メディアグランプリ

裏は表で死は生で


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:椎名碧凛(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
先日、運転免許証の更新へ行った。約30分の講習を終えて、写真を撮り終えるとものの2、3分で新しい免許証を受け取ることができた。新しくなった写真は、以前のものよりも少し顔がこけていて、自分が思うよりも日焼けをしていた。
 
今回で色がゴールドになったカードの裏面下半分。文章が数行書かれているうちの「1」の番号を丸で囲った。ボールペンでグリグリぐりぐり。消えてしまわないように、何度も何度もなぞった。「1」の文章は以下である。
 
1,私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します。
 
運転免許証を所持している人なら当然ご存じだろう。まさか、裏面なんて見たこともない、なんて言う人はいないと信じたい。私たちは運転免許証もしくは健康保険証の裏面によって、臓器提供の意思表示をすることができる。
 
高校生の頃に自分で保険証を持つようになってから、私は臓器提供の意思表示を必ずするようにしている。選択肢は「提供する」で今も昔も変わりない。
 
今回免許が新しくなって改めて書き直す際、どうしていつも私は「1」に丸を付けているのか考えてみた。考えてみたけれど、別に人に誇れるような深い考えだとか信念なんてものはなかった。しいて理由をつけるなら、「最期までだれかの役に立ちたい」ということになる。
 
私が死んだあと、もしくは生命はあっても意識を取り戻す見込みがなくなってしまった後、自分の体の一部を差し出すことで救われる人がいるのならば、喜んで差し出したい。それは臓器移植を必要としている人だけに向けてではなく、研究などに使われるとしてもこの気持ちは変わらない。自分の体がばらばらになって、あちらこちらで使われるようになっても、それが誰かの役に立つのであれば、本当に心から嬉しく思う。むしろ私の体のすべてを使ってもらって、最後には骨一本さえ残っていない、という状況が理想的とさえ思える。それが死と生の狭間にある状態の私を、他人が私の意思に従い、わずかな可能性を消して完全な死へと導くことになっても。
 
そもそも死ぬということはどういうことなのか。私が「死」に初めて出会ったのは5歳か6歳のころ、祖母が亡くなったときである。末期がんだったらしく、病の発見から終焉まではあっという間だったらしいが、私には病気だった祖母の記憶がない。病院にお見舞いに行った記憶はないし、具合が悪そうにしていたような記憶もない。覚えているのは、元気なころに私をおんぶしてくれていたことと、火葬の前に棺の中を見下ろしていたことの二つである。
 
まだ身長が足りなかった私は誰か男の人に抱きかかえられて、棺の中の祖母を見ていた。花に囲まれて目を閉じている彼女を見ても、何が起きているのかはよく理解できなかった。オイオイと周りの大人の男たちは泣いている。「もう会えないんだぞ」と私を抱える男が顔をゆがませながら呼びかける。最後までよく見えるように高く私を掲げてくれた。泣く、ということを忘れてしまった存在だと思っていた大人たちがみんな泣いている中、私は涙を流すでもなく、何を話すわけでもなく、ただじっと棺の中を見つめていた。眠っているだけのように見える祖母は、もう二度と目を覚ますことがないということと、今から体は燃やされて無くなってしまうこと。それだけは何となく理解できた。私の向かい側で同じように抱きかかえられていた同い年のいとこの女の子も、私と同じように黙って下を見つめていた。
 
あれから約20年が経とうとしている。その期間、幸いにも、というべきどうかわからないが、身近な人が亡くなることはなく、葬儀に出たのは後にも先にもあの時の1度のみである。いざというときのために礼服持っておいたほうが良いのかどうかわからない。
 
「死」に最後に触れたのが記憶があいまいな子どものころだったからだろうか。長く身近な人の死を感じることがなく、私は人が死ぬことを悲しいと思えないようになった。だって、人はいずれ死ぬじゃん? あなただって、私だって、いつか死ぬ。それが10年後なのか50年後なのか、それとも来月なのか明日なのかは誰にもわからないけれど、死ぬ。絶対に死ぬ。死なないなんてことはあり得ない。人が死ぬことは仕方がない。だれもが分かりきっていることである。
 
そして、明日も生きられる確率が100%の人間は、誰一人として存在しない。20歳と80歳の人間、明日も生きている確率が高いのはどう考えても20歳だけれど、絶対ではない。事故で、急な病気で、殺人事件で死ぬ。ありえない話ではない。
 
だから私は死ぬことを怖いとも悲しいとも嫌だとも思わない。朝は日が昇って夜に沈むように、人間が死にゆくことは当たり前のことだから。
 
私たちが今日まで生きてこられているのは毎日、毎秒、死ぬかもしれない可能性を奇跡的に避け、耐えて、くぐり抜けてきたからなのだ。
 
もし仮に私が今日眠りにつき、明日の朝目覚めることがなかったしても、甘んじて受け入れよう。もっとやりたいことがあったのに、と人生に後悔は残るかもしれないが、だれに文句を言うこともできない。確率の低い外れくじを引いてしまっただけの話である。
 
冒頭の臓器提供の話に戻りたい。私が臓器提供をするという意思表示をしていることは死んでもなお、誰かの役に立ちたいからだと書いた。臓器提供のことについて考え、死について考えた。
 
死んでから「も」誰かの役に立ちたい。
 
生と死は真逆であり、表裏一体である。切り離して考えることはできない。生を考えることは死を、死を考えることは生を、考えることだと思う。
 
私がいつ死ぬかは分からないけれど、生きることができている限りは人の役に立ちたい。自分の周りにいる人たちだけでも笑顔にしたい。喜ばせたい。悲しみから救ってあげたい。もっと言うなら幸せを分け与えられるような人になりたい。そのためには自分が手に有り余って零れ落ちるほどの幸せを持っていないといけないけれど。
 
そう考えると、死ぬことは怖くないとか仕方がないとかさんざん言ってきたけど、やっぱりまだ死にたくはない。明日もまた死ぬ可能性をかわして、生きていられるように願って、眠りたいと思う。
 
 
 
 
***
 
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2020-09-21 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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