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どうしてオタクはキモいのか


 

 

記事:横手モレルさま(ライティング・ゼミ)

 

 

ついにやるぞ、落ち着けチョロ松。お前に与えられたのはたったの「20秒」。なけなしの金をはたいて買った命の時間。ニューシングルの感想、写真集を予約したこともさらりと伝え、ツイッターのアカウント名も会話に混ぜて刷り込む。絶対にしつこくするな! あくまでもほかのファンとは違う、いい距離感を演じろ! いうなれば「わかってますね」感、そう、「この人ってわたしたちのストレスをちゃんとわかってますね」感だ! おそれるものは何もない、わが計画は完璧だ!

「おそ松さん」第2話「おそ松の憂鬱」より

 

 

聞いてほしい。大ピンチである。生まれてこのかた、これ以上にない欲望に突き動かされている。テレビで見たデイトレーダーのようにPCに張り付き、漏れのないよう情報をおさえ、手帳を塗り、赤ペンでつぶし、ネットに関連テキストを見つければかたっぱしから瑕疵をあらい、イベントの予約抽選にのぞみ、スムーズに落選し、グッズの予約票とレシートの束で財布が閉まらなくなったので専用のクリアケースを持ち歩くようになり、声優さんの出演するドラマCDまで予約して買った。個人的なK点超えは、先週発売になった『TV Bros.』全国6地域の表紙ジャックバージョンの6冊全部をずらっと買い占めたことである。本の大量買いなら慣れた肩ではあるが、「判型や厚みがまったく同じ雑誌6冊」の食い込むダメージは破格であった。

 

これまでも症状はあったのだ。

 

テクノミュージックにはまった中2の頃には、電気グルーヴ石野卓球のラジオを聴いて、「今週の新譜」を誰よりも早くゲットするべく、今は亡き渋谷WAVEにとことこ通って、針の交換方法も覚えないままアナログレコードを小脇に抱えた。ニッポン放送のオールナイトニッポンにも漏れなくはまり、同じくリスナーであるたった一人の同級生と、「二人しかわからない記号だらけの過剰な笑い」に興じては、ポカーンとしているほかの友だちをセンスがないなと分別した。

 

雑誌『CUTiE』の個性派ファッションがいちばんイケてた中3の頃には、読めもしない英字の殴り書きが全面にプリントされたチュニックを着て、パンツが見えそうなキルトスカートに安全ピンをじゃらじゃらつけた。制服をMILKの袋にぐるぐる突っ込み、ベレー帽に超絶ミニをあわせたスタイルで、通学仲間の幼馴染にガン無視された理由がわからず小田急線の中でぼとぼと泣いた。

 

文学部に進んだあとは、周りが太宰や谷崎をまっとうに楽しむなかでひとりポップ文学やポストモダンに傾倒し、作家の私設ファンクラブにいくつも入り、咀嚼もできないドゥルーズなんかをポケットにねじ込んで、当時はまだあった女子大内の喫煙所でRCサクセションの『トランジスタラジオ』を気取っていた。「授業をさぼって/陽の当たる場所にいたんだよ」である。

 

誰よりも排他的で、かっこつけで、とんがった知識のあることと、マテリアルな物量に満たされることが「わたし」だった。とんがったその先端にある事象に愛されるためならちっぽけな肉体なんてどうでもよかったし、むしろ情報に溺れて滅びる自分を描いてうっとりしている、まったく「脱構築」なんてされていない、くそ生意気な旧態然のデカダン女なのだった。

 

世界とコネクトするための手段が、わたしには「知識」と「物量」しかなかった。

 

それを引け目としたなら壊れてしまう若さがあった。だから人の倍はテキストにしたし、酒を飲んではおおいに喋った。ダサい自分を隠すためならいくらでも小噺を垂れ流したし、イット・ガール(とびきりの女の子)になるために、人の知らないトリビアだったりハードロックおじさんしか乗ってくれない話題を調べた。

 

誰よりおしゃれになりたいと思っていた。

そのための努力がはてしなくくそダサく、つまりわたしはオタクだった。

 

青春の熱病のような「何者かになりたい欲」が、そのままオタクを作り上げた。

 

36歳のわたしであるから、そんな学生時代の自分なんかは「ダセェ……」の一言で終わりにして振り返らずにもいられるけれど、けれど話がオタク一般のこととなると過敏である。

 

数年前、「脱オタクファッション」という指南がネットミーム的に流行したことをご記憶だろうか。ネルシャツ、だぼだぼジーパン、ばりばり開けるタイプのスニーカー、ポスターを突っ込んだリュックサックに身を包み、秋葉原あたりを闊歩する若人たち。彼らがカツアゲされまくったりギャル男にばかにされ女子にキモがられる流れを分断しようと、ファッション的な高みにある宣教師(グル)が教えを垂れた、一連のあれである。

 

たしかに、ズボンにインしたネルシャツはダサい。

だが、ダサいことは「悪」なのか。

おしゃれであることが必ずしも「正義」なのか。

ネルシャツスニーカーばりばり青年たちは、それはそれで完結された幸福な青春かもしれないのだ。そこをなんだ、上から目線で「おしゃれに正す」という風潮はいくらなんでもファッショじゃないかとわたしは憤慨したものである。

 

音楽オタク、ファッションオタク、文学オタク、それらをすべて「にわか」のまま熱病のように通過してきたわたしは分かる。あらためて言い直す。ある種の人間にとって、「オタク」は、世界とコネクトするための言語である。

 

だが、誰よりも引っ掛かることや、凡百がマネできないほど突出することこそをクールネスと定義づけるオタクの言語は、世界からみたらとっても珍奇だ。

 

人間、珍奇なものは、気持ち悪いなとまず思う。

気持ち悪いから避けたいと思う。

当然である。

「ふつう」と違うものを分別するのは生き物としてのアラートだからだ。

 

道端に落ちている洗濯物が靴下であれば素通りできても、よくわからない形状の、もしかしたら血に見えるようなシミのついた布が落ちていたらまず「キモ!」と思う。それを恥じる必要はない。物陰には暗殺者がいるかもしれないわけだから、瞬間的に「キモ!」と思って恐れることは生き物として正しいのだ。

 

「わけのわからないもの」を恐れるように、生き物はあらかじめ決められている。

 

オタクは「わけがわからない」。わからないからキモがられる。それはオタク自身の自意識にも関連する。わざわざ「わけをわかってもらえないもの」にしがみつくからこそ、「ふつうの人」と乖離する。それはあらかじめ選んだ役割であり、もしかすると業でもある。オタクはそんな自分を肯定する。肯定するからなりふり構わずグッズを買いあさるし、データ漏れのないようにエクセルも開くし、愛する作品なり作家なりのファミリーツリーを紐解いて、もっとディープに、もっとたくましく、自分の鎧を作るのである。

 

オタクは「ふつうの人」と乖離すること自体を織り込み済みなのだから、キモがられてもしょうがない。そこで前述のような「脱オタクファッション」を選ぶか、おのれの道を突き進むかを選ぶのである。後者を選ぶオタクはキモい。そしてそのキモさをこそ、わたしは鋼鉄の意志と思うし、ずば抜けていてかっこいいとなと今でも思う。

 

長い長い自分語りを果たしてきた。わたしがもっか「おそ松さん」に投入している(そろそろ10万円を突破するだろう)関連投資を肯定するための、これは鋼のストーリーだ。粘着っぽくてキモいだろうか。オッケーである。なぜならわたしは、オタクなのだ。

 

 

 

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2016-03-04 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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