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やわな女があこがれる男の名は、フィリップ・マーロウ《週刊READING LIFE Vol.63 2020年に読むべきBOOK LIST》


記事:井村ゆうこ(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない」
 
このセリフを口にしたのは、襟を立てたトレンチコートを着て、中折れ帽を目深かにかぶり、煙草をふかす男。ハードボイルド小説の巨匠、レイモンド・チャンドラーによって生み出された私立探偵、フィリップ・マーロウである。
 
率直に言おう。
この男、とにかくかっこいい!
「ハードボイルド」といえば、フィリップ・マーロウ。
「私立探偵」といえば、フィリップ・マーロウ。
「煙草の似合う男」といえば、フィリップ・マーロウ。
「酔いつぶれた私を、お姫様抱っこして!」といえば、フィリップ・マーロウ。
私にとって、女を抗えない魅力でひきつける大人の男。それが、フィリップ・マーロウなのだ。

 

 

 

私が初めて手にしたレイモンド・チャンドラー作品は、フィリップ・マーロウを主人公にした長編シリーズ、第6作目『長いお別れ(The Long Goodbye)』だ。高校1年か2年のときだったと思う。
それまで、ハードボイルド小説は全く読んだことがなく、レイモンド・チャンドラーのことも知らなかった。当時、放課後真っすぐ家に帰るのが嫌で、授業終了と同時に図書館に通う毎日を送っていた。部活もやっていないし、塾にも行っていない、放課後いっしょに過ごす友だちも恋人も、お金もない。そんな私の唯一の避難場所が、図書館だった。
 
手に取る本は、小説が多かった。周りをぐるりと山で囲まれた田舎町に住んでいた私は、小説の中に出てくる都会で暮らす、自分を想像した。物語の中に出てくる主人公に自分を重ね、恋をし、挫折し、絶望し、ひとを殺した。あの頃は意識していなかったが、小説の世界に逃げ込むことで、思うようにいかない現実世界を、どうにかやり過ごしていたのだと、今は思う。
 
図書館の棚に並ぶ『長いお別れ』に、手を伸ばしたのも、そんな現実逃避の一環だったのだろう。タイトルに引き寄せられたことを、なんとなく覚えている。表紙を開くと、そこには登場人物の説明が書かれていた。
 
フィリップ・マーロウ………………私立探偵
 
ああ、探偵が主人公の話か。
外国人の探偵といえば、シャーロックホームズくらいしか知らなかった私は、この先展開するのは、探偵による謎解き物語かと思いながら、ページをめくっていった。
 
正直に言おう。
読み進めていくうちに、私は事件の謎とか推理とか、ほとんどどうでもよくなっていた。
なぜなら、マーロウに恋してしまったから。
マーロウのセリフ、ひとつひとつが、私のこころを射抜く。
マーロウの行動、ひとつひとつが、私のからだを射抜く。
私は完全にマーロウに「しびれて」しまったのだ。
 
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」
 
これは、一夜を共にした女が、パリ行きの飛行機に乗るため、タクシーで走り去るのを見送ったマーロウの独白だ。「フランス人はこういう場合にいい言葉をもっている。あの連中はどんなことにも、うまい成句を知っていて、しかもいつも的を射たものなのである」という文に続いて登場する。フランス人の詩人エドモン・アロクールの詩からの引用であるらしい。
チャンドラーファンには有名な、上記の独白など、マーロウの放つ言葉の数々は、単にかっこいいだけでなく、そこには深い意味が込められている。高校生のときは、単純に「かっこいい……」と、のぼせて読んでいただけだったが、今回改めて読み返してみると、気付くことがある。
 
人は生きている限り、さよならを言う場面から逃れることはできない。その「さよなら」は自分が望んでいない、さよならであることも多い。家族や友人、恋人など、大切な人との別れほど、自分の中で折り合いをつけるのはむずかしい。そんなとき、私たちは「さよなら」といっしょに、誰かを深く思っている自分を一回捨て、新たな自分になることによって、前に進む力を得るのではないだろうか。
 
自分の感情や状況に流されず、軟弱や妥協を嫌うマーロウなら、こうも言うに違いない。
「少しだけ死んで、少しだけ生まれ変わって、やっぱり自分を生きていくしかない」と。
 
フィリップ・マーロウの物語は、ハードボイルド小説であり、推理小説であり、そして現代を生きるわれわれにも学ぶべきところが多い、こころの教科書でもあるのだ。
だからこそ、私は『2020年に読むべきBOOK LIST』に、レイモンド・チャンドラーの長編小説をおすすめしたいと思う。

 

 

 

とは言え、海外小説の翻訳書には、日本語で書かれた本にはない、読みにくさがあるのも事実だ。
登場人物の名前が長いカタカタだったり、比喩表現がぴんとこなかったり、日本語としてしっくりこなかったり……。もしかしたら、そんな「読みにくさ」を嫌って、海外小説を遠ざけてしまっている人もいるのではないだろうか。
 
今回、『2020年に読むべきBOOK LIST』に1939年から1958年に書かれたレイモンド・チャンドラーの長編小説をおすすめするからには、ぜひ今まで食わず嫌いだったひとにも、フィリップ・マーロウの魅力に触れて欲しい。そこで、本を手に取る前にできる準備運動をふたつ、ご紹介したい。
 
ひとつ目は、まず「耳」でマーロウの世界を味わうことだ。
やり方は簡単だ。オーディオブックを利用する、ただそれだけだ。いくつかあるオーディオブックのアプリの中で、私はAmazonが提供しているオーディブルを使っている。
オーディブルでは、声優や俳優によるナレーターによって、本が朗読される。複数の登場人物を、声色を変え、抑揚をつけ、感情を込めて読み分けてくれる。もちろん、ナレーターの声が小説の世界に合っていないと感じたり、読み方が気に食わない、なんていうこともあるだろうが、そこは好みの問題だ。少なくとも私は、「耳」で小説を味わうことに、小さな違和感より大きなよろこびを感じている。
 
何より便利なのが、どこにいてもすぐに小説の世界に入っていけることだ。
ダウンロードしておけば、オフラインでも聴くことができるので、通勤中、家事の最中、行列待ちの時間、ベッドに横になって……と、聴き方はいろいろだ。
そして、音読の速度を0.5倍から3.5倍まで、自由に設定できるのがうれしい。最初は1倍で聴いていた私も、今では2倍の速度で聴くことができるので、時間の節約にも一役買ってくれている。
読みかけの本をいつもバッグに忍ばせておく必要もなく、スマホとイヤホンさえあれば、どこでも読書できるのだ。「読書する時間がない」と嘆いている人には、ぜひ試してもらいたい。
 
ちなみに、オーディブルで聴けるチャンドラーの小説は、以下の7作品だ。
 
・大いなる眠り (村上春樹訳・古屋敷悠朗読)
・さよなら、愛しい人 (村上春樹訳・古屋敷悠朗読)
・高い窓 (村上春樹訳・木村史明朗読)
・水底の女 (村上春樹訳・古屋敷悠朗読)
・リトル・シスター (村上春樹訳・山田成吾朗読)
・ロング・グッドバイ (村上春樹訳・早乙女太一朗読)
・プレイバック (村上春樹訳・古屋敷悠朗読)
 
私が高校生のときに読んだ、清水俊二訳の『長いお別れ(The Long Goodbye)』は、2007年に村上春樹氏が新訳し『ロング・グッドバイ』というタイトルになった。私が持っている本は『長いお別れ』なので、オーディブルで初めて、新訳されたフィリップ・マーロウと対面した。
前述したマーロウのセリフ「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」は、村上氏による訳で、清水氏の訳では「さよならをいうのは、わずかのあいだ死ぬことだ」となっている。
訳者による違いを味わうことができるのも、今を生きている我われに与えられた、特権のひとつかもしれない。
 
チャンドラーの世界へ突入する準備運動ふたつ目は、「耳」と「目」でマーロウを味わうことだ。
耳と目を使うといったら、映像しかない。つまり、映画だ。今でも、すぐに観ることができる2本を紹介したい。
 
まずは、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にした、最初の長編『大いなる眠り(The Big Sleep)』を1946年に、ハワード・ホークス監督、ハンフリー・ボガード主演で映画化した『三つ数えろ』を挙げておきたい。降りしきる雨の中、トレンチコートに中折れ帽姿のボガードが「フィリップ・マーロウ」の姿として、印象に焼き付いている人が多いのは、この映画のおかげだ。
チャンドラーの描く、複雑に絡み合った事件と人間関係を、分かりやすく簡潔にまとめてあるので、原作を読んでから観ると「あれ?」と思う場面も、正直言ってある。しかし、モノクロの画面からは、本が書かれた当時の時代の空気が伝わってきて、大いに楽しむことができる。
 
次は、前述したチャンドラー長編第6作目の『長いお別れ(The Long Goodbye)』だ。
ロバート・アルトマン監督、エリオット・グールド主演で1973年に映画化されている。こちらは、一転カラー映像で、時代背景も映画がつくられた1970年代のロサンゼルスという設定になっている。グールド演じるマーロウは、もじゃもじゃ頭でひっきりなしに煙草に火を点ける。身のこなしも、颯爽というよりはどちらかと言えば、ちょっと鈍くさい。しかし、アルトマンが描くマーロウも、人間臭さでひとを惹きつける。この映画に大きな影響を受けて、松田優作が『探偵物語』を作ったというエピソードもうなずける。
 
ボガードのマーロウとグールドのマーロウ。どちらも、動画配信サービスU-NEXTで視聴することができる。
 
チャンドラー自身は生前、マーロウにいちばんしっくりくる俳優は、ケーリー・グラントだと言っていたらしい。もし今、私にマーロウ役を演じる俳優を選ぶ権利があるなら、迷うことなくこの人を選びたい。
2019年、映画『ジョーカー』で主役を演じ、アカデミー賞ノミネートも確実視されている男。
ホアキン・フェニックスだ。
 
彫りの深い目を少し斜め下に向けたホアキン・フェニックスが、こうつぶやくのを見たい。
「タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない」
そして、私の腕を乱暴に引っ張って、抱きしめて欲しい!
というのが、ミスターハードボイルド、フィリップ・マーロウにあこがれる女の『2020に叶えたいWISH LIST』だ。
 
最後に本音を言おう。
2020年に、ホアキン・フェニックス演じるフィリップ・マーロウを見ることは不可能だろう。
でも、私はあきらめない、あきらめたくない。2020年には無理でも、いつかきっと目にしたい。
 
私はもう、高校生の頃のように、やわな女ではないのだ。
自分の願いが叶うまで、まだまだ思うようにいかない現実世界を、ハードボイルドに生きていこう。
マーロウのように、簡単には曲げない芯を、自分の中に貫いて。

 
 
 
 

◽︎井村ゆう子(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)
転勤族の夫と共に、全国を渡り歩くこと、13年目。現在2回目の大阪生活満喫中。
育児と両立できる仕事を模索する中で、天狼院書店のライティングゼミを受講。
「書くこと」で人生を変えたいと、ライターズ俱楽部に挑戦中。
天狼院メディアグランプリ30th season総合優勝。
趣味は、未練たっぷりの短歌を詠むことと、甘さたっぷりのお菓子を作ること。

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