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メディアグランプリ

右隣の紳士


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:和辻眞子(スピードライティング特講)
 
 
ジジジジジジ……。
 
「痛いっ!」
 
背中に痛みを感じて振り返ると、私と窓枠との間にそいつが入り込んでいた。
 
「ちょっと! ちょっとやだ!」
 
もうほんとに、なんでこっち来るんだよ! バカ!
 
どうしようと思った、その時である。
何かが私の背中に、すっと触った。
 
ジジジジジジ……。
 
次の瞬間、自由を奪われた蝉が、必死に逃れようと羽をばたつかせてあがく音がしていた。私は何が起こったのかわからなかった。
 
「もう大丈夫ですよ」
 
右隣の席に座っていた男性が、私の背中に止まった蝉を取ってくれたのだった。
 
「え……?」
 
その人の手のひらに、悪あがきをしている蝉がいた。
 
「え……、取っていただいて、ありがとうございます。でもそれ、お持ちになってても大変なんじゃ……」
 
「いいんですよ。僕、虫は平気なので」
 
彼は蝉を自分の手のひらの中に握っていた。
 
さっきまで、夕方のラッシュアワーの電車の中に迷い込んで、どこに行くあてもなく、蛍光灯にぶつかってはその熱さに驚いて、思い切り飛んで行った先々で人々に嫌がられている蝉がいるなあと思っていた。ジジジジジジ……、ブィーン! と、素手で掴んだらとてもじゃないけど耐えられない蛍光灯の熱さに弾かれた蝉が、車両のあちこちに飛んで回っていた。
 
どこに飛んでいくかわからない蝉が自分のところに来るのは当然のことながら皆が敬遠して、近くに来たら手で払いのけたりバッグを振り回したりしていた。居合わせた乗客の、そんな仕草を横目で見ながら、手元のLINEを眺めつつ私は思った。蝉はまだあっちにいるから、ここまでは来るわけがないと。
 
私の意識の中から完全に蝉が消え去ったと思ったとき、何度目かの弾かれた蝉が、座席に座っていた私の背中と、閉まっていた窓の間に入り込んで来たのだった。蝉は、逃げようにも狭い隙間で幅が取れず、瞬間ものすごい羽音を立てていた。逃げようとして立てた足先が、私の背中に食い込んで、痛みを感じた。そこをお隣の男性が助けてくれたのだった。
 
ジジジジジジ……。
 
蝉は男性の手のひらの中で、おとなしく収まっているようにも見えたが、隙あらば逃げ出す機会を窺っているような音を立てていた。男性は蝉を手中に収めてはいたけれど、決して握りつぶすことはなく、かといって再びそこから飛び出してしまって車内の厄介者に戻ることがないように、程よい力加減で蝉を掌握していた。
 
「本当にすみません。ずっと持っていらして大丈夫ですか? よかったら私が窓を開けますので、逃がしましょうか?」
 
「いや、このままで大丈夫ですよ」
 
彼の言葉は少なかったが、私はその人柄にとても誠実なものを感じた。普通であれば蝉をずっと手のひらに握っていること、それも潰さないように握ることなど、考えもしないのではないだろうか。多くの人は蝉を邪魔扱いして払いのけるか、ひどい時には何かで叩き殺してしまうように思う。私だったら、蝉は叩いて死なせてしまうと後が面倒なので、やはり追い払うか、逃すことに専念するだろう。それを、死なせないように自分が降りる駅まで持っていてあげるところに、彼の優しさを見た。
 
急行だったのでしばらくそのままの状態が続いたけど、彼は蝉を自分の手のひらで生かす状態をキープしていた。申し訳ないと思いながらも、私もそのまま黙っていた。やがていくつ目かの停車駅で電車は止まり、彼は立ち上がった。
 
「本当に、ありがとうございました」
 
彼は黙って微笑むと、目礼をして降りていった。
 
日々電車で長距離通勤をしていると、実に様々な人に会う。特に通勤時に出会う男性にはがっかりさせられたり、不愉快になったりすることが実に多い。「7人掛け」と区切られている座席の幅よりも身体が大きい人が多いせいなのか、自分の家のソファーでもないのにくつろいで隣の人のことを全く気にせず振る舞い、不快に思われても全く気がつかない人がいる。隣に女性が座っていてもお構いなしに、自己中心的な座り方をされた日には、全くうんざりだ。運悪くそういう男に出会ったら、「お前なんか、職場でも家でも嫌われて当然!」と内心呪うことにしている。
 
そんな中、きちんと周りの状況を見て困っている人がいたら助ける、それもどこにも被害がない方法で救ってくれた右隣の男性のような人は、数年に1度巡り合うか否かといったところだろう。
 
彼はまさに「紳士」と呼ぶべき人だった。
どこにも浮ついた態度がなく、咄嗟の行動が自然体でできる。何ともカッコいいじゃないか。満員電車の男性がみんな、彼みたいな人だったらいいのに。そうしたら、車内も殺伐としなくて済むのに。そういう人が増えてくれたら、疲れる電車も気分良く過ごせるのに、と思ったひと時だった。
 
 
 
 
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2020-04-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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