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チーム天狼院

トムヤムクンヌードルに負けた女《川代ノート》


記事:川代 紗生(チーム天狼院)
*この記事はフィクションです
 
 
「ちょっと待ってよ。じゃあ私、トムヤムクンヌードルに負けたってこと?」
 
マサルの彼女は、怒っていた。ものすごく怒っていた。そして泣いていた。怒りのあまり泣く人間を見たのは、生まれて初めてのことだった。小型犬が威嚇しているときみたいなシワが顔の中心によっていた。けれど、その顔を見てもどうすることもできなかった。トムヤムクンヌードルと箸を持ったまま、マサルは固まっていた。頭の中ではトムヤムクンヌードルと彼女がシーソーの上に乗ってゆらゆらしていた。なんて答えればいいんだろうか、俺は。なんて答えるのが正解なんだ、この場合?
 
何を思ったか、マサルはそのままトムヤムクンヌードルを口に運んでしまった。どうしてそんな行動をとったのかはわからない。もう何もかも面倒になって、この状況から逃げ出したくなってしまったのかもしれない。彼女に詰め寄られている間に少しぬるくなってしまったトムヤムクンヌードル。ピリッとしたタイの調味料の味がした。ちょっと口に入れただけでアジアの香りがする。日清のカップヌードルの、トムヤムクン味が、マサルは病的に好きだった。
ずずっ、ずっ、ずー、と間抜けな音が静かな部屋の中に響いた。もうマサルは、自分が焦っているのか怒っているのかよくわからなかった。こういうとき、女の子にどう答えるのが正解なんだろう。そもそも「正解」の答えをすることが本当に今の俺に、必要なことなのだろうか? マサルは、冷静な判断をすることができなかった。自分の感情がよくわからなかった。
 
「ちょっと、何食べてんの!?」
 
彼女は黙って麺をすすっているマサルを見て、ますます顔を赤くした。そして泣いた。うあああ、もうやだ、なんなのこいつ信じらんない、と言って激しく泣くと、そのまま鞄をひっつかんで部屋から出て行った。
 
あれ、どうしたらいいんだろう、と部屋に一人残されたマサルは思った。まさかトムヤムクンヌードル一つでここまで大げんかになるなんて思っていなかったのだ。
 
マサルはとりあえず、そのままぬるくなりかけたトムヤムクンヌードルを完食した。なんといってもやはり、うまい。いや、うまいというのとは違うかもしれないな。よくよく考えてみれば、マサルは別にトムヤムクンヌードルを「おいしい」とは認識していないような気がした。「おいしいから食べたい」とかそういう次元の話をしてるんじゃないのだ。「食べずにはいられない」だけなのだ。病的にはまっていた。3日に1回くらいは食べないと気が済まなかった。
ずずっ、とすすった最後の汁が気管に入ってむせた。唐辛子だかなんだか、よくわからないアジア独特の香辛料に刺激されている、この感じ。ああ、たまらないとマサルは思った。
 
食べ終わったあと、マサルはベッドの上に寝転がって考えた。部屋にはトムヤムクンヌードルのスパイシーな香りが充満していた。彼女とはもう終わりなのだろうか。結構可愛い子だった。好みのタイプではなかったが、ブスと美人なら確実に美人に分類されると思う。マサルのサークルでも彼女のことをかわいいと言っているやつは多かった。彼女がどうやらマサルのことを気になっているらしいという話を噂で聞いて、それでデートに誘ってみた。そうしたら驚くほどとんとん拍子にことが運んだ。久しぶりにできた彼女。一人暮らし。キャンパスライフ。楽しいことばかりだった。彼女とは色々なところにデートに行ったし、こうしてマサルの家で過ごすこともよくあった。マサルたちの付き合いはそれなりに順調だと思っていた。
 
「なんでせっかくジャーマンポテト作っておいたのに、食べなかったの?」
 
だから、それくらいのことであんなに怒るとは思っていなかったのだ。
彼女は料理好きだった。よくマサルの家に来て料理をつくってくれることもあった。実家で母親と料理を作ることもよくあるみたいだった。マサルの家で作った料理の写真を撮ってインスタグラムにアップしたりもしていた。
 
彼女はマサルの家にやってきては、料理をつくった。付き合ったばかりの頃、一人暮らしのキッチンのゴミ箱にトムヤムクンヌードルの空カップがたくさんあるのを見て、「食生活崩壊してるじゃん! しょうがないなあ。私が作りに来てあげる」と定期的に部屋に来るようになったのだ。マサルとしては今の生活にとくに不満はなかったのだが、彼女がせっかく家庭料理を色々と作ってくれるので、そのままありがたくいただいていた。
 
彼女が作る料理はバラエティに富んでいた。肉じゃが、ハンバーグ、オムライス、パスタ、カルパッチョ、チーズトマト鍋、キーマカレーなどなど。彼女は「ちゃんと野菜も食べなきゃだめだよ」と言いながら、野菜をふんだんに使った料理を作ってくれた。「肉ばっかり食べてたら太っちゃうよ」とも言っていた。マサルとしては肉ばかり食べているつもりはなかったし、野菜嫌いだと宣言したつもりもなかったが、どうやら彼女の中ではマサルは「無類の肉好き」で「おいしい味付けをしないと野菜が食べられない」人間になっているようだった。ただそんな些細なことをいちいち指摘するのも面倒だし、料理をする手間が省けるのはありがたかったので、特に何も言わなかった。
 
ブー、とスマホのバイブがなった。見ると、彼女からのラインだった。
「今日は、友達の家に泊まるから」と書いてあった。あー、確実に怒ってるわ。マサルはため息をついて腕を顔に当て、目を閉じた。心の底から怒っているような彼女の表情を思い浮かべた。
 
今思えば、早い段階で、誤解を解いておくべきだったのかもしれない。マサルは別に野菜嫌いで肉食で、自炊をするのが面倒だからトムヤムクンヌードルを食べているのではなく、トムヤムクンヌードルの味が好きだから食べているだけなのだと。何ならトムヤムクンヌードルを3日に1回食べる日以外は、普通に自炊をしているのだと、ちゃんと説明すればよかったのだ。
でも彼女も彼女だ、とマサルは思った。冷蔵庫にはマサルが料理したときに余った野菜や肉が置いてあることもあったし、調味料だってそれなりに揃っていた。フライパンや鍋などの調理器具だっていつでも使えるように用意してある。本当に料理をする人間なら、マサルのキッチンを見れば自炊する人間が使っているものだと認識できたはずだった。
 
きっと彼女はファッションで料理を作っていだけだったんだろうな、とマサルはどこか冷静に考えていた。別に本当に料理が好きなわけではないし、実家暮らしだから毎日自炊しているわけでもなくて、きっとマサルの家に来る日、週に1回だか2回料理をしているだけで、「自分は料理好き」だと思っているのだろう。彼女の作る料理はたしかに美味しかったけれど、いかにも「おいしそう」と言われるような、見栄えのいいものばかりだった。カルパッチョの皿の周りにソースでよくわからない波線をかいたり、料理を盛る器や箸置きにこだわったりしているのを見ても、マサルは全く共感できなかった。どうしてそんなことにエネルギーを注げるんだろう。何が面白くて、料理におしゃれを求めているんだろう。別にご飯なんて食べれればいいんじゃないの? としか思わなかった。でも彼女が嬉しそうにしていたから、放っておいた。
 
マサルはベッドから起き上がって、冷蔵庫を開けた。中には彼女が作ったジャーマンポテトの皿があった。ラップがかけられ、上には「食べてね♡」とメモ書きが貼ってあった。
 
とくに腹は減っていなかったが、レンジでチンして食べることにした。ぼおっとレンジの中で回転するジャーマンポテトの皿を見つめていた。ブーン、という音だけが部屋の中に響いていた。そういえば、彼女が自分の家で料理をするようになったのはいつからだろう。ああ、たしか合鍵を渡してからだ。合鍵を渡すと、彼女は勝手に家の中に入って料理をするようになった。すごく楽しそうだった。マサルには、誰かのために料理をするというのがどうしてそんなに嬉しいのか、よくわからなかった。
チンしたジャーマンポテトの、じゃがいもを口に入れた。少し硬かった。火が通りきっていないのだろうと思った。味付けは別に悪くはない。ただじゃがいもの処理を間違えただけだと思う。
 
マサルはぼんやりとジャーマンポテトを食べ続けた。やっぱり硬かった。でも最後まできちんと食べた。
完食して、皿を洗う。ジャーマンポテトに使われていたあらびきマスタードの粒がこびりついていて、とれなかった。ごしごしとスポンジで洗っているうちに、また彼女の怒った表情が浮かんできた。
 
顔を真っ赤にして怒りながら泣いていた。あの顔は、あの表情は、なんだったんだろう。何かと戦っているような。ただ怒っているだけじゃないような気がした。もしかして何か別の、彼女の中の大切な何かを、俺は壊してしまったのだろうか。
ジャー、とお湯が流れる音が、どこか遠くに聞こえた。
どんな気持ちで、何がしたくて、彼女はこれを作ったんだろう。

 

 

今日は忙しい日だった。死ぬほど忙しい日だった。授業が18時過ぎまであり、そのあと23時まで居酒屋のバイト。朝から晩まで動いていたので、くたくただった。もう疲れたから適当でいいやと、トムヤムクンヌードルを買って帰ったのだ。疲れた。本当に疲れた。あのピリッとした何ともいえないスープを思い切り飲みたい。舌が刺激を欲していた。
 
家に着くと同時に、彼女からラインがきた。
 
「飲みに行ってくる。終電で帰るね! 冷蔵庫見てね」
 
ああ、そういえば今日はうちに来るって言ってたっけ、とぼんやり思いながら冷蔵庫を見ると、ジャーマンポテトが入っていた。温めて食べろということだろう。
ジャーマンポテトか、と思った。さっき居酒屋のバイトをしているときにメニューで散々作ったばかりだった。
うーん、なんか今日は、違うんだよな。
マサルは考えた末、冷蔵庫の扉を閉めた。今日はなんだか、どうしてもトムヤムクンヌードルが食べたい気分だったのだ。
 
お湯を入れて、食べた。無心で口に運んだ。疲れているときは、どうしてもこういうジャンキーなものが食べたくなる。いや、わかっている。こういうものばかり食べていると体に悪いことくらいわかっている。でもだからこそ他の日にはちゃんと野菜を食べるようにしているのだ。こういうときくらいいいじゃないか。
 
ずず、とトムヤムクンヌードルをすすっているときに、彼女が帰ってきた。おかえり、と何事もなく彼女を迎えた。あー、疲れた、飲みすぎたー、喉乾いた、と言いながら彼女は冷蔵庫を開けて、そして絶句した。
嫌な気配を感じてマサルが振り向くと、ジャーマンポテトの皿を持っている彼女が、目を丸くしてこちらを見ていた。彼女の目線が、手元のジャーマンポテトと、マサルの持っているトムヤムクンヌードルの間を行ったりきたりした。
そして、言った。
 
「え、なんでこれ食べてないの?」
 
マサルは頭を高速で回転させて考えた。どうやら彼女が怒っているらしいということは理解できた。気まずい空気がしばらく二人の間に流れていた。
 
「あ、カップ麺買ってきちゃったから」
 
考えた末、そのままの答えしか出てこなかった。だって他にどう言えばいいのだ。
 
「別にカップ麺なんていつでも食べれるじゃん。せっかく作っておいたのに。もしかして、気づかなかった?」
「いや、気づいてた……けど」
「じゃあ、なんで?」
 
マサルには、今の状況がよく理解できなかった。ちょっと待て、なんでこんなに気まずい空気になってるんだ? たかが夕飯一つの話じゃないか? うまい言い訳が思いつかなくて、トムヤムクンヌードルを持ったままマサルはただ黙っていた。
 
「いらないなら、そう言ってくれればよかったのに。私が今日来るのわかってたよね?」
「いや、あの……。ごめん」
 
何も言わないマサルに対して、彼女は追い打ちをかけた。マサルは謝るしかなかった。
彼女ははー、と大きく溜息をつくと、ジャーマンポテトを冷蔵庫にしまってバタン、と扉を閉めた。
張り詰めた空気がマサルと彼女の間に漂っていた。どうしよう、とマサルは思った。なんだか嫌な予感がした。
数秒後だったか、数分後だったか、彼女はあのさあ、と口を開いた。イライラしているのだろうことは明らかだった。
 
「前から思ってたけどさ、まーくん、そういうところ無神経だよね。もうちょっと人に感謝とかしたほうがいいんじゃない? なんか、やってもらってることを当たり前って思いすぎ」
 
彼女は冷蔵庫にもたれかかって腕を組みながら言った。鼻の穴が小刻みに震えているのが見えた。彼女がここまで怒っているのを見たのはそれが初めてだった。
 
「私がご飯作ってあげてもただごちそうさま、とかだけで感想とか言わないしさ、しかも買い物代も払ってくれないし。食費、馬鹿にならないんだけど。半分出すよ、とか自分から言うのが普通じゃない? なんで何も言わないでされるがままになってんの? なんか、私がしてあげるばっかで、まーくんは何もしてくれないじゃん。クリスマスプレゼントとかもなかったしさ。私のこと本当に好きなの?」
 
溜まっていたものが噴き出したように、彼女はまくしてた。話しているうちに悲しくなってきたのだろう、気がつけば、彼女は泣いていた。マサルはそれをどこか冷静に見ていた。
 
うまくこの場をやり過ごしたいという気持ちと、理不尽な状況への小さな苛立ちが同時に湧いてきて、せめぎ合っていたが、気がつけば口を開いていた。
 
「いや、でも俺、頼んでないよ」
「え?」
「ご飯作ってって頼んでないし、今日来るからって作るとは限らなかったし」
「じゃあ確認すればよかったじゃん。今日ご飯作る? って。一言ラインすれば済む話だよね?」
「いや、なんか確認すんのめんどくさいじゃん」
 
それを言った瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
 
「めんどくさい?」
 
じわりと涙が溢れてきて、そして彼女の頬を伝っていった。小さなシワが顔の中心に向かってできていくのがわかった。
 
「何それ。めんどくさいって何? ライン一通だよ。一言、今日ごはん作る? ってライン送ることの方が、彼女の手料理チンすることの方が、わざわざ体に悪いカップ麺買ってきてお湯沸かして入れることより、めんどくさいっていうの?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味よ!」
 
バン、と彼女は思い切り机を叩いた。勘弁してくれ、とマサルは思った。でも今更引けなかった。あ、俺、案外ストレス溜まってたんだな、と頭の片隅でどこか冷めた目で見ていた。
 
「そうじゃなくて、ただ俺が言いたいのは、自分が食べるものについて、自分以外の誰かの許可を得ないといけない状況にあることがめんどくさいってことだよ。たとえば、今日みたいにトムヤムクンヌードルを食べていいかどうかの確認する時間も無駄だし」
 
「時間が無駄?」
「だってそうだろ? 別に結婚してるわけでも同棲してるわけでもないんだしさ、お互い好きなものを食べればいいじゃん。非効率だよ、これって。もうやめようよ。無理してご飯作ってくれなくていいって。俺は俺で、トムヤムクンヌードルの生活でいいし」
 
そう言った瞬間、彼女の首から額にかけて、じわじわと顔が赤くなっていった。彼女は泣いていた。心の底から怒っているようだった。
 
「……何それ?」
 
言ってはいけないことを言ってしまったのだということはわかった。でもどうしようもなかった。マサルは自分が苛立っていることに驚いた。あ、俺、怒ってるな、とぼんやり思った。
そして、彼女はわなわなと震えながら言った。
 
「ちょっと待ってよ。じゃあ私、トムヤムクンヌードルに負けたってこと?」

 

 

 

案外、女の方が勝ち負けで物事を考えてしまうのかもしれないな、とマサルは思った。
どれくらいこうしていたんだろう、ぼーっとしているうちに、磨いていたジャーマンポテトの皿は綺麗になっていた。こびりついた粗挽きマスタードも取れている。
洗い物を終えて、手を拭き、ベッドに腰掛けてなんとはなしに部屋を見渡した。彼女が勝手に置いていった化粧水やらヘアアイロンやらバッグやらが目に入った。彼女はマサルの部屋に自分のスペースを作っていた。毎回遊びに来るたびに、彼女の荷物が増え、じわじわと彼女のテリトリーが広がっていった。
 
彼女はいったい、何と戦っていたんだろう、とマサルは思った。
料理を作りに来る。家に来てものを増やす。SNSで毎回二人分の料理の写真をアップしていたのだっておそらく、偶然じゃないだろう。
 
男の方が勝ち負けにこだわるものだと思っていたけれど、案外そんなことないのかもしれない。
 
「私、トムヤムクンヌードルに負けたってこと?」
 
おそらく彼女は、マサルのために料理を作っていたのではなかった。本気でマサルの体を心配してくれていたわけでもなかった。
 
彼女は自分に好きになってほしくて尽くしてくれているのだと思っていた。
本気で自分のことを心配してくれているんだと思っていたし、愛情を注いでくれているのだと思っていた。だからマサルもその期待に応えようとしていた。
でも彼女のベクトルが向いていたのは、マサルではなかったのだ。
 
きっと彼女が戦っていたのは、理想の自分だったのだ。
彼女の中には理想の自分像が出来上がっていた。彼氏のために料理を作り、彼氏に必要とされ、彼氏の生活に一部になっている自分が、きっと彼女の中にはあった。
マサルには計り知れないが、彼女の中には彼女なりの「理想の人生設計」があったのだろう。大切な人を愛し、愛され、好きなものに囲まれて暮らす。おしゃれな器やオーガニックの化粧水など、こだわり抜かれたものたちに囲まれて生活することが、彼女にとっての理想の生活だったのだ。
 
そして彼女の中に出来上がった「理想の人生」の中には、「彼女の手料理よりトムヤムクンヌードルを食べたがる彼氏」は、プログラムされていなかったのだろう。
 
彼女がほしかったのは体に悪いようなものばかり食べている彼氏ではなくて、彼女が作った料理をおいしい、ありがとうと言って食べる彼氏だったのだ。
 
きっと俺は彼女の人生設計から大きく逸脱してしまったんだろうな、とマサルは思った。申し訳ないことをしたかもしれない、とも思った。あるいは、うやむやにしていれば喧嘩しなくてもすんだのかもしれない。たかがトムヤムクンヌードルだ。別に食べなくなったからって死ぬわけじゃない。彼女の言う通り、せっかく彼女が作ってくれる料理を楽しく食べていた方が良いのかもしれないとも思った。
 
でも、とマサルは思った。
 
俺は、彼女の理想に付き合うために生まれてきたわけじゃない。
マサルは、自分の中に静かな怒りが湧いているのに気がついた。そんな自分に、少し驚いてもいた。
 
彼女の理想を叶えるための道具として、これ以上生きていくわけにはいかないんだ。
 
彼女は、マサルを愛していたわけではなかった。マサルがほしかったわけではなかった。「尽くさせてくれる相手」がほしかっただけなのだ。たまたま都合の良いタイミングで現れたのが、マサルだった。それだけだ。きっと彼女の中には理想のシナリオがあって、すでにキャラクターが出来上がっていた。あとはそれを演じてくれる人を待つだけだった。マサルは彼女の言う通りに役を演じることができなかった。それだけの話だ。
 
マサルはおもむろにスマホを開いて、ツイッターを見た。スクロールして、彼女のアカウントを探す。そして見つけた。彼女のつぶやきだった。ああ、やっぱりとマサルは呟いた。
 
「一生懸命やってたことが全部無駄だったってわかったときの虚しさやばい ほんとつらい」
 
ほら。もう出来上がっている。
彼女の次のシナリオは、完成しているのだ。喧嘩したあと、反省した彼氏から電話が来る。ごめん、俺が悪かったと謝る。そして私も言い過ぎた、と彼女も謝る。夜中にタクシーで彼女を迎えに行って、抱きしめて、家に帰って、セックスをして、仲直り。以上。翌日からはいつも通りだ。
 
めんどくせえ、とマサルは思った。めんどくさい、心底めんどくさい。
 
理想のカップルとか、理想の家族とか、理想の彼女とか、理想の彼氏とか。
みんななんなんだよ。そんなに理想が大事なのかよ。周りから羨ましがられて、いいなーとか言われて、そんな風になりたいとか言われないと、気が済まないのかよ。そういう恋愛してないと、価値ないのかよ。人間じゃないのかよ。
 
なんなんだよ最近、全部がめんどくせえ、とマサルは呟いた。自分が好きなだけじゃダメなのかよ。自分がいいと思ってたらそれでいいんじゃだめなのかよ。キーマカレーとかハンバーグとかカルパッチョとか、おしゃれなもん作れる女じゃないと価値ないのかよ。
 
俺たちはいつから、好きなものを好きだと、堂々と言えなくなった? いつから、周りが「正解だ」と認めてくれるものにしか、価値を見出せなくなった? いつから、正しいか正しくないかでしか、物事を見られなくなった?
 
もうめんどくせえよ、もうやめようよ、理想とかそんなもん、捨てろよ。
「好き」か「嫌い」かで選ぶことくらい、できないのかよ。
 
トムヤムクンヌードルが食べたい、とマサルは思った。無性にトムヤムクンヌードルが食べたい。おいしいかまずいのかはわからない。体にいいのか悪いのかもわからない。でも食べたいと思った。どうしても今、食べたいと思った。すでに一杯食べているし、ジャーマンポテトも一皿食べていて、満腹だった。食べきれるかはわからなかった。でも食べたかった。食べないわけにはいかなかった。すぐにコンビニに行ってあるだけのトムヤムクンヌードルを買ってこようと思った。そして気がすむまであのスパイシーな汁をすするのだ。思いっきり。俺はそうしたいんだ。
 
よし、とベッドから立ち上がり、財布をひっつかんで外に出る。
 
食べるぞ、食べる。俺は絶対にトムヤムクンヌードルを食べる。絶対にそうしなきゃいけないんだ、今夜は。夜にカップ麺なんか食ったら太るとか、そんなもん関係ない。
 
だって、俺はトムヤムクンヌードルが、死ぬほど好きだからだ。

 

 

 

 

 

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❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。
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2018-03-07 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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