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2020に伝えたい1964

『のぞみ』の名は、開業当時から決まっていたのかもしれない《2020に伝えたい1964》


記事:山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
 
 

1964年のオリンピックを前にして、東京のインフラは格段に整備された。
それまで都心の広い道路には、都電(路面電車)が縦横に走り、車は始終渋滞していた。車が多かったわけではない、現在の1/40(一般社団法人 自動車車検登録情報協会データ)に過ぎなかったからだ。車は少なかったが、路面電車が道を狭くし、交通調査がままならなかったのか、交通量と信号のタイミングが合わなかったから混雑していただけだ。無理もない、その頃は信号のコンピュータ制御等は行っておらず、しかもそれは、夢のまた夢だったのだ。
 
鉄道も同じだ。当時、東京の国電(今のJR通勤電車)や私鉄は整備されつつあったが、地下鉄は銀座線・丸ノ内線・日比谷線と都営浅草線の一部(大門まで)しか無かった。
当然、通勤・通学時の電車は混み合い、乗車率が250%を超えることもあった。現在の混雑は、せいぜい160%(JRデータ)なので、その混雑具合がどれほどだったのか想像が付くだろう。『時差通勤』なる言葉は、東京オリンピックの後、10年以上たってから現れた。
 
一方、上水道は都区部ではほとんど行き渡っていたが、下水道は普及率が30%にも満たっていなかった(東京都下水道局データ)。考えてみて欲しい。尾籠な話題だが、水洗トイレが30%しかなかった。だから当時は、中央部を除いてバキュームカーが、そこら中を走っていた。私の生まれた江東区は、下町で開発が遅れた為、よどんだ汚い運河が悪臭を漂わせていた。運河が、下水と化していたからだ。
 
今の方々には想像も出来ないと思うが、当時の東京は江戸と大して変わらぬインフラで、急速に近代化をしつつあったといっても過言ではなかった。
このままで、オリンピックを開催して大丈夫かと当時の大人も思ったのだろう、
1964年の東京オリンピック開催決定を契機に、現在のインフラ基盤が構築され始めた。
 
先ず、墨田川以西(下町は除くということ)で、バキュームカーはほとんど見掛けなくなった。下水道が整備されたからだ。
早慶のレガッタ(ボートレース)や、隅田川花火大会が開催出来ないほど汚染されていた隅田川を越えると、『臭い』がしなくなると子供の私でも気付くほどの変化だった。
 
そんな時代、東京にも自動車専用道路が作られると、テレビのニュースが伝えていた。
信号も渋滞も路面電車も無く、スムーズに車が走ることが出来る高速道路(当時は『ハイウエー』と片仮名で表記していた)は、アニメの『鉄腕アトム』で手塚治虫さんが描く世界のことと思っていた。そう、未来の話と信じ切っていた。夢の世界のことだった。それが、私が生まれた東京に誕生するのだ。
行かない理由は無い。
子供の頃から自動車が大好きだった私は、車を持っていた父親にねだって乗せて行ってもらった。オリンピックの2年前、1962年のことだ。
高速道路(今の首都高速)に入ると、本当に信号が無く、一気に終点まで行き着いてしまった。途中までは、両側がコンクリートの壁ばかりで『鉄腕アトム』の世界には程遠かった。
それもそうだろう、当初開業した首都高速は、京橋(銀座の端)から芝浦までのわずか5km足らずだったからだ。しかも用地買収を急いだ為、銀座から汐留付近までは高架橋を作らず、川や江戸城の堀を埋めて建設されたのだから、コンクリートだけの景色も当然だった。
それでも子供の私には、ノンストップで走り続けることが可能な高速道路は大変爽快で、12月の寒い時期にもかかわらず車窓を開けてしまったほどだった。『鉄腕アトム』の世界には程遠かったが、路面電車が通っているそれまでの道路よりは、ずいぶんとマシだと思った。
この後、首都高速は、計画通りオリンピック前に羽田空港まで延伸され、訪れた外国人が都心までスムーズに移動することに役立った。
 
一方、国内の観客に対応するのは鉄道だった。
その頃の鉄道は電化されているのが、大都市近郊か東海道本線や山陽本線くらいで、東京でも貨物線などは平気でSLが蒸気だけでなく、黒い煙を吐き出していた。雪の多い東北や信越地方へ向かう列車は、たとえ特急でもディーゼル機関車が精々だった。
東京―大阪間は、何とか日帰りが出来る様になってはいたが、基本的には関東圏外への遠出は、泊りが原則だった時代だ。
 
そこに、最高時速200km、東京―新大阪間が4時間(当時)で結ばれる、新幹線が建設されることとなった。
これは後年調べたことだが、新幹線の着工は、東京オリンピック招致が決定した1959(昭和34)年のことだった。東京―新大阪間とはいえ、わずか5年で新しく複線の鉄道を敷くとは相当な努力が必要だったことだろう。想像を絶する苦労もあったことだろう。
ところが、5年間という短時間で新しい幹線を敷設出来たのは、もっと昔の計画があったかららしいのだ。
その計画とは、1930年代に立てられた『弾丸列車』計画だ。『弾丸』とは何とも時代が出ている命名だが、それでもその時代にもかかわらず『広軌(レール幅)』や『時速200km(蒸気機関車で!)』といった、新幹線に通じる規格で日本列島と大陸をつなごうとする計画だった。
『弾丸列車』計画自体は、太平洋戦争の激化で頓挫してしまったが、途中まで完成いていた線路やトンネルは、東海道・山陽新幹線に転用され生かされたのだ。よって現在、新幹線を不自由なく使っている我々は、戦前の計画の上に乗っかっていることになる訳だ。
 
1964(昭和39)年10月1日午前6時に、『ひかり1号 新大阪行き』は発車した。白黒画面ではあったが、NHKテレビのニュースが生中継をしていた。普段はあまり電車に興味がなかった5歳の私も、何故か早起きして観ていた。
動き出した『ひかり号』は、初期型の『0系』車両で、当時としては流線型でとても格好良く感じられた。
「まるで、フォーミュラカーみたいで速そうだ」
子供心に、何かすごいものが動き出した感じがしていた。連結器を収納する丸いノーズ部分と両サイドに配置されたライトが、人間の顔の様に見えたので、『ひかり号』意思を持って走っている感覚になった。
新幹線はその後、1年と経たずして最高時速が210kmに上げられ、新大阪までの所要時間も、3時間10分に短縮された。それまでの東海道本線の特急『つばめ』や『こだま』からすると、隔世の感があるほど進歩していた訳だ。
同じ『こだま』の名称は使っていたが、『東海道新幹線』という別の冠が掲げられていた。新しい特急ではなく、路線そのものを刷新したという気概が示されていたからだろう。
 
開業当初の新幹線の車両には、客席の見えやすい所に速度計が付いていた。速度が最高時速の210kmに達すると、乗客から拍手が起こったものだった。
その時、車窓から外を見ると、まるで突風に飛ばされた様に景色が後ろに遠ざかっていった。
 
街中では、東京オリンピックの少し前から、『ひかり号』のオモチャがたくさん出回っていた。外箱には単に『ひかり号』だけではなく、『新幹線ひかり号』と表記されていた。中には『超特急ひかり号』としたおもちゃもあった。それに飽き足らず、『夢の超特急』と称した物まで現れた。
僕等にとって210kmのスピードは、まさに夢の世界だった。
 
新幹線に使われた『こだま』と『ひかり』。これは、『音速』と『光速』の意味だ。東海道線の東京大阪間に、もっとも速い列車を持ってくる、国鉄の伝統に則したものでもる。ただ残念なことに、音と光という、考え得る限り最高に速いコンビなのだが、その先のことは考えていなかったみたいだ。
音や光より早いと思われるもの、それは人間自身の内面に存在する、心の動きだけかもしれない。そうなると、そのもっともポジティブなものとして『夢』が考えられる。『夢』の言葉を変えると『希望』になる。『希望』を、訓読みで開くと『のぞみ』となる。
5歳の私が目にした『夢の超特急ひかり号』が、その後『のぞみ号』になって実現した訳だ。
命名者の阿川佐和子さんも、私と同じ気持であったことだろう。
 
光速より速い、子供の頃の『夢』。
『のぞみ号』に乗り込む時、私は今でも、そんな感慨にふけってしまう。

 
 

❏ライタープロフィール:山田 将治 (Shoji Thx Yamada)
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで、調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-04-22 | Posted in 2020に伝えたい1964

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