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友達の壁はジャイアニズムによって解き放たれる


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:印田 彩希子(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
先日、大学時代の恩師からFacebookで「友達リクエスト」がきた。
 
私は戸惑っていた。
先生には大学時代大変お世話になったし、今でも尊敬している。
だからこそ先生は私の「恩師」であり、断じて私の「友達」ではなかったからだ。
尊敬する先生からのリクエストだ。一刻も早く「承認ボタン」を押して答えるべきである。しかし
「先生を『友達』のフィールドに持ってきてしまっていいものなのか?」
という思いが、私の「承認」を押す手を止めてしまっていた。
 
「いちいち細かいことに拘ってたらSNSなんてできないぞ」
「それは分かってる」
「FacebookもLINEも知り合いはみんな『友達』と表示されるものなんだから、気にするなよ」
「いや〜私……そもそも『友達』っていう言葉が苦手なんだよね……」
 
こんな脳内会話をしている間にも時間は刻々と過ぎていく。
 
考えてみると、私には「友達です」と人に紹介できる存在が少ない。親しい人、お世話になっている人、同僚。気の置けない仲間はいるけれど、友達と呼べる関係とはちょっと違う気がする。それにお世話になっている人を気軽に友達と呼んでしまうのは失礼にならないだろうか?
 
「友達」とは一体なんなのだろうか……。
 
これこれこういう手続きを踏んだら友達になる、みたいな明確なルールがあるわけではない。
なのにFacebookやLINEで知り合いが十把一絡げに「友達」と表示されていると、一体何をどうして友達認定されたのか、モヤモヤしてしまうのだ。
これはもう「友達の壁」ある。
 
小学生の頃、クラスで仲の良かったAちゃんという女の子がいた。
ある日、彼女は
「私、B君のことが好きなの。協力してくれないかな?」
と、そっと打ち明けてくれた。
当時B君とは同じクラスではあったものの、彼とはほとんど話をしたことがなかった。なんなら隣の席になったことも無ければ背の順も出席番号も遠い。
私にとってのB君は、同じ教室の中にいるというだけの、ほぼ他人であった。
友達の恋を応援したい気持ちはあるものの、Aちゃんと「ほぼ他人」のBくん、二人の仲を取り持てる自信がなかった。
返事に困っていると、彼女はぽつりと
「友達だと思ってたのに……」
そう悲しげに言った。私も友達だと思っていた。こんな悲しい形で「私たちは友達だ」と確認がしたかったわけではない。
その後、Aちゃんとはクラス替えで教室が別れた事をきっかけになんとなく疎遠になってしまった。
 
そういえば。疎遠になってしまったきっかけは覚えているが、Aちゃんと友達になったのはいつなのだろう? 席が隣だった時だろうか? 話かけられた時だろうか? 一緒に帰った時ただろうか? そもそもAちゃんと私は同じタイミングで友達になったのだろうか?
 
友達は、夫婦や家族とは違う。夫婦なら婚姻届を、子供ができたら出生届や戸籍などを役所に提出する。兄弟ならば盃を交わすこともあるだろう。しかし、友達には提出すべき書類も交わすべき盃もない。
友達には「友情」という言葉がある。しかし、「夫婦情」「家族情」「兄弟情」という言葉はない。
「情」とは人間の心のはたらきであり、気持ちなのである。だからこそ「友達」のスタートは曖昧なものなのだ。むしろ友達は個人的な心の働きであると言える。なぜなら契約ではなく、「情」なのだから。
 
友達が個人的な心の働きだという分かりやすい例は「ドラえもん」であろう。
いくらのび太が優しい男の子だからって、殴られている瞬間や家に帰って
「ドラえもーん」
「またいじめられたのかい、のび太君」
なんて泣きついているその瞬間には、ジャイアンやスネ夫が友達だという認識はどこか遠くにぶっ飛んでいるんじゃなかろうか。根底には彼らは「友達」だという前提があるのだとしても。
 
それでいいのだ。
 
24時間365日友達であり続ける必要はない。
夫婦や家族は、どんなに嫌でも24時間365日家族である。なぜなら契約を結んでいるからだ。
友達は契約を結ぶものではない、気持ちだ。ならば友達じゃない時間があってもいいじゃないか。だからこそ「仲直り」することもできるのだ。
 
ジャイアンという男がいる。
「ジャイアニズム」と称される、彼の人物像をざっくり挙げると、以下の通りだ。
 
1.「お前のものはオレの物、オレの物もオレの物」
2.短気で乱暴
3.たまに「心の友よ〜!」と泣きながら縋りつく
4.歌が大好き
 
ジャイアンに対して、私がいつも抱くのは
「『剛田 武』という如何にもゴツくて固そうな岩みたいな名前に反して、なんと風のように自由な気質を持った男だろうか」
という思いである。
 
「お前のものはオレの物、オレの物もオレの物」なんて言って欲しいものを取り上げたり、乱暴で短気でのび太に暴力を振るったり、スネ夫のラジコンがあらぬ方向に行ってしまえば「オレ、知〜らない」と言って逃げたり。かと思えばのび太やドラえもんのピンチには必死で助けたり。
 
自由すぎる。
 
「ちょっと待て。4番目の『歌が大好き』はジャイアニズムとは関係ないじゃないか」
と言われるかもしれない。
しかし、この特徴こそジャイアニズムを貫く最も重要な要素なのだ。
ジャイアンは歌を聴くのも好きだが、歌うのはもっと好きだ。むしろ自分こそ「世界で一番歌が上手い」と思い込んでいる節がある。空き地でリサイタルを開いて仲間たちに無理矢理聞かせる行動からも、彼の思い込みの激しさは明白だ。
この「思い込み」の激しさこそ、彼を貫く最大の要素なのである。
思い込みが激しいから短気で乱暴。「お前のものはオレの物、オレの物もオレの物」と本気で思っている。だから時には「お前のもの」を取り返すために必死で助ける、義理人情の厚さ。「心の友よ〜!」と本気で思っているから、泣きながら縋りつく。
 
「思い込み」こそ彼の最大の短所であり、最大のチャームポイントなのだ。
 
さっき私は、友達は個人的な心の働きだと書いた。個人的な心の働き、つまり「思い込み」だ。
 
昔ホームステイに行った時のこと。帰りの別れ際、ホストファミリーのお父さんからこう言われた。
「アキコのことを大事な家族と思っているよ」
嬉しかった。私も同じ気持ちだった。
彼らとは、「契約を交わした家族」ではない。しかし、お互いを家族だと「思って」いた。その「思い込み」が一致した、ということはすごく素敵なことじゃないだろうか。
 
友達も、そう「思い込んだ」ら友達なのだ。
その「思い込み」がお互いに一致する素敵な偶然が起こっているならとても素敵だ。これこそ「心の友よ〜!」である。
でも、一致していようがしていまいが、相手を友達と「思い込んだら」友達なのである。
 
「そうだ。思いが一致してようが一致していまいが。先生が友達だと言ってくださるならそれで光栄じゃないか」
そう思い、私は恩師から届いた「友達リクエスト」に承認ボタンを押した。
 
 
 
 
***
 
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2020-02-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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