向けることも、私にとっては大きなエネルギーの発散の一つになっているのだろう。
坂口安吾のいうように、私にとっては恋愛は人生の大きな華である。
でも、昔とは、その恋愛の質が変わってきていることを、最近思うのだ。
若い頃は、恋も快楽の一部であり、そして対外的に誰かに見せる私の仮面の一部だった。
恋をすることは、ファッションの一部であり、楽しく喜びに溢れている自分を演出する、その道具の一つに過ぎなかったと思う。
確かに歴代の彼氏を思い出したとき、そのときは、本気で私はその男たちを愛していた。それは間違いない。
でも一方で、正直にいって、「彼を好きだと思う自分」を愛していたのではないかと思うのだ。
「彼氏がいないとダサい」。大学の頃はそう本気で思っていた自分がいて、ともかく「彼氏」という存在を作ることに必死だった。
「恋人がいれば誰もが幸せだ」。そうも思っていた気がする。いや、「恋人がいれば、周りから見たときに、幸せに見えると思っていた」、というのが正確だろう。
恋愛という、本来とても個人的なもののはずなことを、私はむしろそれを一つの鎧として身に纏って、周りに一生懸命、見せつけていたのだと思う。
私は、別に、不幸ではない。むしろ、こんな風に誰かに愛してもらえる人間なのよ、幸せなのよ、と。
そして、そうやって誰かを人並みに愛することができている自分、を見ることで、「私は普通の人間だ」、そう安心していたのかなと思う。
だから、私は恋人が連絡をくれないと、異常なくらいに寂しく思っていた。連絡はすぐに取りたかったし、デートもたくさん行きたかった。イベントごとだって、ちゃんとやってくれないと、嫌だと思っていた。自分が愛されている感覚がないと、不安で不安で仕方なかったのだと思う。
つまり、恋愛をしていたにもかかわらず、それは自己表現の一つ、自分の仮面の一つにすぎず、
私は私自身をそこでは第一に愛し、優先し、楽しんでいたのだと今思い返すのだ。
それはそれで、本当に毎日が楽しかった。辛いことだってたくさんあったけれど、蜜の味だった。
今でも、そんな過去の恋愛たちが、別に悪いことだと思っていないし、間違っていたとは思わない。
でもそうやって誰かを「好きになって(錯覚だったとしても)」、恋をして、付き合って、うまくいかなくて、別れて……と繰り返していく中で、ちょっとずつ、自分の中の恋愛観に変化ができてきたことも事実だ。
恋というものの幻想が壊れたこともあったろう。男の人というものがわかってきたこともあると思う。さらに、冒頭に書いたような、体力的な衰え(早いけれど)も大きな要因でもあると思う(テーマパークに行っても疲れてしまうから)。
でも、一番の原因は、もう、30歳を間近にして、自分というものを大きく見せたり、仮面をかぶることに疲れた、ということなのかもしれない。
周りの目のために、必死に相手を見つけて、「恋をしている自分を演じる」ことに、きっと私は疲れてしまったのだと思う。
もっとありのままの私で、無理がなく、どこかの誰かのカップルと比べることがなく、人を好きになって、付き合いたい。
自分の欲望を優先するのではなく、相手のことも考えた、そういう思いやりのある、落ち着いた恋愛をしてみたい。
ぱっと鮮やかに咲くバラの花のようではなくて、小さい小さい、雑草のような花の、誰も見てくれず羨まれないような、花のような。小さい恋。
いつからか、私は本心からそういう風に思うようになったのだ。
きっとこれも、おばさん化の一つなのだろう。時々私は、かつての自分が懐かしくなることもある。
あんなに男に怒っていた自分。別れるとなったときに惨めに自分が見えるのではと怯えていたあの頃の私。華やかに咲いて散った、バラのような恋。
でも、だからといって、今、私がしている自分の恋愛が、悪いことだと思っていない。
年を取るにつれて、周りに見せ付けるための恋愛から、もっと個人的で、相手と自分を見つめた恋愛に変わってきたことは、それはそれで、また味のある過程だと思っている。
今、私は、周りがびっくりするくらい、恋人とデートもしないし、連絡も取らない。
「本当にそれ、るりこさん、付き合ってるの?」
「よく平気ですね……そんなに会わなくて……。」
私よりも、若い友人たちに、そう言われることが、最近多くなった。
私はとっても忙しく、さらに恋人に選ぶ人は私以上に忙しく、デートなんてしている暇なんてない。それだけお互い毎日が充実している。
疲れていたら、眠ることの方が連絡より最優先になってしまっている。
でも、それだって、いいじゃない。そういう恋愛だってあっていい。そう思えるようになったことも、一つの進歩である。
自分、おばさんになったなーと感じることが最近増えた。
すぐに息切れしちゃったり、遊んでいて疲れてしまったり、顔にシミを見つけたり、
自分の衰えに、ため息をつきたくなることもたくさんある。
それでも、私は、大好きな恋愛を通してみたときに、年をとっていくのも、悪くないな。そう思うのだ。
おばさんへの第一歩。私はこれからの人生が、本当に楽しみである。
……でもまだ30にもならないのに息切れはちょっとまずいから、これから運動でもしようかな。