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チルチル・ミチルのように

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H.tomoko

 

記事:H. Tomoko(ライティング・ゼミ)

 

「国際」と聞くと、つい身構える。

「国際的な視野を持とう!」「国際派のお仕事を紹介します!」
ネットでは、伏兵のごとく「国際」が潜んでいて、不意打ちを食らった私はどきんとする。子供のころは、「国際派」に憧れていたのに、いつしか苦手になった。あの華やかなイメージは相変わらずで、今でも多くの若い子たちが、国際学部へ進学したいと願うのだろうか。

紆余曲折の果て、通訳業についたため、「国際的なお仕事をされているのですね」と、時には言われるようになった。子供のころの憧れとはうらはらに、言われれば言われるほど、私はますます混乱した。そう言ってくださる方の気持ちはわかる。でも、国際機関で働いてるわけでも、ピースボートに乗って世界各地を訪れたわけでもない私なのに。そもそも「国際的」って、何だっけ? 子供の私は、いったい、何に憧れていたのだろう?

じわじわとネットは広まりつつあったが、ブログはまだ存在していなかったひと昔前、私は渡米準備のため、最後に残った貯金でノートパソコンを買いに出かけた。電化製品店の店頭で、当時日本を代表する「国際企業」であった会社のコンピュータを手に取った。「国際標準の製品です」と広告が謳っていた。ならば、たとえ故障しても大丈夫かと、カスタマーセンターに電話をしたところ、丁寧な返答をいただいた。「海外に持ち出しますと、保障の対象外になります。アメリカで修理は受け付けておりません」 なーんですってぇ? アフリカに行くわけじゃあるまいし、その会社の製品がやまほど売られているアメリカでもダメだとは!

この頃からだろう。私は「国際」の実体のなさを疑いはじめた。もしかして、これって客寄せパンダじゃなかろうか? 「国際」といえば、学生が集まると思ってる? 外国人コンプレックスにつけこんでない? ひょっとして、というか、かなりうさんくさい?

デジタル大辞泉によれば、国際的とは「その物事が多くの国と関係があったり、世界的な規模であったりするさま」とある。

ならば、鎖国時代の日本ではあるまいし、今どき国際的ではない日本人がいるかしら? 西の国でデザインされた服を来て、南の国から送られた食べ物をつまみ、東の国で作られた携帯を片手に、北の国が発信するコンテンツを日々チェックする。誰もが、外国と切っては切れない生活の真ん中にいる。なのに日々「国際」を実感する人は、一体何割?

私にとって、そしてほとんどの日本人にとって、「国際」は、青い鳥のようなもの。
憧れて、ずっと探し続けているもの。
どこか遠く離れたところに、存在しているもの。
本当はそこにあるのかもしれないのに、実態が見えないもの。

チルチル・ミチルのように、私たちは、幾つもの部屋をノックする。
TOEICで高得点をめざしてみたり、
外国旅行に出かけて、友人をつくってみたり、
海外支社の担当者と、メールやTV会議でやりとりしたり。
でも、いったい何カ国を訪れ、いくつの文化を体験し、何人の人種と言葉を交わせば、「国際人」となれるのだろう? ドアを開ければ開けるほど、無知の知ばかりが増え、「国際」は遠ざかる。井の中の蛙だぁと、縮こまる。

仕事柄、アメリカ人あるいは他の国の方と仕事をする日本人を何百人と見てきた。出張でも、駐在でも、うまくやれる人もいれば、そうでない人もいる。その違いは何なのか。深い専門知識、流ちょうな語学力、タフな交渉力、あるいは単にイケメンか? いろんな条件が上がる。どれも真実。

中にひとり、印象に残る駐在員さんがいた。話し方もゆっくりで、バリバリ仕事をする優秀なグループの中においては、むしろ地味な存在の人。仕事じゃなくて恋愛ならば、「いい人なんだけどね……」的キャラの人。

彼が帰任した後で「今後もぜひ彼のような人と仕事をしたい、とアメリカ人が熱望している」と聞かされ、びっくりした。もっと仕事ができそうな人はいくらでもいそうなのに、なぜ、彼を?

「国際」は華やかに見えて、実のところはうんざりするほど地味なのだ。「海外では、日本人は日本人同士固まる」と批判する人もいるが、ちょっと観察すればすぐわかる。どの国の人だって、同じ言葉、同じ人種の人と、だいたいが固まっているものだ。なぜか? 楽だからだ。同国人同士の会議だって誤解はよくあること。それを、違う文化のもの同士、納得するまで話しあうなんて、まだるっこしいことこの上ない。同じところをぐるぐる踊るばかりで先に進まない会議なんて、山ほどある。だから、こちらで根回しをし、あちらでうまく口を合わせ、「まあまあ」と「なあなあ」を使い分けて、さっさと仕事を動かす。それだってひとつのスキルといえなくもない。

でも、彼は違った。
人の話に真剣に耳をける。
自分ができる限りのことを差し出す。
その国籍を理由にして、外国人を上にも下にも見ることがない。
「誠実」そのものだったわけである。

ああ、ここにひょっとして、私の青い鳥がいたのだろうかと、はっとした。やっと答えをつかむことができた気がした。

多様性の幅が広がる場では、異なる髪型や洋服をもぎとり、異なる色の肌もはぎとり、残る共通項は「人として」大切な何かとなり、「何人として」では、もはやなくなる。本質に立ち返る。それを忘れずにいることが、国際的視野を持つことなのか。

子供のころに憧れた「国際」は、思いもかけない場所で見つかった。青い鳥が私の手元に舞い降りた。もっと遠くへ、もっと多くの国へ、と思っていたのに、結局「人としての自分」のホームベースに還ってきて、私の襟を正させた。

とはいえ、やはりそこは青い鳥なのである。

「そんな甘いことを言っていては、生き馬の目を抜く国際ビジネスで、勝ち残っていけませんよ」
そんな意見も聞こえてくる。

しゅんとなる。
それは当然だ、と頭を垂れる。

結局私の解は、私の周囲という狭い世界の解なのだ。地球上に200以上も国があるのに、私が訪れたのは手の指の数にも満たない。「国際」は規模が大きすぎて、手に余る。

そうやって、また青い鳥は私の手から飛び立った。
華やかで、地味で、そしてつかみどころがない「国際」。

つまり、ひとくくりにしようとするからダメなのだ。100万人いたら、100万の答えがある。私は、答えが出た、いや出ない、をこれからも繰り返すのだろう。街で、ウェブで、「国際」の文字を見るたびに。そして、その時に思う答えに従い、華やかな国際化時代を、地味に生きていくしかないのだろう。いつか私の肩に青い鳥がしっかりとまる日を夢見つつ。

さて、東京オリンピックまで後4年。今後、ますます国際的な体験を多くの方がされることだろう。チルチル・ミチルのように、いろんな部屋を開けてみることになるのだろう。みなさんが、それから世界各地から日本を訪れる方々が、それぞれの青い鳥を見つけることができますように。

 

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2016-01-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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