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ライティング・ラボ

子どものころ7年間福岡に住んでいた その1


 

記事:Mizuho Yamamoto(ライティング・ラボ)

 

西暦1900年、私の母方の祖父は鳥取に生まれた。
生きていれば今年115歳。年齢のカウントがし易い人だった。

飛行機の音を聞き、機種と機数がわかるという耳の持ち主で、海軍の軍楽隊に入隊。
トロンボーンを担当し、世界1周の航海を2度体験したという。
軍港の町佐世保で結婚。次々に子を得た。

その後、満州鉄道の楽団の指揮者として、今の中国東北部大連に移る。祖父の黄金時代。
満州で生まれた子供を合わせると9人の子沢山。
天皇陛下の表彰を受けるには、あと1人のところだった。

満鉄の宿舎は広く、お手伝いさん付き。
雨の日は兄弟で室内でかくれんぼ。
職場へは黒塗りの車で送り迎えの待遇。
ラジオのクラシック解説の番組を持っていた夫の放送時間が近づくと、

「味噌が腐るから蓋をして~」

毎回母親が言い、家族でラジオのそばに集合。
家族の誕生日はホテルでディナー。
母親の仕立てのワンピースに革靴を履いておしゃれした当時の写真が残っている。

1枚のレコードを何度もかけながら、楽器ごとのパートの楽譜を書いていく絶対音感。
家事もお手の物で、何でもこなした。

「私の下着だけは干さないで」

という母親に、

「何も恥ずかしいことはないよ」

と笑っていたそうだ。

「こんな贅沢な生活をしていいのだろうか?」

と口癖のように母親が話していたとおり、1945年、その生活は終わった。

そこからは引揚者の苦労の物語の始まり。
当時3歳だった末っ子を見て引揚船の人々はよく生きてここまでと涙したという。
子どもたちが欠けることなく帰国できたのは、幸運としか言いようがなかった。

佐世保に上陸して、鳥取まで列車で戻ったとき母は小学校5年生。
消息の分からない父親の実家に、母親と7人の子供が身を寄せた。ある雪の降る寒い日に、黒いマントをたなびかせて帰ってきた父親。
その後、10人目のお産であっけなく逝った母親。
輸血の道具を私が忘れなければ、助かったのにと、産婆さんが悔やんでいたと、母はいつも語っていた。

そこからの祖父は音楽で食べていくための苦労の時代。
やがて、亡妻の実家のあった佐世保にほど近い炭鉱の島の楽団と、中学校の音楽教師の職を得て移住。それも長くは続かず、数学の教員をしている長男に子供たちを託して、バレエ団や映画館の音楽演奏をするも生活は苦しく、仕送りも滞りがちとなった。

佐世保に戻り、昼は事務職、夜は米軍基でジャズピアノを弾き、米軍放出の食料を毎晩もらって何とか生計を立てるが、長男以外は大学にやれず、八番目の三男はすねて高校にも行かなかった。

47歳でやもめとなってからの祖父。
最後は88歳まで、採石場事務所の電話番の仕事をしていた。
市民楽団からの誘いは、素人とはやれないと、1度行っただけ。
孫娘にピアノを教えることで、かろうじて音楽と繋がっていた。

子供たちが次々に巣立ち、市営アパートに一人暮らしとなってからは、2人の孫娘を夏休みの間よく預かった。
当時私が住んでいた福岡から、3歳下の従妹と私、その母たちの4人で、南福岡駅より列車に乗って佐世保へ。
祖父は私たちが列車に乗る前から、すでに佐世保駅の待合室のベンチに腰掛けて到着を待っていた。3時間も。

満鉄時代からの鉄道好きで、駅の雑踏と孫の顔を今か今かと待ちわびる高揚感がたまらなく好きだったのだろう。

気ままな母姉妹は、小1と幼稚園年少の2人の娘を、やもめ暮らしで仕事を持つ当時66歳の父親に1か月近く預け、1泊してさっさと帰っていく。
これは、普通に考えてどうなのだろう。

「だって、早く連れてこいってじいちゃまが電話してくるから」

ずいぶん大人になってから母に聞いたら、何の疑いもなくそう答えた。

じいちゃまと2人の孫娘の夏休みの生活は、一人っ子同士の私たち子どもの自由に満ち溢れた世界だった。

祖父の海外生活で身に付けた料理の腕前は、

「この味噌汁のサトイモ、バナナみたいに甘かぁ」
「おう、そうじゃ、バナナじゃ!」
「このすき焼きに入っとるオレンジ色はなん?」
「みかんの皮じゃ!」

今でこそ、料理に果物を使うことも珍しくなくなってきたが、昭和40年代には、あまりに斬新すぎた。
しかし、まぁ美味しかったから、いつも驚きながら食べていた二人の孫娘。

朝は早くから、私たちの服を、洗濯機はあるのにたらいで洗濯してベランダに干し、朝食を食べさせ片付けて弁当持参で出勤。
私たちには、お昼のパン代を置いて行ってくれた。
普段、食にうるさい母たちが、決して買ってくれないような菓子パンを二人で買うのが楽しみだった。

従妹の両親の離婚のごたごたで、我が家に預かり幼稚園に通わせ、養女にする話が決まりかけたとき、

「今まで育てたのにもったいない」

叔母の一言で、話は立ち消え、私の父が気分を害し、祖父が従妹を預かることとなった。

冬休みに入った別れの日。
佐世保行の列車に一緒に乗って発車のベルが鳴ったら降りてこいと父からのミッション。
小3の私は祖父と従妹と三人で列車に乗った。
降りそびれたら・・・・・・と、どきどきしながら。

リーン
発車のベル。
慌てて飛び降りる私。
閉まるドア。

ドアをたたいて泣き叫ぶ従妹。
国鉄南福岡駅。

家に帰ると部屋の隅で縫物をしながら、母が泣いていた。

博多行きの特急が、速度を落としてJR南福岡駅を通過するとき今も胸がちくんとする。

 

 

***

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2015-07-14 | Posted in ライティング・ラボ, 記事

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