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メディアグランプリ

日本が揺れた日、その時私は。


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:大和田絵美(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「ここは東京じゃない……」
テレビを見ていた私は、突然入ったニュース速報にそうつぶやいた。
「東京じゃないよ!」
思わず繰り返す。
2回目は少し大きな声になった。
テレビから流れる声はフィンランド語で理解出来ない。
画面の中には「TOKYO」の文字が赤く点滅している。
まるで東京で大事件があったと思わせるようなニュース。
でも、ここは東京じゃない。
大量の水に押し流され、倒壊していくビル。
「大学生の時、研修で通っていたから分かる。東京じゃないよ。ここは気仙沼だよ」
一緒に旅行していた叔母に必死に説明した。
それは、私が初めて見る津波の映像だった。
 
2011年3月11日14時46分18秒
東日本大震災発生
その時私は、日本から8000㎞離れた北欧の街、フィンランドのロヴァニエミという場所にいた。
私の実家は福島県福島市。
当時、父親は単身赴任で、太平洋沿いの「いわき市」というところに住んでいた。
両親は別々の場所で被災したのだ。
 
その日は、8日間の北欧旅行の6日目の朝だった。
前日の夜、闇が裂けるように美しく壮大なオーロラが見えて、感動のまま眠りにつき、その感激を引きずったまま、この旅行で初めてテレビをつけた。
そして、冒頭の津波の映像を見ることになってしまったのだ。
当時、スマートフォンはまだ一般的ではなく、私も持っていなかった。
Wi-Fiもなく、海外から日本にコンタクトをとることは難しい状況だった。
フィンランド語のニュースだけでは故郷がどのような状況になっているかよく分からない。
両親や友達がどうなっているのか分からない。
私を気の毒に思ったツアーの添乗員が国際電話も出来る携帯電話を貸してくれたが、何度かけても実家に電話は繋がらなかった。
急にパソコンのデリートキーを誰かに押されてしまったような、虚無感。
同じツアーに参加していた人は全員が関東の人で、みんな早々に家族と連絡がとれて、家の被害状況などを確認していた。
幸い、大きな被害があった人はいず、私と叔母以外の参加者は変わらず旅を楽しんでいたと思う。
私だけが、カイトの糸が不意に切れたように、繋がる場所がなくなってしまい、頼りないふわふわした気持ちに襲われていた。
 
旅の最後の2日間、私はほとんどの時間をホテルのパソコンルームで過ごした。
田舎町に日本人は珍しく、青白い顔で東日本大震災のニュースを見まくる私は目立っていたはずだ。
まるで一夜で全財産を失ってしまった人に出会った時のように、憐れみのこもった表情で誰もが声をかけることなく、ただ私を見ていった。
背中を丸めて涙をこらえ、「しょんぼり」という言葉を体現しているような私だった。
 
地震が起きた翌日、福島第一原子力発電所が爆発した。
この時期、福島県内のほとんどが停電していたし、日本ではこの原発事故のニュースが流れたのはとても遅かったので、私はまだほとんどの人が知らないかなり早い段階で、このニュースを知った。
でも、誰にも教えることが出来なかった。
その方法がなかった。
福島原発は、父がいるはずの場所から40kmほどしか離れていない。
遠い空の下で、その爆発のニュースはとてもリアリティがなかった。
 
その日の午後、ホテルでメソメソしているだけの私を心配して、叔母が無理矢理街へ連れ出してくれた。
ロヴァニエミは雪深い田舎で、ぽつぽつとお店があるだけの静かな町だった。
その中の一つのお店に入ると、おばあちゃんが1人で店番をしていた。
お店には他にお客さんもいず、絞った音量のフィンランド語のラジオが流れているだけだった。
急に「ふくしま」と聞こえた。
集団の中で自分の名前が呼ばれた時のように、そこだけ妙にくっきりと私の耳に入ってきた。
前後の文脈はまるで分からなかったのに、その単語だけしっかりと聞こえた。
私は突然、壊れた蛇口のように、涙が止まらなくなってしまった。
震災を知ってから初めて流した涙だった。
急に号泣した私に驚いたのか、おばあちゃんは何かを話しかけながらギュッと抱きしめてくれた。
言葉は通じなかったけど、その様子から私が日本人だと分かったに違いない。
実年齢より幼く見える私なので、まだ10代だと思われたのかもしれない。
しばらく抱きしめてもらって、落ち着いた私は、片言で自分が福島出身であることを伝えた。
今度はおばあちゃんが泣いてくれた。
狭くて暖かい店内で、私達は身内のように抱き合って泣いた。
 
母が生きていることを信じて、そのお店でお土産にマフラーを選んだ。
おばあちゃんは私に同じ柄のマフラーをくれた。
「きっと大丈夫よ」と言われたような気がして、別れ際だけお互い少し笑った。
 
3月13日
相変わらず誰とも連絡がとれぬまま、フィンランドを出発し、成田空港に到着した。
地震による液状化現象で大きな被害があった成田空港だったが、私達の便から復旧し、無事に降りることが出来た。
たった数日で、空港内も変わり果てていた。
濡れたパソコンやコピー機が通路に溢れ、毛布がところどころにうず高く積まれていた。
「大震災は本当だったんだ」
指先が冷たくなっていくのが分かった。
 
飛行機から降りると、真っ先に携帯電話の電源を入れた。
たくさんの着信と留守番電話、メールが入っていたが、両親からのものはなかった。
息が止まりそうなほど緊張した。
結果を知りたい。
でも、知るのが怖い。
震える手で母に電話をかけると、糸電話のように突然電話が繋がった。
コール音もなく、母が出て、「お母さんもお父さんも無事だよ! 大丈夫! 生きてるよ!」と告げられた。
電話はただそれだけで切れ、その後はもう繋がらなかった。
震災後2日目、まだライフラインも戻っていず、今でもあの時なぜ電話が一発で繋がったのか分からない。
神様がくれた、私を安心させるため、私の心の震えを止めるための奇跡だったのかもしれないと思う。
この母との会話が、今までの私の人生で一番嬉しかった瞬間だ。
 
3月11日が今年もやってくる。
あの日、たくさんのものが失われてしまった。
今もまだ、いろいろな人の想いが溢れている。
私はこの日がくるたびに、あの美しいオーロラとホテルで見た津波の映像、ロヴァニエミのおばあちゃんのことを思い出す。
そして、たくさんの被害があった中、生き抜いてくれた両親にとても感謝している。
 
 
 
 
***
 
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2020-03-12 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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