チーム天狼院

強い人間になるために、もっともっと傷つく道を選ぶことにした。《川代ノート》


書けない日が、続いていました。
こういうことはこれまでに何度もあったけれど、この「書けない」ははじめての「書けない」だ、と思いました。別にスランプとかじゃないし、ネタがないから書けないとかでもありません。むしろネタならいくらでもありました。書けば書くほど書きたいことがポンポン浮かんで来て、気がつけばネタのストックは30個くらい溜まっていました。だから、あとはその中から一番書きたいと思うものを深掘りして書いていくだけ。伝えたいことをまとめて、ガーッと集中して一気にキーボードを叩く。で、気がついたら終わっている。そういう好循環がブログを更新し始めてからずっと続いていました。なのに。

なのに、今では、その書きたいと思っていたネタのリストを見ても、ちっともわくわくしてきません。何も感じません。楽しいとか好きとか、そういうポジティブな感情がまるで湧いてこないのです。
自分の心の重大な何かが壊れかけているような、嫌な予感がしました。

その「書けない」がやってきたのは、先週のことでした。

ぱったりと、手がコンクリートで固められてしまったように動かなくなりました。物理的に動かないのです。言うことをきかないのです。書こうとしても指が震えるんです。別に寒いわけでもないのに。

なんで、と思いました。ためしに無理やり、2,000字書いてみました。全然思っていることと違う言葉が出てきました。綺麗事。つまらない。それっぽいことをただつらつらと並べただけの文章。それを出してもいいと思いました。平日は毎日更新という習慣をやめることの方がいけないことのように思えました。一度やめたらもうずっと書けなくなるような気がしました。

でもあらためて読んでみると、これは自分が思っていることとは違うな、と思いました。私の本音ではない。嘘の文章だ。「とりあえず」感がぷんぷん臭っていました。こういうのを出すのは嫌だと思いました。私らしくない。

ああ、やっぱりここ最近私の身に起きた出来事は、それなりに自分にダメージを与えていたんだな、と冷静に思いました。

つい最近、落ち込むことが続いていました。正直に言いましょう。自分に対する評価が色々と耳に入ってきたのです。いいことも、悪いことも。真っ当なことも、理不尽なことも。私個人に対するものも、私の文章に対するものも。ああ私は周りからこう見られているんだな、と思う機会がここ数日、頻繁にあった。いや、別に大したことじゃありません。一つ一つはよくある、気にとめるほどでもないようなことです。でもちょっとずつちょっとずつ、雪が降り積もっていくように、心の中にもやもやとした暗い気持ちが増えていって、気がつけば、身動きがとれないくらいに心の中を覆い尽くしていました。ひどく疲弊している、と思いました。前が見えない。何も見えない。気持ちが悪い。

人の評価なんて気にするなよ、と慰める自分と、周りからそんな風に見られているなんて、死んだほうがいい、と落ち込んでいる自分。二人の人間が混在していて、不安定でした。
人から投げかけられる言葉というものは恐ろしくて、一度それを言われてしまうと、耳にこびりついたように固まって、離れなくなります。たとえ訂正しようと思っても、もう遅い。取り返しはつきません。おそらくそれがいくつも重なって私の腕に、手に、指にはりついて、全く動けなくなってしまったんだと思います。

何よりもよくないのは、そのせいで、自分の本音が見えてこなくなってしまったことでした。自分のことがよくわからない。何を考えているのかが、理解できない。問いかけてみても、反応がない。精神的に疲れているとときどき、そういうことが起こるものです。心臓の奥底に潜んでいる自分がびっしりと扉を閉じてしまっていて、何も語ろうとしていないような、そんなイメージでした。私にとっては、その扉を開けるための方法が、書くことであったはずなのですが、今回に限っては、その書くこと自体への恐怖が先立って、書いても本音を掘り起こすことができませんでした。
おそらく、私の芯の部分が、自分の本音を発信することを拒絶していたのだと思います。私はこういう人間ですということを言いたくない。発信をしたくないし、行動を起こしたくないと思いました。私が何かをすることによって誰かに迷惑をかけたり、誰かを怒らせたりするのなら、何もしないほうがいい。何もしなければ、何も得られないけれど、その代わりに自分が傷つくことも最小限におさえられる。それなら、もう自分の気持ちにも蓋をしてしまおう。何を考えているのかがわからないのなら、行動も起こしようがないから、楽だ。

ここ数日、私の身に起こった出来事の一つ一つは、本当に取るに足らないことでした。記載するほどでもありません。だいたい、具体的に何があったのか、何がどう影響して落ち込んでいたのかも、今ではよく思い出せません。ただ、思い出せないのに、妙な居心地の悪さだけが残っています。今、この瞬間も。
昨日、友人と話していてふと聞かれた質問に、私はひどく動揺してしまいました。

「最近、どう?」

えっとね、と答えようとして、言葉が何も思い浮かばかなかったのです。
先週一週間を振り返ってみました。自分が何を考えていたのか。何をしていただろう。何があっただろう。自分はどんなことを。何を思い、何を感じ、何を頑張ってきただろうか?

思考が完全に止まって、黙り込むしかありませんでした。

「……忙しかった」

考えて、ようやく出てきたのは、そんな言葉でした。それしか覚えていない。忙しかった。色々あったと思う、たぶん。でも具体的には何があったのか、よく思い出せない。
最近自分がぐるぐると考えていたことや、面白い発見がたくさんあったはずなのに。いつもなら、そういうことを話したいと思うはずなのに。私のことを知ってほしい、認めてほしいという気持ちはあるのに、その一方で、評価されるのが怖いとも思う。

この一週間、何か面白いことがあっただろうか。胸が高鳴るようなことをしただろうか。何も思い浮かびませんでした。それを頑張って思い出そうという気にもなりませんでした。

でも、人の評価を気にして疲れた、だなんてそんなこと言ってたら、この社会では生きていけないよなと思いました。
社会で働くということは、人から評価されることばかりです。一緒に働いている仲間から、お客様から、取引先から、友人から、あるいは全然知らない人からだって、評価される。たまたま通りがかった人にだって評価されます。そうしないことには成り立ちません。評価し、評価されるということが世界のあちらこちらで起こっています。人に評価されることを繰り返して、大人になっていくのだと思います。おそらく。成長していくのだと思います。これくらいのことで、落ち込んだとかきついとか言っていたら、身がもたない。ある程度は自分で割り切って判断していかないと、自分の精神がやられてしまう。

だから。
だから私は、辛いとか悲しいとか悔しいとか、そういう感情を忘れようとしているのだろうか。もしかして。

自分の心から感情が消え失せはじめているのかもしれない、と思いました。だから、もっと世の中のことを知りたいとか、もっと書きたいとか、そんなことを思わなくなってきたのかもしれない。だから先週一週間のことを聞かれても、何も思い出せなかったのかもしれない。

大人になるにつれて、働く経験が増えるにつれて、感情を覚えるセンサーが鈍くなってきている、と思いました。
あるいは、感受性、と言えるのかもしれませんが、確実にそれがすり減って、1日1日と経過するごとに、自分の考えていることがわからなくなってきているのかもしれません。

思えば、高校生の頃より、大学生の頃より、傷つくことは少なくなってきています。辛いな、と思っても、乗り越えられる回数も増えてきました。これまでにこうして乗り切ってきた、という自信もあるので、ある程度はどうすれば自分が傷つかずにすむのか、わかるようになってきたのだと思います。感情をコントロールする術が身についてきた。例えば怒られたとき、誰かに嫌なことを言われたとき、一度気分が落ち込んでも、一通り泣いたら大丈夫、とか、あと30分ぼーっとしていれば治るとか、自分との付き合い方はわかってきました。これは学生の頃では考えられなかったことです。私はもともとひどく繊細なので、何か少しでも嫌なことがあると、しばらく落ち込んでしまうことがありました。根に持つタイプでもありました。感情をコントロールできるようになる、だなんて、信じられないことでした。

私、いつの間に、こうやって自分と折り合いをつけられるようになっていたんだろう。
不思議でした。とても不思議でした。まず「自分と折り合いをつける」という発想がそもそも、なかったはずなのに。

あるいはこれが、「大人になる」ということなのか。
こうして誰かに何かを言われても傷つくことなく、周りの評価をいちいち気にすることなく、自分の道をただひたすら進む、嫌なことがあっても理不尽なことがあってもうまくかわして「大人の対応」をする、それが大人になるということなのでしょうか。
強くなる、ということなのでしょうか。

だとすれば、今の私の心の中から、感じるセンサーが少しずつ少しずつ減って、傷つく回数が減っているのは、喜ばしいことなのかもしれません。私が一人の人間として成長していて、強くなっているということなのかもしれない。

でもだとすれば、私はどうしてこんなに、もやもや、気持ちが悪いと思っているのでしょうか。
どうして今、こうやって負の感情を忘れようとしている自分を、嫌いだと思っているのでしょうか。

人の評価って、本当に気にしないほうが、いいのでしょうか。

強くなりたいと、ずっと思って生きてきました。何があってもぶれない芯を持っていて、へこたれない。めげない。自分が信じた道を進む。周りからどう言われようとも気にしない。人からどう思われるかなんて考えていないし、たとえ嫌なことを言われても傷つかない。自分を誰よりも信じている。そんな強い人間になりたいと、思ってきました。

もし私の感情センサーが鈍ってきているのだとすれば、傷つく回数が減ってきているのだとすれば、負の感情を抱くことがなくなってきているのだとすれば。私は、自分が思い描いていたような強い人間に近づいているのだと思いました。へこたれずに社会で生きていける大人に、成長しているはずです。はずなのに。

なのに、なんでこんなに気持ちが悪いのか。
なんで、自分のことが嫌いになって行くのか。信じられなくなるのか。

感じる心を忘れようとしているのが、こんなにも、辛いなんて。

自分の感情には見ないふり。気がつかないふり。蓋をして、ずっと奥にしまっておく。

そんな生き方でいいのでしょうか、私は。

 

 

 

「そんなことで、泣いてるの?」

子供の頃のことを、思い出します。
すごく小さかった。まだ小学校にも入っていなかったかもしれない。

その頃テレビでお笑い芸人のダンスが流行っていて、家族でそれを真似していました。母親や親戚のお姉ちゃんができているけれど、私はリズム感がなくてすごく変になってしまって、それで笑われました。変なの、何その踊り! とみんなの前で笑われて。

それがすごく嫌で、心底嫌で、なによりも悔しくて。今考えると別にダンスができないことくらいでそんなに悔しがる必要はなかったと思います。別にダンサーになりたいわけでもないんだし。でもそのときの私は自分ができないことが、そしてできないことに対して笑われたことが、すごく嫌でした。恥ずかしかったし、悔しいと思った。そのあと一人でこっそり練習したこともありました。

あのときの、あの感情を思い出すと、ひどく寂しい気持ちになります。

あの猛烈な悔しさは、怒りは、どこに消えてしまったんだろう、と。
私は一体いつ、どこにあの感情たちを置いてきてしまったんだろうと。

成長するにつれて、歳を重ねるに連れて、社会との関わりも深くなり、その分、人に評価される回数も増えます。そうしていると、いちいち誰かに馬鹿にされるたびに怒っていたら身が持ちません。だから、今私がダンスをして、それが「下手くそ」と笑われたって、私は何も感じませんし、悔しいとも思いません。それでいいのだと思います。

でも、もし、もしも今のペースで感情センサーが少しずつ鈍くなっていくのだとしたら、どうしよう。

私が今感じている怒りは、あるいは、10年後には感じなくなっているかもしれない。
誰かに負けて悔しいとか、置いてかれているようで焦るとか、もっと上に行きたいとか、そういう感情を、このままいくと忘れてしまうような気がしてならないのです。

日々社会に揉まれて生きて行くうちに、自分が鈍くなっていくのは、いいことだと思っていました。それが大人になるということだと、強くなることだと思っていました。

でも、それは違うんだと、今気がつきました。

強い人というのは、傷つかない人というわけではないのだと思います。
傷ついても、その傷ついた分だけバネにして、行動に変えられる人が、強い人なのだと思います。

私は人の評価を怖がったりするのは、弱い人がすることだと思っていました。精神が弱いからこそ、周りからどう見られるか気にしてしまう。自分を信じられないのだと。

でも、違った。
本当に強い人というのは、私が憧れる強い人というのは、真っ当に傷つき、周りが思っている以上に悔しがり、ポジティブな感情もネガティブな感情も、とても強い人なのだと思います。

強い人は、周りからの評価を気にしていることを見せずに日々行動を起こし、努力しているから強く見えるけれど、でも本当は違うのだと思います。心の奥底では、とても繊細で今にも傷つきそうな人間がすんでいる。

いや、あるいは人によって「強い」「弱い」の定義は違うかもしれませんが、私はそう思うし、そういう人になりたい。

人の評価を気にしないようになりたいと思っていたけれど、傷つかないようになりたいと思っていたけれど、傷つかない人間に、どうして人を感動させるものが書けるでしょうか。

誰の目も気にせず、感じることがなく、悔しいとか辛いとか、そんな風に思わない人間の書くものを、誰が読みたいと思うのでしょうか。

もう、気にしてしまう自分を認めようと思います。
認めた上で書いていこうと思います。
これからも人から評価されることはあるでしょう。傷つくこともあるでしょう。怒ることもあるでしょう。

それならそうと、私は認めて書いていこうと思います。
傷ついたら傷ついたと言い、辛いときは辛いと言い、泣きたいときは泣く。

もしも自分との折り合いのつけ方というものがあるのならば、私はそうやってつけていきたい。

みんなにいい人だと思われたいし、みんなに面白いと思われたい。怒られたら傷つくし、悪口を聞いたら落ち込みます。

そうです、それが人間です。一体何がダメなのでしょうか。

一度気がすむまで落ち込んで、それをバネにして動き出す。
それでいい。
それでいい。

それでいいんだよ。

だってそうして生きていく以外に、私がこれから生きる方法なんて、ないんだから。

私は書きます。
これからも書きます。
落ち込むことがあっても、嫌なことがあっても書きます。

書く以外に、私は自分を落ち着かせる方法を知りません。

生きていくしかない。
この社会で。

何があっても。

書けば書くだけ強くなれるって、信じてるから。

 

 

 

 

 

*この記事は、人生を変える「ライティング・ゼミ《ライトコース》」講師でもあるライターの川代が書いたものです。
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❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。
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2018-02-27 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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