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【モテたくて、何が悪い?】小悪魔になりたかったあの頃《川代ノート》


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(c) 2012 Taylor.McBride™

高校生の頃、やたらと「小悪魔」というものに憧れていた。

当時の私は随分ウブな15歳の少女で、同級生達に徐々に彼氏が出来る子もちらほらあらわれはじめて、「そろそろ私も・・・」なんて恋に恋していた時代であった。

高校一年生ともなればほとんどの女の子は恋愛に興味を持ち始める頃で、何組のだれそれはもう経験済みらしいとか、一つ上のだれだれ先輩は二股してるらしい、とか、そういう少しピンク色の話題で学年中がそわそわしているような時期だった。

仲のよかった友人にも彼氏が出来るようになり、ふたりで映画を見に行ってこっそり手を握られちゃった、きゃ、とかそんなことを毎日聞かされては、「いいなあ私も彼氏欲しい」と、未知の経験に想像と妄想をふくらませる日々。
彼氏がいるってどんな感じなんだろう。好きってどういう感情なんだろう。本当に誰かを好きで好きでたまらない、みたいに私もなっちゃうんだろうか。漫画でよくある恋愛のいざこざとか取り合いとか、そんなのが本当にあるのだろうか。
友人の話をきいたり、少女漫画を読んだり、小説を読んだりしては、よくわからない世界への憧れはどんどん強くなっていく。

とはいえやはり彼氏をつくるのは難しくて、次々に彼氏が出来る友人をいいなあいいなあと純粋に羨ましがっていた。純粋で余計な偏見もなかったあの頃は、変なプライドが邪魔して「別に彼氏なんていらないもんね。作ろうと思えばいつでも作れるし、今は作る気分にならないだけよ」なんて下手なばればれの言い訳をすることもなかった。
羨ましいと思えば素直に羨ましいと言えていたものだ。

そんな私にも彼氏が出来たのは、高校一年の肌寒い時期だったと思う。ちゃんと付き合うのは初めてだったから妙にうきうきしてしまって、毎日友達に逐一進捗を報告していた。意地悪な友人にプリクラを見せたら「なんか文房具屋にいそうな顔」とからかわれたのもいい思い出だ。
お小遣いをもらっている身だったからお金もなくて、親にばれやしないかとひやひやしながら近所の公園のベンチに座っておしゃべりしたり、自転車に二人乗りして警察に怒られそうになって笑ったり。お金がないなりに二人で楽しむ方法を考えて、それが結構楽しかったと思う。

今だから思い切って暴露できるけれど、その頃の私は小悪魔というもんに憧れて仕方なかった。
当時から真面目で頭でっかちだった私は、学校の勉強はたいして頑張らなかったくせに、恋愛に対する勉強は努力を惜しまなかったのである。買うのは少々恥ずかしかったので(後々面白くなって結局買ったが)放課後に本屋の恋愛エッセイコーナーによって立ち読みしていた。「小悪魔」とか「モテ女」とか「色っぽく」とか、いかにもなワードが並べられているその本を手にとっては、どんなことをすれば男は喜ぶのか、あるいはどんな仕草が色っぽく見えるかとか、そんなことばかり研究していた。今思えば高校生がそこまで色っぽくなってどうする、と思わないでもないが、とにかく当時は未知の領域に対して勉強しなければ気が済まなかったのだと思う。

単純に言えば、モテたかったのである。恋愛への探究心がものすごく強かった。男の子に愛されて、大事にされて、自分に夢中にさせたい。漫画や小説みたいなドラマが自分にも起こってほしい。
当時から「愛されたい」メスの欲求が強かった私は、「男を夢中にさせて振り回しちゃう女の子」=小悪魔、という単純なイメージを信じ込み、そのときの彼氏に色々試してアプローチを仕掛けてみたりしていた。まあ、結局そんな付け焼き刃的なモテテクニックよりも、自然体で素直でいることが一番大事だとのちのち気がついたけれど…。

男が「悪い男」「ちょい悪」「ダンディズム」に憧れるように、女も「悪女」に憧れる時期が、どの女にも一度はあるんじゃないかと思う。峰不二子とか加賀まりことか「痴人の愛」のナオミとか、コケティッシュな感じ。いいやつなのか悪いやつなのか分からない、あの感じ。

でも女がずるいのは、「悪女」になりたいと思いながらも、結局は「純粋で可憐な女」を最後の可能性に残しておこうとすることだ。男を夢中にさせて、振り回しちゃって、プレゼントを貢がれるのとかも大好きなんだけど、「本当に悪い女だ」とは思われたくない。たとえ意図的にやっていたとしても、「無意識に男を振り回しちゃう純粋なアタシ」を演じようとするのだ。そういうのはテクニックじゃなく、天性のものだから仕方ないのよね-。そういうニュアンスにしてしまいたいのが本音である。悪女みたいに見えるかも知れないけど、本当はイイコなのよ、と暗に悟って欲しいのだからタチが悪い。

 

ところで。

モテたいならモテたいと言ってしまえばいいのに、と最近思う。
高校生の頃は素直に「あー、私もモテたいよお」と言えていたのが、いつのまにか言えなくなった。
それどころか、「彼氏欲しい」すらもなんだか前より言いづらくなってしまったように思う。気が付かないうちに。
大学生になったからだろうか。成人してから結婚を意識するようになって来たからだろうか。「婚活」とか「アラサー」という言葉が流行りだしたからだろうか。それとももともと言いづらい文化なのだろうか。
理由はいろいろとあると思うが、世の中は「モテたい」という感情に対して辛辣すぎる、と感じることが増えた。
性欲は三大欲求のひとつで、「食べたい」「寝たい」なら簡単に言えるのに、誰だって言えるのに、「モテたい」というと何故恥ずかしさを感じてしまうのか。「モテたい」「いい男をゲットしたい」と言う女は何故批判されるのか。
口に出して言うのはなんだか下品で色気がない、というのもわかるけれど。

モテたくて何が悪いんだろう。
「モテたい」「ちやほやされたい」という欲求を持っていることに対して自己嫌悪を抱く自分自身に、きいてみる。
なんか格好悪いから?
「モテたい」と言うこと=モテないとアピールしてしまう気がするから?

「人気者になりたい」も同様だ。
内心ではクラスの人気者になりたいと思っていても、そう言ってしまうことは一種の罪であるような気さえした。
クラスのみんなに頼られるような、リーダーシップのある人間になりたい、なら言えるのに。

単純に、「みんなから愛されたい」という欲求は、人としてどうかと思われる傾向が強い気がする。
「みんなの役に立ちたい」も、「みんなから愛されたい」も、根本の欲求としてはほとんど変わりないというのに、言葉の力は不思議である。「人のため」なら許されるのに、「自分のため」では許されない。

はっきり言って、純粋に人の役に立ちたいとただひたすらに思っている人間なんて、ごくごく限られているのじゃないか。これは単に、「私だけじゃなく、みんなそうであってほしい」という私の願望かも知れないが。
「自分が何かをしたことで人が幸せになってくれるのが自分の幸せ」なんて本気で思っているマザーテレサみたいな、心から優しい人間が世界に何万人もいるとすれば、世界に争いは起きない、と私は思う。
「私は本当は優しい人間じゃないの。優しい振りをしているだけで、『こうすれば優しいと思われるな』とか、『こうすれば株が上がるな』とか内心、無意識に計算して優しくしてるだけなの。本当に優しい人間じゃない。私は偽善者だ」と、端から見ればとても優しい友人にそう相談されたことがあるが、そのとき私ははて、それの何がいけないんだろう、と疑問に思ってしまった。

て、いうか。

別にみんなそうじゃん。

ほとんどの人間は自分が一番かわいいものだ。
親というものは何よりも自分の子を優先する、とも言うけれど、どうしても自分の体裁や世間体を気にしてしまう親がいることも事実だし、世のため人のため、を謳っていても本音は結局自分のためだったりする人もいる。

私自身、将来働く上で「いかに社会貢献できるか」と考えていたときに、ふとどうしてこんなにも社会の役に立ちたいんだろう、と思った。自分ははたして本当に人が喜んでくれることが一番の幸せ、なんていう高尚な人間なんだろうか、と。

まさか。
本気で見ず知らずの人間のために全力で働けるわけがない。
「人が喜ぶ顔を見るのが幸せ」なんて言っているけれど、結局は「私は必要とされている」と実感したいだけだ。自分がおこした行動によって喜んでくれた人の笑顔を見て、自分のアイデンティティを確かめたいだけ。安心したいのだ。私はここにいていいのだと。

それを「偽善者」と呼ぶならば、たしかに私は偽善者だろう。自分のために人に優しくしているのだし、自分のために人が喜ぶことをしたいのだから。

本気で人の役に立つだけで幸せと思える人にはとても適わない。

でも何が悪いんだろう。
たとえ自分のためでも、それで他人がいい気持ちになれればそれでいい。
自分が優しくして、相手も優しくさせてくれて。どっちも嬉しい。何が悪いというのだ。

「情けは人のためならず」。

昔の人は、短い言葉でわかりやすく、素敵な言葉を残してくれたなあと思う。
情けをかける(=優しくする)ことは、他人のためじゃなく、自分のためなのである。めぐりめぐって自分にいいことがあるから優しくするのだ。

もしかすると、昔の人が「どうして優しくしなきゃいけないの?」という質問に困ってこう答えたのかも知れないが、それが諺になって、ずっと文化として残っているということはみんな納得しているということだ。なら、もうそれはそういうもん、と思ってしまえばいいじゃないか。自分のために人に優しくしよう!でいいのである。

自分が可愛い。自分が一番。私に子供が出来たらどうなるかはわからないが、今のところ、私は自分を一番大切にすることで精一杯だ。本気で他人の幸せばかり願えるほど、人間できちゃいない。

だから、別にいいのだ。色んな行動や目的が「人のため」じゃなくても。全部「自分のため」でも。

「人に優しく、自分に優しく」でいいじゃないか。どっちもかわいがっちゃえばいい。「人に優しく、自分に厳しく」はどうしても、未熟な私には難しすぎる。

というわけで、「みんなの役に立ちたい」じゃなくて、「みんなに愛されたい」と言ったって、なんの問題もないと思う。
「もっと多くの人にモテたい」「もっと人気が欲しい」と思って何が悪いのだ。何が恥ずかしい。

多くの人に囲まれて暮らすのが幸せなら、モテるために力を入れるのは当然のことだ。

小悪魔になりたかったあの頃。
薄っぺらいモテテクニックを頭に詰め込み、実践し、一喜一憂していたあの頃は、無駄だったのだろうか。ただの恥ずかしい黒歴史として、私の過去の一部に埋没して行くだけなのか。

そんなことない、と思いたい。

だってやっぱり一人で生きるよりも、誰かと生きる方が、ずっとずっと楽しい。

どんなに消したいくらい、顔から火が出るくらい恥ずかしくても、人に愛されるためにした努力は絶対にどこかに蓄積されて、私の役にたってくれているはずだ。今も。

思えば、あのとき「モテ本」を手にとって、そこに「モテる女は本を読む」と書いてあったのを鵜呑みにしたからこそ、読書が大好きになった今があるのだもの。

 

食べたいと思って何が悪い。
寝たいと思って何が悪い。
モテたいと思って、何が悪い。

愛されるために努力して、何が悪い?

貪欲に行こう。

それが人間というものだ。

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2014-09-17 | Posted in チーム天狼院, 記事

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