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チーム天狼院

今日、十年ぶりに納豆を食べた。 《三宅のはんなり京だより》


今日、およそ十年ぶりに、納豆を食べた。

納豆とは、小学校の給食以来の再会だ。
最初に言っておくと、私はずっと納豆が苦手だ。(納豆派の人すいません……)あのねばぁっとした食感も、やたらにおってくる臭さもアレだが、何より何より、大豆があの味になってることが許せんのだ。納豆嫌いな人ならわかって頂けるだろうか。
が、しかし納豆は健康にいい。日本人みんなが知ってる事実だ。良質なタンパク質だし、割と安い。最近健康が気になるお年頃なもんで、納豆を好きになれれば朝食によさげだと思う。においのない納豆もあるらしいし、小学生以来わたしの味覚も変わっているはずだ。

これはひとつ、納豆チャレンジしてみるしか!
そんな決意とともに、私と納豆の奮闘は始まった。大変くだらない奮闘記なので、お時間ある方だけ付き合ってくだされば幸いである……。

 

人間、小さい時から植えつけられた恐怖心は簡単に変わらないらしい。いざスーパーから家に帰り、納豆が私の前に鎮座すると、
……ううううう納豆こわい……。そんなうめき声が口から溢れ出る。

私は苦手な食べ物に関して、「嫌い」より「こわい」の感情が強い。
あのおそろしい味の納豆が、宇宙外生命体となって、私の口の中に入って、私を侵食してゆく図が容易に想像できる。どんどん納豆が私の身体を侵食してゆく。ああああだから食べたくないって言ってたのに。ちょっと大人になったからって、NATTOの危険を忘れるなんてばかばかばかっ。そんな風に叫ぶ未来の自分(※納豆に侵され済み)が見える。

そこで事前に調べておいた納豆の食べ方を思い出し、あわててキムチを引っ張り出す。キムチと納豆を一緒に食べると、納豆のくさみが消えて食べやすいらしい。

いよいよ開戦の時だ。誠に小さな私が開花期を迎えているのである、とかなんとか訳の分からないナレーションが頭に響く。震える手で、納豆のパックを手に取る。心臓が波打つ。汗が額から滲み出る。説明書通り、パックを両手で割る。重力のなすがままに、納豆の大群がうわああああっと茶碗に押し寄せる。

しかし、そこで私はある異変に気づく。……納豆の、最初の弾であるはずの「臭い」が、立ち込めてこなかったのだ。に、におわない~~! どっかの洗剤CMのような声を思わずあげてしまった。私が買ったのは「におわなっとう」という納豆であった。
すげえっ、におわなっとう、本当に本当ににおわない!! 食品偽装や様々な嘘が叫ばれるこのご時世、なんという誠だろう。におわなっとうこそ誠の武士だ。私は感動してしまった。ありがとうにおわなっとう、私もにおわなっとうのように誠実に生きる、といらん決意をしてしまう。

そして「これはイケる」と勝利を確信した私は、納豆の軍勢を拡散すべく、ぐるるるるるとキムチと共に混ぜた。

そして、ふっと小学生の頃の、納豆の記憶が蘇った。

 

嫌いな食べ物の多い小学生にとって、「給食」は、拷問の時間だ。
周りにいなかっただろうか。昼休みになっても給食をいじいじ食べてる子。偏食が激しかった私は、六年間あれだった。
いわゆる「給食の時間」はまだいい。問題はその後の、「昼休み」だ。給食を食べ終えた人から、昼休みを過ごす。このルールの中で、私は、嫌いな食べ物を残すためだけに昼休みを過ごしていた。
給食の時間が終わり、昼休みが過ぎ、教室からみんながいなくなっても、私は給食の残りを食べなかった。先生が、「もう時間だからいいよ」って言うまで。みんながドッジにケイドロにお絵かきをしてる間、私は目の前の嫌いな食べ物を見つめながら昼休みを過ごした。おかげで牛乳をめっちゃ遅く飲む方法も身につけたし、カレーやおでんといった煮込み料理の場合嫌いなものはつぶすことも覚えた。

優しくて大好きな先生が、目線を合わせてくれながら、「じゃあ、このおかずだけ食べたら、片付けよっか?」と言ってくれたことも覚えている。
けどでも、そんなこと言われたって食べたくないのだ! これだけって、それがヤなのである。これを食べて昼休みをみんなと過ごすよりも、私はこれを食べないことを選択するのだ。……いつも優等生してたくせに変なところで頑固っつーか意固地だった私は、六年間、毎日憤りと無力感を覚えながら、心の中でそう言っていた。それを先生に伝える度胸はないチキンだったけれど。

そんな私の嫌いな食べ物の中で、納豆は、異彩をはなっていた。

納豆を食べられない子が、私以外にもたくさんいたのである。
私の記憶上、クラスの三分の一くらいが納豆を食べられなかった。ここぞとばかりに食育を施そうとする先生は、「世界にはごはんを食べられない子もいるんですから云々、納豆をがんばって食べましょう」とまるでザビエルのように空中を見つめながら説く。……プリンだったら友達にあげても何も言われないのに。なんで納豆はダメなのだ、と私は恨めしく思った。
そこでクラスに発生するのが、「納豆を食べられない子が頑張って食べるのを、納豆を食べられる子が応援する空気」である。いつもは私を置いて校庭で遊ぶ友達が、「かほちゃんがんばってー! まずはひとくち食べよう!」と私を励まし始める。
これに、私は心底、困惑していた。
や、だから食べたくないんですが。そんなこと、友達と仲良くすることが世界の掟くらいに信じていた小学生が言えるわけなかった。でも納豆は食べたくなかった。でもこの励ましの空気を壊す勇気はなかった。
「なっとうはからだにえいってお母さんも言ってたで!」大好きな友達がキラキラした笑顔で語る。好きな男の子が、「なんで食べんの」と不思議そうな目でこちらを見る。
やめてくれ。私の栄養だ、きみたちには関係ない。私は食べたくないんやって――大好きな友達や先生に、そんなことを言えるような私ではなかった。

そして、敗北を決意した。
少し惨めな気持ちになりながら、納豆をひとくち口に運ぶ。ぷうんと臭う。ねばつきが舌を絡め取る。やわらかい豆を喉へ押しやる。
友達が、歓声をあげる。「せんせー、かほちゃんたべたよー!」 先生は驚いた顔で私を見て、微笑みながら「よくがんばったね」と言う。

先生や友達に向かってえへへと笑いながら、口の中には嫌な嫌なねばつきが残ったことを。私は、今でも鮮明に覚えている。

 

ああーそんなことあったなぁー。
しみじみ小学生の頃のことを思い出しながら、二十二歳の私は、目の前にいる納豆を見つめた。
思い返してみればなんて意固地なんだ自分、と昔の自分にツッこむ。先生も困惑していただろう。給食のおばちゃんにも激しく失礼だ。すんません、と双方で心の中で頭を下げる。

それでも、と私は思う。納豆に限らず、あの頃感じていた“「よいこと」と「好きなこと」が違う”という問題は、小学校を卒業しても私の中にずーっとあるんだよなぁ、と。

体にいい。みんなにも褒められる。やった方が、自分にとっても得で、役に立つ。倫理的に善である。――そういう「よいこと」と、自分が「好きでやりたいこと」は、いつも少しズレる。
納豆を食べたほうがいいことなんて、頭ではとっくの昔に分かってる。だけどそれでも、食べたくない、嫌いなのだ、私は。「食べない」を選びたいのだ。たとえそれで損や罰を受けるとしても。……それを伝えればよかったのかもしれないけれど、当時の私はそれを言葉にすらできなかった。ちくしょう、なんで。そんな感情をぎゅっと心に閉じ込めながら、じっと周りを見ていた子どもだった。

だけど今となっては、案外「よいこと」と「好きなこと」は、めちゃくちゃ離れてる訳じゃないのかもしれない、とも思う。
だって今はキムチを混ぜて納豆の味をなくすことも、におわない納豆を買うこともできる。健康にいい納豆を、工夫して好きなように食べれることができる。よいことと好きなことの折り合いを、つけることができる。
案外、世界は白黒じゃなくて、常にグラデーションらしい。

そう思うと、大人になるのもわるくない。そんな風ににやけながらひとりごちて、私はキムチと納豆の混ぜた代物を口に運んだ。

 

すると―――ん? んん?

……う、と私は顔をしかめた。
うげ。まずい。

あの頃と変わらずある食感に眉をひそめながら、どうにかごくりと飲み込む。
あああ、まじかー。
期待とは裏腹に、未だに納豆を拒否する私の舌の頑固さにおののく。まずいわ、こりゃ。やっぱり納豆、苦手だわ。(つくづく納豆好き派の皆さんすいません)

 

どうやら、まだ私は大人になりきれていない。冷蔵庫にはあと二パックもにおわなっとうが残っている。
私は、茶碗にいっぱい残る、キムチに混ざった納豆を睨みつける。

納豆との戦いは、残念ながらまだまだ続くようである。

 


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