メディアグランプリ

「それから幸せに暮らしましたとさ。おしまい」って、本当なの?


 

 

 

記事:H. Tomokoさま(ライティング・ゼミ)

 

 

「白馬の王子の白タイツって、ちょっとヤバくない?」と無邪気な会話を女友達と交わしていた若かりし頃、「でもねぇ、一番好きな人とは結婚しないほうがいいよ」と誰かに教えてもらった記憶がある。「理想と現実のギャップにがっかりするから2、3番目に好きな人と結婚したほうが幸せ」そんな理由だった。

 

その説の真偽はわからないままだ。最愛の王子と結婚した白雪姫も、シンデレラも、結婚後の日々の詳細を語りはしない。いや、絵本には「それから二人は幸せに暮らしましたとさ。おしまい」と書かれてはいるが、彼女たちも実は「げっ、こんな人とは思わなかった」「本当は隣の国の王子がよかったかも」とぐるぐる悩んだ果てに「それでもやっぱりこの人でよかったんだわ」とむりやり至った諦観で、案外「幸せ」なことにしちゃったのかもしれない。

 

これって仕事でもそうかもね、と4月の入社や人事異動の季節を前に、ぼんやり思う。「夢見ていた仕事に就けた、ばんざーい!」だとしても、ちょっと待て。大好きなことを仕事にするのは、最愛の王子との結婚に似ている。それって本当に幸せなの? そう考えたのは、イラストレーターの友人と交わした一言二言がきっかけだった。

 

その友人の描く愛くるしいスケッチや、神々しいイラスト、さらには闇を含んだ絵を見ては、わたしは単純に「いいなぁ、いいなぁ、そんな風に思い通りにいろいろ描けるなんて、さぞかし楽しいだろうねー!」と、思っていた。だってイラストレーターだよ? 憧れの職業だよ? 仕事を通じて自分を表現できるんだよ? 楽しくないわけがない! ところが、返ってきたのは思いがけない返事だった。「うん、イラストは間違いなく楽しいもの。でも、あなたの仕事の英語と似ているのかも。英語だってそりゃ話せたほうが楽しいに決まってる。でも、手放しで楽しいことだけかというとそうでもないでしょ?」と。

 

ああ、そうか、そうだなぁ。ちょっとしんみりするわたし。

その苦しさには、思いっきり覚えがある。

 

夢見た仕事に就けた瞬間は本当にうれしい。でも、仕事とはやっとそこから始まるもので、その後に待っているのは決して楽しい日々ばかりじゃないよね。

 

アートに関しては素人のわたしだが、多くのものがあってひとつのイラストが完成するのだろうと想像する。どんな線を引くのか、線の太さはどれくらいか、構図はどうするか、色はどうか。同じ赤でも、明度は、彩度はと、細分化された構成要素があるのだろう。そして彼女はモザイク模様をなすピースのひとつひとつのように、自分の能力をみつめ、強いところを伸ばし、弱いところをつぶし、毎日毎日ペンだこを作りながら、描き続けてきたのだろう。「日々、自分の画力の壁とぶち当たっている」と言う彼女。それは描くことが趣味であったときには、決して知らなかった激しい痛みなのかもしれない。

 

子供時代、「ぺらぺらと英語を話せるようになる」ことがわたしの夢だった。そのため通訳になったのに、英語を話すことが職業になった今、あれが趣味であったころはずっと楽しかったなぁ、戻りたいなぁとすら時には思う。学生時代は「日本人として、どれだけ英語が話せるか」だけでよかった。だが、ひとたびお金をいただくようになると、視点が180度回転し、「ネイティブスピーカーと比べて、どれだけ英語が話せるか」が基準となった。それはつまり、「自分がどれだけ話せていないか」を痛感する日々の到来だった。

 

初めて通訳として会議に出た日を覚えている。リングに上がったわたしはいきなり顔面パンチを食らって吹っ飛ばされた。TOEICの高得点も卒業証書も意味はない。実力がない。ただそれだけが事実だった。

 

大好きなことだから執着し、期待が高いがゆえに時に絶望がやってくる。はじめの数年間は、自分には才能なんてないんじゃないかと、怯えながら自問自答を繰り返した。腰かけの仕事であったならば、いっそ楽だったのに。好きなことは趣味にしておいたほうが、幸せだったのかも。

 

だがそんな自分を救ってきたのは、当たり前すぎて能力とすら思っていなかった力だった。絵を描くにも多くの構成要素があるように、通訳技術にも複数の要素があるものだが、わたしを支えたのは、右も左もさっぱりわからない専門用語が飛び交う会議で、英語がよく聞き取れなくても「この人はこういうことを言わんとしてる」と察し、話の筋を汲み取る力であった。それは、母国語の力で育んできた論理力なのかもしれないし、非言語コミュニケーション能力だったのかもしれない。英語力を武器にリングに上がったはずが、気がつけば日本語や非言語コミュニケーションで戦い、生き残っているという逆説。わたしとは違い、英語も日本語もどちらも自然に話せてずいぶん嫉妬させられた日系二世の同僚が、「両方中途半端でどうも自分は理解力が弱いのではないか」と悩む姿を見ては、例え同じ業務でもまったく異なる能力やスキルを組み合わせ、仕事をすることができるのだと知った。

 

つまり、仕事とは、自分の能力の総力戦でするものなのだ。天賦の才能があり、この仕事をするために生まれてきた人ですら、強いピースと弱いピース、大きいピースと小さいピースの組み合わせで戦っているに違いない。

 

大好きなことを仕事にするのは、このピースのひとつひとつを真剣に攻めていく喜びだ。自分の能力やスキルをとことん見つめ、これは使えるかも、これは強みになるのじゃないか、そんなことを延々と考えては飽きることがない。失敗や挫折からも、さらに工夫する楽しみ、攻略する喜びを見いだせる。そうして気がつけば、大小さまざまなモザイクのピースが手の中に溢れていくことだろう。

 

そして、イラストレーターの友人はいった。

「苦しい。だけど、止めらるか? 人生それなしで生きていけるか? と聞かれると、生きてはいけない」

 

うん、そうだね。その思いにも覚えがある。

ネイティブのように話せる日は永遠にこないからといって、努力することは止められない。

 

そう、最愛の王子と離れては生きていけない白雪姫のように。はなから離婚は選択肢にない。だから力技で、何があっても「それから幸せに暮らしましたとさ。おしまい」に持っていくのだ。自分の中にあるピースをなんとか組み合わせて、しつこく、しぶとく、やがてハッピーエンドにたどり着くまで。大好きなことを仕事にするというのは、そういうことだ。縁があって結ばれるのなら、やっぱり2番目じゃなくて、最愛の何かを選びたいよね。

 

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2016-03-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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