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父の引き出し


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事 飯田あゆみ(ライティングゼミ平日コース)
 
2年前の年末、父が亡くなった。とても寒い夜の出来事だった。
父の生前、私は実家が嫌いで、母も父も大嫌いだった。なので、大学卒業後に実家に帰った回数は、本当に数えるほどしかない。
 
3年前、わが子の子離れを機に鬱になってしまった私は、人生の棚卸を決行し、つらい記憶から逃げてばかりでは仕方ない、両親に向きあって言いたかったことを言わなくては、と1年かけて決心した。
そして、その年の秋の終わりに実に20年ぶりくらいに帰省し、決死の思いで、子どもの頃から家を出るまで、私が実家で何を抱えて耐えてきたのか、何が嫌で今も帰りたくないと思うほど反発しているのかを母に訴えてみた。それに対するリアクションは、私の期待したものではなかったが、私は「言えた!」とやり遂げた気持ちですがすがしく帰宅することができた。一つクリアできた。あとはおいおい、ゆるゆるとやっていけばいいや、と。
 
その一月後に、父が入院したと連絡がきた。病名「胆管がん」、余命一年。
その時は、正直、まだ一年ある、と思っていた。胆管を広げる手術を受ければ、QOLも上がり、退院できると医師は説明していたし。
なので、見舞いに行った時も「手術を受ければ、お正月は家で過ごせるよ」と不安そうな父に筆談で伝えて、日帰りで自宅に戻ってきてしまった。
が、その数日後、手術の失敗からあれよあれよと父はたくさんの管につながれ、父ではない単なる肉体になってしまい、一切の意思の疎通ができないまま逝ってしまったのだった。
私が最後に父に伝えた一言「お正月は家で過ごせるよ」はとんでもない大嘘になってしまった。
私は嘘つきの娘になってしまったことが悲しくて泣いた。
 
不思議なもので、生前、あれほど不快な記憶しかなかったのに、亡くなると同時に思い出されるのは、幼いころ父の膝に座り晩酌のつまみのお刺身を食べさせてもらったことや、小学生の頃バドミントン、キャッチボールなど、へたくそな私に嫌な顔一つせずに付き合ってくれたことばかりだった。いい人だったのに、私は何も恩返しせずに遠くに行かせてしまったと、後悔ばかりが押し寄せた。
 
父は私が三歳の時、聴覚を失っている。その原因となった耳の病気が発症したのは中学の頃だったらしい。だが、家が貧しく、病院に行く余裕もなかったので放置するしかなかった。そして病気は、10年以上の歳月をかけて父から聴覚を取り上げてしまった。
 
けれど、私の育った家には、障害を受容できない家族を抱えた家庭につきものの暗さは無く、父は私と弟のために、生きて稼いで育てることを心に決めてくれていたらしい。塗装の職人を生業とし、いつもニコニコと穏やかで、叱られた記憶もたたかれた記憶も一切ない。
 
そんな父は、私が小学校に通っていた頃、狭い家に置かれた大きな洋箪笥の引き出しの一つを自分の趣味のものを入れる場所として使っていた。中身は、電気の回路がつながっているかどうかを調べるためのメーターがついた検査機械だったり、外箱のないむき出しになったスピーカーだったり、壊れたラジオだったり、その辺で拾ってきたものばかりで、潔癖気味の母にはいい顔をされていなかった。汚いから捨てて! と、何度も言われていた。そのたびに、いつか修理して使うから、と父は言っていた。
 
父はたぶん、子どもの頃から電気関係の仕事に就きたかったのだろう。けれど、中学の時から難聴だった父は、おそらく勉強したくとも授業についていくことがむつかしかったのだろう。本気でそれらの壊れた品々をいつか直せる自分になりたくて、捨てられなかったのだろうと思う。その父の宝箱ともいえる引き出しは、今の家に引っ越してから、納戸の一画におかれたキャスター付きのものにバージョンアップした。拾ってきた何かは、どんどん増えて、私が大学進学とともに家を出るころには、5段ある引き出しすべてに父にとっての宝物が収められていた。
 
父の死後、私と母は父の遺品を整理していた。といっても、物欲の少ない人だったので、多少の本と衣類以外は、特に整理すべきものもあるようには見えなかった。
 
そういえば、納戸のあの引き出しは、今どうなっているのだろう? と思いついて、納戸を開けると、父の宝物はすでになく、一番上の引き出しに黒い鞄だけが入っていた。
 
私は母に
「パパの宝物、全部捨てちゃったの?」
と聞いた。母は
「還暦を迎えた時に、もう、直せないと思うからって、自分で全部捨てたの。それより、その黒い鞄、開けてごらん」
と促した。鞄は、小さな肩掛けタイプのもので、中身は軽い。免許を返納した人のための写真付き身分証や、行きつけの床屋のスタンプカードやがま口の財布に混ざって一冊の手帳が出てきた。
パラパラとめくった手帳はほとんど空白で、最後の住所録のところにだけ、父の文字が記されていた。
 
私の名前と、電話番号。
耳の聞こえない父が、電話番号を記録したところで、使える機会は全くなかったはずだ。
実際、一度も父から電話が来たことはない。
それでも。
コツコツ集めた宝物もすべて断捨離した父が、最後まで残しておきたかったのは、私につながる10桁の数字だったのだと思うと、私は自分のしてきたこと、してこなかったことを思って泣いた。
 
子どもには両親を選ぶ自由がない。許せなかった過去もある。だが、彼らの過ちは「若くて未熟だったから」「知らなかったから」「それを最善だと思い込んでいたから」なのだ。わざと傷つけたかったわけではないのだろう。そこには必ず愛はあったのだと思う。親となった私たちがわが子に対してそうであるように。
 
ご両親と不仲であるみなさん、ご両親が健在であるならば、第三者の視点から自分たちの関係を俯瞰してみることをお勧めする。あなたが許せないあの行為が、わざとではなかったとしたら、どんな解釈ができるだろうか? と再考してみてほしいのだ。
 
子どもはどうやっても親を憎み切れないため、親の死によって打撃を受ける。憎んだ時間が長ければ長いほど、その衝撃は増幅し、自分を傷つける。「親を理解することは自分のため」だと思って、一度解釈を変えてみることに挑戦してみてはどうだろうか。
父の引き出しには、最後まで私がいた。それは間違いのない事実だったのだから。
 
 
 
 
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2020-01-30 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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