【文豪の心は鎌倉にあり 第4回】三島由紀夫:没後50年、残した言葉を振り返る・前編《天狼院書店 湘南ローカル企画》
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
鎌倉は多くの文学者が住居を構えた文学の街です。今でも街中に多くの名残を残し、訪れる人々に文学の香りを感じさせています。その中でも特に文学の街と印象づけてくれるのが鎌倉文学館です。日頃から様々な文学者の展示を行っており多くの来訪者が訪れています。
私達は、その鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏に鎌倉ゆかりの文学者についてお話を伺う機会ができました。今回で早くも4回目です。
■第四回 三島由紀夫:没後50年、残した言葉を振り返る・前編
語り手:富岡幸一郎
昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。
鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.html
http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/
今回取り上げる文学者は三島由紀夫です。三島は今年(2020年)没50年であり、改めて文学作品を筆頭に残した言葉が見直されています。自決をした11月25日には東京の星陵会館で「三島由紀夫没後五十年・追悼の夕べ」が開催され、富岡館長も登壇の予定です。
今回は、三島由紀夫に関する書籍も出版している館長に詳しくお話を伺いました。
●今年(2020年)は三島由紀夫の没後50年
三島由紀夫はご存じの方も多いと思いますが、昭和45年(1970年)の11月25日に当時市ヶ谷にあった東部方面部隊という駐屯地の東部方面総監部に行って、三島が作った盾の会のメンバー四名と一緒に当時の総監を人質にして自衛隊員の前に演説をしました。その後、総監室に戻り割腹自殺。三島由紀夫を介錯したのは続いて切腹をする森田必勝(まさかつ)。森田を介錯したのは古賀浩靖(こがひろやす)という青年です。
非常に衝撃的な事件でした。三島は自衛隊員を前に憲法改正を訴える演説をして自ら割腹をしたのです。今年は三島由紀夫没50年であの事件から半世紀になります。この50年間の時代を考える上で、三島由紀夫の自決は今日、大きな意味合いを持っていると思います。
●中学生から文学の才能を発揮した三島由紀夫
三島由紀夫は大正14年生まれで昭和と満年齢が重なります。終戦の年に20歳、自決したときは45歳でした。正に昭和と共に歩んだ作家でした。非常に多くの作品を残し、海外にも翻訳をされています。30代でノーベル賞の候補になるほど高く評価されていたのです。
昭和43年に川端康成がノーベル文学賞を受賞するのですけど、年長の作家であり三島由紀夫を文壇に推挙したのは川端です。ですから、この二人は師弟関係にあったと言って良いと思いますが、同時にノーベル文学賞を競うライバルでもあり、日本を代表する作家でした。
三島由紀夫の本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)といい、父親は農林省の官僚でした。そんな流れもあって学習院に入学をしたのです。
小さい頃から早熟で、文学の才能を見せています。13歳のときに学習院の雑誌に『酸模(すかんぽう)』という短編小説を発表しました。16歳の時に学外の雑誌『文芸文化』という雑誌に『花盛りの森』(七丈書院)という作品の連載を開始しています。この雑誌は国文学の雑誌で当時日本浪漫派と呼ばれた人達の雑誌です。学習院の国語学の先生で清水文雄という方から推薦されて掲載されました。
学外の雑誌ということで、この時に初めて清水先生に三島由紀夫というペンネームをつけてもらいました。作家・三島由紀夫の誕生は、昭和16年です。その後、10代で多くの作品を世に出し、日本浪漫派の天才少年現ると言うのが広がっていきました。
学習院高等科を主席で卒業した三島は東京大学法学部に入学します。昭和20年に戦争の入隊検査があったのですが、医師が肺浸潤(はいしんじゅん)と誤診をし、即日帰郷となりました。三島は、小さい頃から痩せていて病弱でしたが、その誤診で勤労動員を務めることになります。
30代から始めたボディビルや剣道、ボクシングなど、肉体を鍛えて自らの死、割腹という自決を迎える要因の一つに自分は戦争に行っていない。なのに多くの同世代の若者は戦争で死んでいる。そういう思いが彼の中にあったのは事実です。
昭和21年に川端康成の推薦で『煙草』(鎌倉文庫)という短編を『人間』という雑誌に発表します。この雑誌は川端康成が戦争中に始めた「鎌倉文庫」という貸本屋が、戦後に出版事業を始めました。その出版社から出した雑誌です。そのため三島は、川端のところを訪れて何編が作品を置いていきまた。その中の一つが『煙草』です。この作品で戦後文壇に本格的な登場したのです。
●「嫌い」だった太宰治との面会
実はこの頃、三島由紀夫は太宰治に会っています。
当時、太宰は後の代表作となる『斜陽』(新潮社)を発表して非常に人気があった作家です。三島は友人のツテで会ったのですが、会うなり
「かねてから言いたかったことがある。私は太宰さんの文学が嫌いです」
なんて目の前で言いました。
そうしたら太宰はビクッとした顔をして
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
といったそうです。三島は
「その後、急に太宰の顔が自分の中から消えていった」
といったやり取りを『太陽と鉄・私の遍歴時代』(中公文庫)というエッセイ集に残しています。三島は、こうも書いています。
「私ならば、若くて生意気な青年に言われたら何と思うだろうか。恐らく太宰みたいな台詞は言えないだろう」
三島は太宰治に関心があり、愛憎半ばあったと思います。因みにその後、太宰は入水自殺をしてしまいます。ある意味三島由紀夫も心中ですよね。死に方は違うけど三島は太宰の文学に心酔していたと僕は思っています。
太宰はある種、私小説を書いてきた作家です。ただし、非常に虚構的な装置を使って私(わたくし)を逆説的に書いていた。三島は昭和24年に書き下ろし小説『仮面の告白』(河出書房)を発表します。この小説はまさに仮面を付けての告白。自分の性的な自伝の一種と言っています。同性愛的な傾向とか性的な倒錯とか女性との恋愛失敗などがエピソードに出てきます。
これはある意味仮面を付けた私小説です。そんな部分が太宰の『人間失格』(筑摩書房)に似ています。三島由紀夫が戦後文壇へ名前を売る一番大きなきっかけになった作品は非常に『人間失格』(筑摩書房)を意識したと言えます。
●太陽と出会って肉体への関心が生まれる
昭和22年に東京大学を卒業し、大蔵省に入省した三島は、1年足らずで退職して本格的に作家への道を歩みます。戦後の文壇は、多くの作家を輩出していますが、三島由紀夫も才能を開花させた一人です。
伝記的なところで申し上げますと昭和26年には小説家として活動していたのですが、12月から翌年の5月まで世界一周旅行に出ています。
当時は占領下で海外に出るのは難しい時期でしたが、朝日新聞の特別派遣員という資格で北米・南米・ヨーロッパへ行っています。後に『アポロの盃』(朝日新聞社)という紀行文集を出しています。特に感動していたのは古代ギリシャの遺跡です。三島はギリシャ悲劇に非常に惹かれていたし、古代ギリシャの人間像、キリスト教以前の古代の人間像に憧れを持っており、若く清々しい強い肉体と精神が見えるアポロ像にも憧れていた。
紀行文集にも付けるくらいですからかなり強い憧れです。それらは三島文学のテーマですが、古代ギリシャの中にあったのだと旅行を通して感じたんですね。
アメリカへは船で向かったのですが、その時のことをこう記しています。
「太陽と出会った」
それまで体が弱くて、作家になってから深夜に執筆する生活をしていた。そんな中で太陽と出会ったというのは肉体を獲得する道が三島由紀夫の中に開けていったと思います。
旅行から帰国すると、三島は『潮騒』(新潮社)を発表します。これは昭和29年に書き下ろした小説です。この作品は和歌山県の神島をモデルにしたお話です。若い漁師と島の乙女との清純な恋愛小説です。それまで三島由紀夫が書いていた暗くて自意識の迷路のような作品から一転してアポロ的な肉体と精神。小さい島の共同体。青い海と空。力強い漁師の生活。自分とは反対の人物や生活を作品に込めたそうです。
この作品は清純な恋愛小説として読めますので非常に人気が出て、5回も映画化されました、ドラマやTVアニメにもなるほどです。他には海外でも翻訳され、人気を博しました。実は、三島の作品で初めて英訳されたのが『潮騒』です。後にノーベル文学賞の候補になっていくのですけど、三島由紀夫の名を海外に知らしめた作品として記憶されるべきだと思います。
●肉体と精神を鍛えて、日本への探求にも興味を持つ
その後にいくつかの小説を残しますが、同時に芝居の戯曲も書いています。小説家以外の顔として劇作家でも偉大で、今日でも海外で公演されるほどです。『近代能楽集』(新潮社)という古典の能を題材にした現代劇の作品を残しています。
小説としては昭和31年に代表作の『金閣寺』(新潮社)を発表します。この作品は昭和25年に金閣寺が青年僧に放火されて全焼した事件(金閣寺事件)を題材にしており、三島のオリジナリティーを込めた作品です。
美を美しむものの象徴として金閣寺がありまして、あるいは絶対性というのが象徴になっています。重度の吃音症である主人公の土門という暗い青年僧が美と対峙して、滅ぼすことで絶対として美と繋がるという逆説的な美意識をテーマにしており、代表作として翻訳もされています。ですから31歳で三島は日本の近代文学を代表するだけでなく世界的な文学者として名を馳せていくわけです。
その頃から三島は体を鍛え始めます。新しい一つの肉体と精神、認識と行動の二元論を実現するためです。作品にも色濃く影響を与えており、強く意識していきます。彼自身の作品としては『憂国』(新潮文庫)というのがあります。これは短編小説なんですが、二・二六事件を背景にした青年将校と妻の心中を描いています。この頃から三島は二・二六事件などに関心を持ち始めました。
世界的な作家として注目を集める中で日本探求がスタートしたのです。当時は、ちょうど60年安保もあって、政治的な混乱、戦後の混乱も高まっていった中で「日本とはなにか」というのが三島の文学的なテーマになっていきます。天皇の問題などもこの辺りから日本探求とともに意識をしていったと思います。
●宇宙服を着て出版社へと向かう
こういう中でユニークな作品として注目してほしいのが『美しい星』(新潮社)です。これは地球とは別の天体から飛来した意識に目覚めた一家を中心に、核兵器を持つ人類が滅亡をめぐる不安をSF的な技法を駆使して描いた作品です。SF的な要素があって円盤が来たり宇宙人が飛来するというテーマ内容になります。
三島は非常に作品にのめり込むタイプの作家です。この頃はUFO探索に熱を上げていて、自宅に大きな望遠鏡を構えたり、天文マニアと一緒にあちこちにUFOを探しに行ったり、挙げ句の果てには宇宙服を着て新潮社に現れると行ったエピソードを残しています。この作品は、一方では核兵器の問題をアレゴリー(抽象的な概念や思想を、具体的形象によって暗示する表現方法)に表現しています。政治・文明・思想を宇宙人という設定で見てみようとという作品です。
(WikiImagesによるPixabayからの画像)
実は三島の文学テーマには「滅亡」があるのです。20歳に終戦を迎えましたが。15歳の時に『十五歳詩集』というのを書いており、その中に「凶ごと(まがごと)」という詩があります。これは15歳の少年が毎夕窓辺に立って滅亡をまっているという不思議な終末感に満ちた作品です。
文字通り禍々しさに憧れる悲劇的ものに憧れる少年の姿なんです。これはまさに少年時代の三島の心情でしたし、20歳で終戦を迎えた姿でもあります。『仮面の告白』(河出書房)でも表現された悲劇的ものに憧れを持つというのがありました。この世の終わりというか、人類の滅亡というものに深い共感が表れています。この作品には人類の滅亡も書いていて、核兵器という人類が手にした地球を何十回も破壊できる平気を手に入れた。広島長崎の原爆、第五福竜丸の事故、東西冷戦にキューバ危機。そうした事件事故で核の危機が高まっていった中で発表されたものです。
三島は、作家として人類の危機をSFとしてアレゴリカル(抽象的な概念や思想を、具体的形象によって暗示する表現方法)に残した面白い作品だと思います。こうした作品があることも知ってもらいたいですね。
《後編へ続く》
●三島由紀夫の歩み
・1925年(大正14) :東京の四谷で生まれる。
・1931年(昭和6):学習院初等科に入学。
・1938年(昭和13):「酸模」(すかんぽう)「座禅物語」、詩、短歌、俳句を「輔仁会雑誌」に発表。「酸模」は公威(三島由紀夫)が書いた初めての小説。
・1941年(昭和16) : 「花ざかりの森」が「文芸文化」9月号から12月号まで、4回にわたり連載。このとき、初めて<三島由紀夫>のペンネームを用いる。
・1945年(昭和20):父・梓と一緒に兵庫県富合村(現・加西市)へ出立し、入隊検査を受ける。軍医より右肺浸潤の診断を下され、即日帰郷となる。
・1946年(昭和21):鎌倉在住の川端康成を初めて訪問。『中世』と『煙草』の原稿を持参し、『人間』(鎌倉文庫)に『煙草』を発表。
・1947年(昭和22):高等文官試験に合格し、大蔵省に入省。大蔵事務官に任命され、銀行局国民貯蓄課に勤務。
・1948年(昭和23):大蔵省に辞表を提出。辞令を受け依願退職となる。
・1949年(昭和24):『仮面の告白』が河出書房から発刊。
・1951年(昭和26):朝日新聞特別通信員として、初の海外旅行に出発。
・1952年(昭和27):紀行文集『アポロの杯』(あぽろのさかずき)を朝日新聞社から刊行。
・1954年(昭和29):『潮騒』を新潮社刊から刊行。
・1956年(昭和31):『金閣寺』を新潮社から刊行。
・1962年(昭和37):『美しい星』を新潮社から刊行。
・1965年(昭和40):「春の雪」(豊饒の海・第一巻)を「新潮」に連載開始。昭和42年1月まで。
・1967年(昭和42) :「奔馬(ほんま)」を「新潮」に連載開始。昭和43年8月まで。
・1968年(昭和43):「暁の寺」を「新潮」に連載開始。昭和45年4月まで。10月、「楯の会」(たてのかい)を結成。
・1969年(昭和44):1月『春の雪』を新潮社から刊行。2月『奔馬(ほんま)』を新潮社から刊行。5月『サド侯爵夫人』を新潮社から刊行。
・1970年(昭和45):7月「天人五衰」を「新潮」に連載開始。昭和46年1月まで。同月10日『暁の寺』を新潮社から刊行。11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室にて割腹自殺。45歳。
・1971年(昭和46):『天人五衰』を新潮社から刊行。
※三島由紀夫文学館「三島由紀夫の年譜」を参照
https://www.mishimayukio.jp/history.html
□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す日々。藤沢出身のプロレスラー諏訪魔(すわま)のサイン入り色紙は宝物の一つ。
□カメラマンプロフィール
山中菜摘(やまなか なつみ)
神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店 「湘南天狼院」店長。雑誌『READING LIFE』カメラマン。天狼院フォト部マネージャーとして様々なカメラマンに師事。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、カメラマンとしても活動中。
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