チーム天狼院

短編小説『名のない手紙』 


*この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

文:斉藤萌里(チーム天狼院)
 
 
「菅原隆史(すがわらたかし)様」
その手紙には、クリーム色の封筒に、宛名だけが書かれていた。宛名以外に、住所は書かれていない。切手もない。
 
「なんだ、これ」
大学進学にあたり東京で一人暮らしを初めて5ヶ月。夏休みに入り、やっと一人暮らしにも慣れてきた。
自炊、洗濯、掃除、今まで全て親に任せていたことを一人でやらなければならなくなり、なんとなく要領は掴んできたつもりだ。
が、こんなの聞いていない。
 
自分宛でない手紙を、どう処理したらいいのか?
 
僕、加藤健太(かとうけんた)の脳内に、その答えはなかった。
ふだん、ポストに入っている雑多な広告・チラシ類は全てゴミ箱に捨てる。持っていても使うことなんかないし。
だけど、手紙。
なんとなく捨てられない。捨てるのが忍びない。
「……」
303号室のポストから抜いたもののうち、手紙だけを抜いて他のチラシは共用ゴミ箱に捨てる。「毎週火曜は特売デー!」という赤文字がちらりと見えた。
 
部屋まで上がって、クリーム色の封筒を眺める。
 
「菅原隆史」
 
宛名に書かれた名前はおそらく、自分がこのマンションに引っ越してくる前にこの部屋に住んでいた人なんだろうと思う。
筆ペンで書かれたその字がやけに綺麗で、手紙を眺めては、差し出し人のことを考えた。
完全に憶測だが、手紙の主は女性じゃないだろうか。だって、男でこんなに綺麗な字を書く人あまり会ったことがない。それに、男が男に手紙を書くというのも、偏見だがレアケースだと思う。うん、きっと送り主は女の子。
始まると止まらない妄想劇場が、脳内を刺激しまくった。
しかし、どれだけ妄想しても、手紙が「菅原隆史」宛に書かれたものだということしか分からない。さすがに、中を開けるのは気が引けた。自分が差出人だったら恥ずかしすぎる。
 
行き場のない手紙、とりあえず本棚の上に置いておくことにした。
 
翌日は朝10時から夕方5時までアルバイト。
チェーン店のカフェで、自分ともう一人、緒方真理亜(おがたまりあ)という女の子が同じ時間帯にシフトに入っていた。彼女は二年生だから、一年先輩。先輩だけど、バイトを始めたのは僕の方が先だから、お互いタメ口で話している。短髪で接しやすい雰囲気の子なので、口下手な僕にとってはありがたかった。お互い口下手だと、間がもたない。
 
「昨日、おかしなことがあったんだよね」
 
午前中、比較的お客さんが少なく、バイト同士で話しながら、備品を整備したり料理の仕込みをしたりしていた。
「おかしなことって? なになに、幽霊でも出たの?」
何にでも興味を持ってくれる彼女は、身体ごと僕の方に向けて続きをせがんだ。
「残念だけど、幽霊じゃない」
「え〜じゃあ、泥棒にでも遭遇した?」
いや、なんでそんな物騒なことしか思いつかないんだ、と突っ込みたくなったが話が進まないのでやめておいた。
「手紙が来たんだ。知らない人宛ての。たぶん、前の住人だけどね」
「へえ、手紙ねえ」
彼女は意味深に深く頷いて見せた。なんだ、僕が嘘をついているとでも思ったのか。
「言っとくけど本当だよ」
「嘘だなんて思ってないよ。第一、嘘にしてはつまらなすぎる」
「まあ、そうだけど」
認められたのか認められていないのか分からない彼女の言葉に僕はこの先どうしようかと思案した。
「で、何がおかしいの?」
「手紙の差出人名がなかった。だから、どんな人が前の住人に宛てて書いたのか分からないんだ」
「ふーん」
包丁できゅうりを薄切りする手を止め、何か考えている様子の彼女。
「あ」と、突然答えを思いついたらしく、僕の目を見て言った。
「それ、恋人じゃない?」
「は?」
「だから、前の住人の恋人」
「ああ、なるほど」
なんだかすごく普通の答えじゃないか。
恋人か。
女の子が男に手紙を書くというなら確かに自然で、恋人ならなおさら……と納得しかけた。
が、ちょっと待て。
恋人がわざわざ手紙を書くって、時代錯誤すぎないか?
しかも、手紙には宛名だけで、住所は一切書かれていなかった。
ということは、差出人は、わざわざ自分で手紙をポストに来ているということじゃないか。
遠距離恋愛なら手紙を出すのもわかるが、それだと切手が貼られていない理由が分からない。
真理亜に話すと、「まあ、それならストーカーかな」と軽くあしらわれた。
 
くたくたになった状態でアルバイトを終え、家に帰り着く。
「あれ」
今日もポストを開けると、手紙が入っている。
昨日と同じ、クリーム色の封筒に、「菅原隆史様」と宛名だけが書かれた手紙。
なんだこれ、本格的にストーカーじゃないのか。
僕は、不意に左右を見て人がいないことを確認した。悪いことをしているわけでもないのに、他人宛の手紙を持っているというだけでなんだか後ろめたい。
他のチラシ類は何も入っていなかったので、とりあえず手紙を持って部屋に上がった。
昨日の手紙と同じように、本棚の上に置いておく。
頭から、手紙のことが離れない。
もしかするとこの手紙は、一方的に男に振られて女が、男のことを忘れられずに贈った手紙かもしれなかった。
そう考えると、今日真理亜が言っていたこともあながち間違いじゃないのかもしれない。

手紙は、その後もコンスタントに届き続けた。
二日おき、三日おき、一週間おき、と頻度はばらばらだったが、手紙の主は全然飽き足りないらしい。返事なんか来ていないだろうに、よくここまで根気強く続けられるな。
僕の家の本棚の上には、行き場のない手紙がどんどん積まれていって、全部で10通は溜まっていた。
「いい加減にしてくれないかなあ」
手紙がくるからといって、めちゃくちゃ困っているわけではない。迷惑といえば迷惑だが、嫌ならとっとと捨ててしまえばいいものだ。
それを溜めてしまう自分が悪いと言えばそうだ。
しかし、一度手紙を保管しようと思い立ってしまったいま、この手紙の謎を解かないと、気になって仕方がなくなって。
「菅原隆史」に未練たらたらの元恋人ストーカーが、ちょっと不便に思えるくらいになってしまった。
気付いたらもう8月も下旬になり、夏休みも残り1ヶ月。
始まる前は長いと思っていた休みが、手紙の謎に振り回されて過ぎてゆく。
なんという、大学最初の夏休みだ。
 
しかし、そんな僕の気がかりも、8月最後の日に解消されることとなる。
事の発端は、緒方真理亜とバイト終わりにご飯に行ったことだった。バイト仲間とご飯に行くのは初めてだ。彼女の方から、「たまには夜一緒しない?」と誘ってくれたのが理由だった。
アルバイト先から、近くの「創作料理レストラン」に行くまでの道中、「これってもしかしてデートなのか」と一瞬でも頭をよぎったのは秘密だ。
 
「それで、例の手紙はどうなったの」
「まだ来てるよ」
「うっそー! なんかちょっとやばい感じじゃん」
オムライス。
彼女は店員さんに、「オムライス明太ソースがけ」を頼んだ。
僕はチキングリルプレートを。
土曜日の夜7時。時間帯的にちょうど人の出入りが激しい時だ。カップルらしき男女のペア、親子連れ、サラリーマンなど、多くの人で賑わっている。
店内はナチュラルテイストで、木製のテーブルと椅子が並んでいる。壁や柱には植物が飾ってあった。
大学に入ってから、初めて女の子と二人でおしゃれなレストランに来たような気がする。
「てか、どんな人が手紙書いてるのか、気になるんだけど」
ここ一ヶ月間に届いた手紙の数を伝えると、彼女は目を丸くした。どうやら僕と同じで、本気でこの謎に取り憑かれたようだった。
「僕は、『菅原隆史』を忘れられない元恋人のストーカーだと思ってるけど」
「なにそれ、健太くん、辛辣!」
いつの間にか、「加藤くん」から「健太くん」に呼び名が変わっていてドキッとする。動揺を悟られないように、僕は水を一口飲んだ。
 
「まあでも、その可能性はあると思うわ。気になる〜」
運ばれてきた明太ソースオムライスを口に含みながら、彼女は今にも立ち上がって犯人を捕まえたそうだ。
「だよね。まったく、いつ手紙を入れてるのか」
グリルチキンの香ばしさが、口から鼻に抜ける。
ワイン煮込みビーフシチューと迷ったが、こちらを頼んで良かった。
「あ、いいこと思いついた」
僕が料理に夢中になっている間に、彼女は何か閃いたというふうに目を輝かせて言った。
「ストーカーの女の子が手紙を入れるところを、見ればいいのよ。“現行犯逮捕”よ」
一体いつから、手紙の主は「犯人」になり、僕たちは警察になったんだろうか。
分からない。分からないけど、真理亜は遠足に行く前の子供のような表情を浮かべていた。
 
「本当にやるの?」
「当たり前じゃん。なにびびってんの」
「いや、びびってるわけじゃないけど……」
僕のマンションが目前にあった。
創作料理レストランからの帰り道、なぜか隣にまだ緒方真理亜がいる。
「だったらどんと構えて待ってればいいのよ」
「はあ」
真理亜の押しの強さに負け、僕はしぶしぶ「エントランス張り込み作戦」にのることになった。
といっても、ポストの前に張り込むのは不審者すぎるため、マンション前の公園に居座ることにした。ここに公園があって本当に良かったと思う。
「にしても、どんな人なんだろうね」
真理亜が隣で腕を組み、まだ見ぬ「犯人」のことを想像している。
「きっと、自分大好きなナルシスト女に違いないわ。で、別れた恋人にも自分勝手に猛アタックしてるのよ」
その妄想は偏見の塊だと思うが。
夜更も近づいてきたこの時間帯、さすがに公園で遊んでいる子供はいない。高校生カップルすらもう帰っている時間だ。
大学生二人で一体何をしているんだと呆れる。
 
「健太くんはさ、好きな人、いないの?」
 
不意打ちだった。
突然彼女からそんなことを聞かれて激しく動揺する。
「いや……」
なんて答えたらいいのか分からなくて、言葉を探すうちに、「そっか」と彼女は納得してしまった。
「まあ、まだ大学生活も始まったばかりだしね」
どうしてだろう。
いつも互いに軽口を叩いているのに、この時ばかりは、彼女が一端の年上の先輩に見えた。
 
何度か沈黙に見舞われながらも、彼女と手紙の主を待つこと30分、僕のマンションの方に、女の人が入ってゆくのを目にした。
「健太くん、行こう」
先に足が動いたのは真理亜の方だった。
ぐんぐんと進んでいく彼女は、きっと幽霊の仕業だったとて、怖がらないだろう。
「ちょっと待って」
なんて、言う暇もなかった。
気付いた時には真理亜がポストの前に佇む女性を見て、「あなた」と声をかけていたのだ。手にはしっかりと、クリーム色の封筒が握られている。
「何をしているんですか」
向こうからすれば、こちらこそ「何してるんだ」状態だろうが、真理亜はそんなこともお構いなしに、目先の女性から顔を逸らさない。
「いえ、これは」
その時初めて、僕はちゃんと手紙の主の顔を見た。
うっすらと茶色味を帯びた髪の毛が、肩の下までゆるくウェーブがかっている。
目元ははっきりしていて、色白で鼻が高い。
まあ、つまるところ。
文句なしの美人だった。
僕の前で彼女と対峙している真理亜も、相手さんが想像していた「元恋人のストーカー」とはかけ離れた容貌だったんだろう。
年齢は、僕たちより7,8歳ほど上に見える。
この時明らかに、僕にとっても真理亜にとっても、相手が「年上の綺麗なお姉さん」にしか見えなかった。
また不思議なことに、どうやら女の子という生き物は、自分より綺麗な年上の女性を見ると、そのほとんどが羨望の対象に変わってしまうらしい。
おそらく、「犯人」をとっちめて手紙を出し続ける真意を確かめようとしていた真理亜も、「ごめんなさい。人違いでした」
と素直に謝らざるを得なかった。
当の相手の女性はと言うと、突然やってきた二人組の男女に詰め寄られそうになって驚きを隠せないでいたらしい。
「あなたたちは?」と、僕たちの正体を暴こうと聞いてきた。
 
僕と真理亜と、それから手紙の主の彼女で、なぜかまた公園に来ていた。暗闇の中、三人の大学生+大人の女性という謎のメンバーで公園にいるのはおかしな構図だと思う。
「あの、もしできればなんだけど、話聞かせてもらえないかな」
僕と真理亜が彼女に自己紹介を済ませると、今度は彼女の番だった。
「私は、瀬戸穂花(せとほのか)といいます。市内の病院で看護婦をしている者です」
「看護婦さんか」
「はい」
何に納得したのか分からないが、真理亜は「うんうん」と頷いてみせた。まあ確かに、看護婦さんって綺麗な人多そうだもんな。
「この家に手紙を入れていたのは、もともとここに住んでいた人に宛てた手紙だからなんです」
「菅原隆史さん、ですよね」
「はい」
彼女は時々目を伏せて切なげな表情を浮かべた。手紙の相手のことを考えているらしかった。
「どうして手紙をポストに入れていたんですか? 菅原さんが引っ越したことも知らずに」
「それは……」
これ以上話すべきか、話さざるべきか、彼女は頭の中で思案しているようだ。
「私の話を、笑わずに聞いていただけますか」
覚悟を決めた表情で彼女は僕たちを見つめた。
僕と真理亜は、瀬戸さんの真剣な顔につられるようにして頷く。
「ありがとうございます。私は手紙を送っていた相手——菅原さんが入院していた病院の、看護婦をしていました」
ああ、なるほど。
彼女と菅原隆史はそういうつながりだったのか。「元恋人」という予想は外れたわけだ。
真理亜もびっくりして目を大きくしている。
「菅原さんは、癌でした。まだ若くて、もうすぐ20歳になるぐらいの男の子だったわ。ちょうど、あなたたちと同じくらいかしら」
「はい、そうです」
「それなら気持ちも良く分かってくれるかもしれない。若い菅原さんの病気はどんどん進行して、投薬してもなかなか良くならなくて。ある日、菅原さんのお母さまがやって来てね、『こんな病院にはいさせられない。もっと大きな病院に移してほしい』と言ったんです」
「そんなことが。それで、どうなったんですか? 菅原さんは」
「そのまま、転院しました。お母さまと本人がよく話し合ったらしくて。でも転院する日、彼がちょっと寂しそうな顔をしていたのが、私、忘れられなくて。彼は口数の多い人ではなかったけれど、病院で体調が良い時はよく日記を書いていたの。もちろん私は読んでいないけれど、もしかしたら本人は、転院したくなかったのかもしれない、なんてね。私の希望かしら」
ふふ、と瀬戸さんが寂しそうに笑う。
彼女にとって、菅原隆史は特別な存在だったのだ。彼女がいまだ頻繁にここに通っていることを考えると、一目瞭然だった。
「菅原さんは、一人でこの家に住んでたんですか? ご両親はどちらに」
「ああ、彼はね、ちょっと前まで普通に大学に通っていたから、一人暮らししていたそう。ご実家もそんなに遠くないけれど、電車で通うには遠い距離だったんだって。話してくれたわ」
「なるほど。瀬戸さんはどうして、今もこの家に手紙を届けていたんですか。菅原さんがいるかどうか、分からなかったでしょうに」
「それは……気休め、かしら」
彼女は目を伏せて、憂いをにじませた。夜の闇が、彼女を包み込んで気持ちごと支えているみたいに見えた。
「菅原隆史さんがいるかどうかは分からなかったけれど、手紙を届けていたということですか?」
真理亜も、瀬戸さんの行動の真意が気になるらしく、横から彼女にそう聞いた。
 
「……はい。彼が転院したあと、私は彼のことを何も聞かされていません。ご両親が、『息子の病気が治らないのはあの病院のせいだ』と決めつけて、二度と関わらないというご意向でしたので。それ自体はもう仕方がないと思っています。でも、どうしても気になっていたんです。彼が転院してから半年が経ったけど、今どうしているのか。もしかしたらもう、だめかもしれないとも思っています。でも、それを確かめるためにも、この家に手紙を出そうと決めました。もし彼の病状が安定して普通に暮らすことができていたら、まだこの家にいるかもしれない。なんて、本当に馬鹿みたいですよね」
 
でも、癌患者にも奇跡は起こる。
その希望に賭けてみたかったの。
 
瀬戸さんは純粋に、菅原隆史さんのことを心配していたんだ。
だから、返事をもらえなくても、手紙を出し続けた。
手紙の中に、彼女の連絡先が書かれていたかどうかは分からないが、彼女にできるのは人知れず彼に手紙を出すことしかなかったんだ。
「話していただいて、ありがとうございます」
僕も真理亜も、正直好奇心から瀬戸さんの正体を突き止めようと思っていた。予想とは全然違って、瀬戸さんが純粋な気持ちが手紙を書かせていたことを知り深く反省。
真理亜も、申し訳なさそうに、大人しくしていた。
「いえ、私も菅原くんのことはとても気がかりだったので。でも、彼がここにいないということは、これ以上手紙を出しても意味がないですよね。もうやめます。もしかしたらご実家で暮らしているのかもしれないし。それより、病院に入院しているのが正解かな」
泣きそうだった。
瀬戸さんは、自分が書いた手紙が一つも菅原さんに届いていないことを知ったのだ。どんな内容だったのかは分からないが、そりゃ相当ショックだろう。
「今までご迷惑をおかけしてすみませんでした。もう書かないので大丈夫です」
瀬戸さんの言葉が、菅原さんへの本当の別れの言葉みたいに聞こえて、僕はいたたまれない気持ちになった。
しかし、これ以上僕が何をしても、彼女の手紙が菅原さんに届くはずもない。
だったらもう、今回のことは三人とも忘れて、日常に戻る方が良い。
なあ、菅原隆史。
君もそう思うだろう?
 
当たり前だけど翌日以降、瀬戸さんは手紙を投函しに来なくなった。
行き場をなくした手紙は、今もなお僕の部屋の本棚に置いてある。もう二度と増えることのない手紙だ。
「ねえ、菅原さんって、結局どうなったんだろうね」
一週間後のバイトの時間、不意に真理亜がそう言った。彼女とはあれから菅原隆史のことも手紙のことも話していなかったので、ちょっと驚く。
「さあ。でも、瀬戸さんの言う通り、まだ別の病院で入院してるのかもしれないし、もしかしたらもう……」
「そうね……」
もう、この世にはいないのかもしれない。
という言葉は、言わなくても真理亜にも分かっていたようで、僕たちの間に気まずい沈黙が流れた。その沈黙を破るかのように、彼女が「あのさ」と再び口を開く。クローズ時間も近づいてきて、お客さんはほとんどいない。
「瀬戸さんは、菅原さんのこと、好きだったのかな」
僕も、彼女と同じことを聞こうとした。瀬戸さんの憂いのある表情が忘れられない。単に看護婦として、菅原さんを他の病院へやってしまったことが、悔やまれるだけなのかもしれないし、それ以上の感情があったのかもしれない。
「分からない。そうだとしても、僕は瀬戸さんを応援したいよ」
「そうだね。私も、もし瀬戸さんの立場だったら、同じことしてたかも」
真理亜は、僕の方をじっと見たり目を逸らしたり、何か言いたげな表情をしていたが、結局口をつぐんでしまった。
なんとなく恥ずかしくなって、僕も顔を逸らした。
気付いたら最後に残っていたお客さんも、いなくなっていた。
 
その夜、僕はなかなか眠りにつけなかった。
9月に入り、明らかに8月よりも涼しくなって、寝つきやすいはずなのに。
ただ、原因は分かっていた。
今日、真理亜と例の手紙の話をしたこと。
それに、真理亜が僕に何か言いたそうにしていたこと。
手紙の一件は、僕も真理亜も瀬戸さんも、もう忘れる。
三人の間にそんな暗黙の了解があったが、自分にも何かできないのかとひたすら考えていた。これを解決しなければ、真理亜とも向き合えない気がしたからだ。
「よし」
ベッドから起き上がって、机に向かう。
何をするわけでもないけれど、自分に何かできないか考えたかった。
自分にできること。
一つだけ、あるのかもしれない。
 
「突然お邪魔してすみません」
「いえ、わざわざありがとうございます」
週末、土曜日。
僕は「菅原」という表札のある家に来ていた。
県を跨いで、電車で二時間。確かにここから大学に通うのは大変そうだと思う。
菅原隆史が僕の通っている大学の生徒だったのではないかという想像から、彼の名前をネットで検索してみた。運の良いことに、実名登録のSNSで彼の名前と、大学名が記載されていた。
やはり、菅原隆史は僕と同じ大学に通っていた。
さらに彼がオーケストラ部に所属していたことが分かり、オケ部の連中と連絡をとった。事情を話すとすぐに受け入れてくれて、菅原隆史のご両親につないでくれたのだ。
そこから先は簡単だった。
菅原家にお邪魔して、彼のことを聞く。
勇気がいることではあったが、瀬戸さんの寂しそうな表情を思い出し、なんとか実行に移せた。
 
「こんなふうに訪ねてくれる友達がいて、隆史も喜ぶと思います」
隆史くんのお母さんは、息子さんの死を悼んでか、窶れて見えた。瀬戸さんの口ぶりからするともっとヒステリックな人なのかと想像していたが、この一件で変わってしまったのかもしれない。
僕は、本当は菅原隆史の友達ではないので申し訳ないと思いつつも、彼の遺影が飾ってある仏壇の前に座りお線香をあげた。
菅原隆史は、やはり亡くなっていた。
3ヶ月前のことだそうだ。
それよりもずっと前に、一人暮らしをしていた部屋は解約していたのだろう。瀬戸さんには知らせられなかったため、彼女はついこの間まで、もしかしたらまだ菅原さんが僕の住んでいる家にいるかもししれないという可能性に賭けたのだ。
お線香をあげたあと、お母さんがお茶とお菓子を出してくれた。
ずけずけお邪魔したのに申し訳ないとおもいつつ、お言葉に甘えてお茶をいただく。
 
「隆史さんは、どんな方だったんですか。もし差し支えなければ、教えていただきたくて」
 
どうしても、彼のことを聞きたかった。
瀬戸さんに、彼のことが少しでも伝わってほしくて。
もしかしたら気分を害すかもしれないと思ったけれど、正直に聞いた。
お母さんは僕の質問に一瞬目を伏せたけど、「そうね」と切り出した。
 
「隆史は、昔から大人しい子だったわ。習い事もピアノと習字をしていて、女の子みたいで心配したこともあったけど、結局はちゃんとたくましく育ってくれたわ。大人しいのは変わらなかったけれどね」
 
温かな口調や表情から、お母さんがどれだけ隆史さんのことを愛していたのかが伝わってきた。
「僕も、そんなに社交的な方じゃないから分かります。きっと隆史さんも、心の中ではたくさん想いがあったんだろうと。ご両親への想いもそうですし、他人への想いも」
頭の奥で、何度も手紙を書いてはポストに投函する瀬戸さんの姿が浮かぶ。
隆史さんは瀬戸さんに対して、どう思っていたんだろう。単なる看護婦として見ていなかったのかもしれないけれど、転院の際に寂しそうな表情をしていたと聞くと、それだけでもないような気がした。
「ああ、そういえば隆史、手紙を書いていたのよ」
僕の話を聞いて何かを思い出したお母さんが、椅子から立ち上がり、奥の方へ入って行った。
ごそごそと物を動かす音がして彼女はすぐに戻って来た。
その手には、薄い青色の封筒が握られて。
「それは、隆史さんが書かれた手紙……?」
「ええ。病状が悪くなる直前に、書いていたのを、渡してくれたの。『もし自分になにかあったら、前の病院の看護婦さんに渡して欲しい』って」
彼女の話を聞いて僕は自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「ねえあなた、家に隆史宛の手紙が来ていたから、私たちの家に来てくれたのよね」
「はい」
お母さんの目は、どこか期待を帯びたように、力強くなった。
「その手紙の送り主が、隆史の前の病院の、看護婦さんだったのよね」
「そうです」
ここに来る前、オケ部の人を通じてお母さんと連絡を取り、手紙の一件を話していた。
だから僕が瀬戸さんと繋がっていることもちゃんと知っている。
「それなら、彼女に渡してくれないかしら? 私は、あの病院で看護婦さんにもお医者さんにも、ひどいことを言ってしまったから」
 
瀬戸さんが、「こんな病院にはいさせられない。もっと大きな病院に移してほしい」とお母さんから言われたといっていたのを思い出す。
あの時はきっとお母さんだって必死だったのだと思う。息子を想う母の気持ちが膨らんでしまった結果だ。
 
「もちろんです。僕が責任もって、彼女に渡しておきます」
「ありがとう」
彼女は、僕が訪ねて初めて、満ち足りた笑みを浮かべた。
ここに来て良かった。心からそう思う。
 
翌日、僕は瀬戸さんに連絡をとり、菅原さんからの手紙を渡した。
彼女は初め、信じられないというふうに目を瞬かせていたが、やがて手紙を受け取ると、じんわりと彼のことを思い出したのか目尻に涙を浮かべて「ありがとう」と言った。
手紙の中身を、僕は知らない。
けれど、これでいいのだ。
瀬戸さんがちゃんと、菅原さんの想いを受け取ってくれて。
あの名のない手紙が、全く意味のないものではなかったのだと、証明できて。
たぶんお互いの気持ちは、届いている。
 
瀬戸さんと別れてから、僕はようやく自分の心に決着をつけることができた。
明日はまた、アルバイトの日。
真理亜と同じシフトの時間帯だ。最近は彼女から、いつバイトに入るか僕に聞いてくるようになった。
名前のない気持ちに、ようやく。
僕は名前をつけることができるのだ。
 
 
【終わり】
 
 

■著者プロフィール
斉藤萌里

天狼院書店スタッフ。
1996年生まれ24歳。福岡県出身。

京都大学文学部卒業後、一般企業に入社。2020年4月より、アルバイト時代にお世話になった天狼院書店に合流。

天狼院書店では「ライティング・ゼミ」受講後、WEB LEADING LIFEにて『京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜』を連載。

『高学歴コンプレックス』でメディアグランプリ1位を獲得。

現在は小説家を目指して活動、『罪なき私』販売中。

***

この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いてます。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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