fbpx
メディアグランプリ

「小説」はじめます。


記事:Sofia(ライティング・ゼミ)

私は長い文章を書くのがとても苦手でした。

今も得意と言えるわけではないですが、いつのまに文章を書けるようになっていたのか自分でもはっきりと思い出せません。

小、中学生のときは、夏休みの宿題である読書感想文がとても苦手でした。
いえ、嫌いでした。夏休み最終日になっても何も書けないので、どうしたものかと毎年頭を悩ませていました。(今も〆切当日まで何も浮かばないのはしばしばですが)
本は読んでいるのに、何も書けない。
自分が読みたい! と思った本ではなかったことも一因でしょう。課題図書というやつです。
400字詰めの原稿用紙2枚が果てしなく遠く感じました。なんとか1枚書いたところで、私にとってはそれが精いっぱい引き伸ばした結果であり、それ以上に書くことが何も思い浮かびませんでした。
おそらく、これ以上余計な美辞麗句を並べたくない。そんな生意気なことを考えていたのだとも思います。

日記も大の苦手で、毎日書いて担任の先生に提出するのですが、内容はだいたいその日に食べたものと、見たテレビ番組の名前を書いていたように記憶しています。
先生も感想に困っただろうなあ、と申し訳ない気持ちでいっぱいです。
長期休みのときは最終日にまとめて書くので、まずはイベントや塾などのあった日から埋め、記憶を絞っても絞っても出てこない日は、1フレーズもしくは創作で乗り切っていました。よく提出できたものだと思います。

また、私は国語のテストが嫌いでした。
選択問題はまだよかったのですが、「登場人物の心情を100字以内で表せ」等の問題は、「そんなの作者が本当はどう思ってたかなんてわからないじゃん。ひとつの答に絞るなんておかしい」と、小学3年生の頃に既に思っていました。
幼稚園児の頃から本を読むことが好きだった私には、よけいに抵抗があったのかもしれません。人それぞれ読み方や感じ方は異なります。模範解答があるのはまだいいとして、教育既定に則った回答と違うからと言って大きくバツをつけるのはちがう。そんなことをするのなら、答えが一つの問題をテストにするべきだ。そう思っていました。
今、指導方法の記載された教師用の教科書を見ても、納得いかないこと山の如しになりそうで、私もまだまだ子どもだな……と反省しきりです。

打って変わって、数学は大好きでした。数学は答えが明確です。
また、余計なことを書くと不正解となります。不正解の理由も明確です。
証明等の問題は、いかに少ない箇条書きの文章と、整理された数式で表現されるか、これに尽きます。問題を解いているとき、ピーン! と公式が浮かぶあの感覚は快感です。
現在、書くネタがなくてうんうん唸っているときに「……みつけた!」となったときのうれし涙の出そうなアレと同じです。
私はこの点においては理系まっしぐらだったので、口頭での説明等もおのずと箇条書きになっていました。
大学在学中の自分のプレゼンも、みなさんに配るA4用紙1枚のレジュメは「シンプルかつインパクト」を心がけていました。それはもう余白が眩しいほどに。
トピックのみを記載し、具体的な内容は一切書きませんでした。
あとは自分の口で実際に説明するのでよく聞いてくれればOKという感覚で、本音を言えばレジュメに時間をかけたくなかったのです。その分いかに話すかに重点を置いていて、出たとこ勝負を楽しんでいた節もありました。質疑応答や会話はナマモノで予想外のことが起こるものなので、ある程度のシミュレーションだけを事前準備としていました。今もそれはあまり変わっていないかもしれません。

そんな私が文章を書くこと、組み立てることが大好きになっています。
なぜでしょうか。

私は自分の頭や心で私的に思っていることを、口語で表現するのが得意ではありません。
特に10代後半~20代前半にかけて、それぞれの考えなどについて話したり深めたりすることが多くなる状況の中、頭に浮かぶイメージが先行して言語化するのが難しかったり、言葉にしたとたんに軽いものになってしまうと感じたり、自分が思っているものと異なって受け止められることを恐れ、ジレンマを感じることが多かったのです。
いっそ、おでこにパカッと開く小窓があって、そこを開いてありのままを映像と音声で見てもらえれば簡単なのに、と本気で思っていました。

そして、自分の思ったことを話すのではなく書くことの方が、私にとって思考と言語の間に乖離が少ないような気がしました。
試しに専用のノートに思いついたことをなんでも書いてみました。1日に何度も書くこともあれば、数ヶ月何も書かないこともありました。
当時書いたことを今読んでみると、恥ずかしいこともあれば、身の引き締まる思いになることもありますが、文章を長く書くのが苦手だった私が、自分の思ったことについてはツラツラととめどなく書けていました。

今ならなんとなくわかるのです。私が読書感想文が苦手だったのも、国語のテストが嫌いだったのも、無意識に「正解」を求め、自分の思ったことを素直に書けていなかったからだということを。本音しか書きたくない、でもわかってもらえるかわからない。空々しいことを書きたくない、でも波風は立てたくない。他者に見せるにあたり、そのような無意識のブロックが働いていました。(今これを書きながら、幼さゆえのエッジが恥ずかしい)

そして、ある時期にふと小説を書いてみようと思いました。
誰にも頼まれていませんが、自分のためにそうしようと腹を括りました。

これまで、自分が小説を書くことは無理だと思っていました。
なぜ無理だと思っていたのか。
それはフィクションを書こうとすると、無意識にかっこつけをしていたからです。また、自分がこのような考えを持っているのだということを知られていいのだろうか、という迷いもあったのだと思います。
小学生のときの読書感想文のときのように、自分の言葉ではない文章。先生から褒められようとした文章。自分で読んでいても面白くない文章。そりゃ書くのもつまんないよな、という文章。

そういった迷いが今、なんとなくはがれ落ちようとしています。
自分が書いていて気持ちの良くない文章を、誰が面白いと思ってくれるでしょうか。

自分の心に描いていることをそのまま、わからないことはわからないことのまま、以前よりは書けているような気がしています。
「フィクションならなおさら、とりあえずは何書いてもいいじゃない」と、そう思えるのに時間がかかってしまいました。

自分を掘り下げながら書く作業は、苦しいことのほうが多いです。
心身の中にあるものをゴボッと出す感覚。渦中にいるときは副作用もつらいです。
けれどそこを通り抜けたときに見られる世界は、今まで見たこともない景色が広がっているであろうと予感しています。
そう思うと、苦しいことも楽しみでしかありません。
何事も考えよう、自分の喜怒哀楽も使いようだなと何度も気が付きながら、目から鱗を落としまくる毎日です。
人生がすべてネタになるなら、とことんやってやろう。
今はそんな気持ちです。

 

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、店主三浦のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。

【通信受講/日本全国対応】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ2.0」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜《この春、大人気ライティング・ゼミが大きく進化します/初回振替講座有/全国通信対応》

 

 

【天狼院書店へのお問い合わせ】

TEL:03-6914-3618

【天狼院公式Facebookページ】 天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。

【天狼院のメルマガのご登録はこちらから】

メルマガ購読・解除

【有料メルマガのご登録はこちらから】

バーナーをクリックしてください。

天狼院への行き方詳細はこちら


2016-06-07 | Posted in メディアグランプリ, 記事

関連記事