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メディアグランプリ

書くセンスがない人こそ書くことを学ばないといけない



記事:コメダ コーヘー(ライティング・ゼミ)

*この文章は、「天狼院ライティング・ゼミ」の受講生が投稿したものです。
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おそらく、僕には書くセンスというものがない。

血のにじむような努力をしたわけではないし、誰かと競って明確に順位や優劣がついたこともないけれど、少なくとも、天性のセンスや勘のよさのようなものは備わっていないだろう。

面白いと思った題材を、自分が学んだ手法に基づいて書き進め、おかしなところをできる限り直し、それなりの時間を費やして記事を書き上げる。
でも、その記事を頭から読み返してみて、これは面白い!と思うことはほとんどない。題材を殺してしまったな、と思うとことがほとんどだ。

職場の広報誌で短いスタッフ紹介の記事を任された時は、自信満々で提出した原稿が一文字も掲載されず、僕が書いた文章が載るはずだったスペースにはスタッフの写真が敷きつめられていた。
僕の文章は、写真に全く及ばなかったということだろう。

それにひきかえ、ライティング・ゼミの他の受講生や、天狼院スタッフの文章は面白い。彼らが書いた文章を読むたびに、その文章から自分が少なからぬ影響を受けていることを感じる。
題材から自分のことを顧みて考えたり、面白い文章を書くことができる人たちへの嫉妬や羨望を抱いたり。
自分の書いたものが他人に影響を与えるというのは大変なことなのに、それを彼らは当たり前のようにやってのける。

そんな人たちの文章を見ると、なぜ、僕は自分にセンスがないと思いながら、お金を払ってまで書くことを学んでいるのか、と思ってしまう。
僕のようなセンスのない人間にも書くことを学ぶことに意味があるとしたら、それは何だろうか。
改めて考えてみたとき、小学生だった頃のある風景に辿り着いた。

たしか小学6年生の時だったと思う。
当時仲の良かった友人が、転校することになった。

お別れのメッセージとして、クラスメート1人1人が折り紙で何かを作り、そこにメッセージを書いて渡した。
僕は折り紙で作った不恰好なイカに「ありがとう」とだけ書いて渡した。
友人は喜んでくれていたが、僕の中にはもやもやとしたものがいつまでも残っていた。

本当は、もっと伝えたいことがあった。
「ありがとう」の一言には収まりきらないことがたくさんあった。
でも、それをどう伝えればいいのか分からなかった。

思いつく言葉はどれも何だか嘘くさくて、伝えたい気持ちが伝わるとは到底思えなかった。
それならば、いっそのこと書かないほうがいい。
そう思って、「ありがとう」の一言だけを書いた。

その一言に嘘はなかったし、シンプルだからこそ伝わるものあっただろう。
でも、それよりも、どう書いて伝えればよいか分からず、こぼれ落ちていったもののほうがずっと多かった。

もっと上手に書くことができれば。
もっと上手に伝えることができれば。

そう思った12歳のころの僕が、今の僕を書くことに向かわせているのだと思う。

世の中には自分よりも文章の上手い人などごまんといる。
その人たちが書く文章は、都会の列車のように、大勢の人から必要とされ、その人たちの元へすごいスピードで届いていく。

僕の文章は、せいぜい田舎のバスのようなものだろう。
必要としている人はそれほど多くないし、予定通りに着かないことも多い。
それでも、それを必要としている人は必ずいる。
新幹線はどうやったってバス停には着かないのだから。

この先、テクノロジーが発達して、今人間がやっていることがどんどん機械に奪われていったとして、それでも最後まで残るものは、「親としての自分」であったり、「誰かの友人としての自分」のような、「誰かにとっての自分」という関係性だと思う。
自分が自分である限り、その関係性は機械にも奪うことができないし、その関係性の中で語られる言葉は、どんなことがあろうとも奪うことができない。

ほとんどの場面において、僕たちが書く文章というのは、他の誰かが書いたものと代替可能だし、誰かに頼んだほうがよくなることのほうが多いかもしれない。
でも、自分が放り込まれている関係性の中で、書くこと、伝えることを誰かに代わってもらうことができない場面がきっと出てくる。

たった1人のためかもしれない。1円にもならないかもしれない。
それでも、自分が書きたいと思っていることを書ききりたい。伝えたいと思っていることを余すことなく伝たい、と思う時がきっとくる。

その時の僕に12歳の僕と同じ思いをさせないように、僕は今、錆びた刃を必死で研いでいる。

***

*この文章は、「天狼院ライティング・ゼミ」の受講生が投稿したものです。

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*この作品は、天狼院メディア・グランプリ参加作品です。
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2016-04-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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