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口が裂けても、絶対に言わないと決めた言葉


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記事:諸星 久美さま(ライティング・ゼミ)

「今年の担任誰?」
「○○先生。まぁまぁ、あたりかな」
「い~な~。家なんて○○先生。完全にはずれだよ~」

新学期を迎えた4月。
勤務先の幼稚園で、クラス替えの発表後に、母親たちの間で飛び交うこんな会話を初めて耳にした時は、たいそう驚いたものだった。
私は、子どものクラス担任について、親が「あたり」だの「はずれ」だのと言い合う光景を前に、笑顔で親たちに対応しながらも、胸中では冷ややかな眼差しを向けていた。

大切な我が子の成長期。
その大切な1年を共に過ごすクラス担任が、子どもや親にとって重要な存在であることは理解できるが、これから1年、互いに力を合わせて子育てをしていこうとタッグを組むべき相手を、身勝手に「あたり」「はずれ」と口外するその姿が、醜いものに見えたのだ。

好印象の先生がいれば、そうでない先生もいるのは分かるし、人と人が向き合う以上は、合う、合わないがあるのも分かる。
しかしそれは、個人の見解として心の中に留めるべきで、それが大人のマナーというものだろうと考えていた私は、園庭や、廊下などでそのような会話をする人たちを横目に、ひどく居たたまれない感情を抱いたものだった。

「今年ははずれだ……」
と日々思いながら子どもを送り出す親と、
「早く先生と仲良くなれるといいね~」
と、笑顔で子どもを送り出す親の根底に流れるものは、全く別のものだろう。
そして、そのような日々の積み重ねが子どもに及ぼす影響は、親が軽々しく人を判断するその軽率さとは比にならない重さで、幼き子どもの中に蓄積されると私は思っている。
だから私は、担任を持っている間に、自分が「あたり」だの「はずれ」だのと言われることには全くもって関心を示さなかったけれど、親になった時には、絶対に口が裂けてもそんな醜い言葉は発しない、と心に決めたのだ。

これは地域性の問題もあるかもしれないが、子どもの通う小学校でも、親たちの「あたり」「はずれ」発言は、何度も耳にした。
その度に、人を「はずれ」と断言できるほど、その人はきっと、自分や自分の育児に自信があるのだろうな……と鼻白みながら距離をおき、もし自信があるのなら、「はずれ」だと言う担任の足りない部分は、十分に自分が捕捉できるはずじゃん、と胸中で悪態をついた。

まずもって、担任との出会いは、対親ではなく、対子どもであろう。
だのに、親が情報に翻弄されて評価を下すこと自体、本質からずれまくっているような気がするのだ。
3月になり、その先生と一年過ごした子どもが、「この先生のクラスで良かったな~」とか、「僕はあまり先生とは合わなかったな……」などと、結果からその子が感じたとった感想はあっても良いと思う。
しかし、親の主観的で薄っぺらなレッテルを、新しいクラスへの期待で膨らむ子どもの中に刻みつけることほど残酷なことはないと思うのだ。

「別に~、ママ友との会話の中で『はずれ』って言っただけで~、子どもには聞かせてないからいいじゃな~い」
と反論する人もいるとは思うが、そのような会話の中に身を置いていること自体が健全ではなく、健全でない心は、知らぬ間に日常を蝕むと私は考えている。
そして、子どもは、親の言葉や想いを、親の想像以上に敏感にキャッチしているということも、軽んじてはならないとも思うのだ。

私は、自分の育児が完璧でないということを、何度も、何度も痛感するほど、存分に知っている。
だから、私自身にないものを、学びの場で出会う様々な先生から、子どもたち自身が貰ってきて欲しいと思っている。
無論、子育ての根幹は家庭と思っているので、全てを先生にゆだねる気はなく、先生の全てを、手放しに賞賛する気もなければ、媚を売る気もさらさらない。
度重なる暴言や、体罰など、本能で間違っていると感じることに直面すれば、意見を持って行くことはするだろうし(もちろん1人で)、私自身が先生という立場を経験していることから、それなりに先生側の言い分にも耳を傾けるだろう。
何にしても、私を含め、完璧でない様々な大人たちと向き合う中で、子どもたちが、子どもたちの目線で見たものや感じたものを取捨選択しながら、自分の中で、これは大切にしておきたいと思う、核になるものを育てていって欲しいと考えているのだ。

そして、その中でゆるぎなく伝えてきているものは、
「必ず、自分の目で見てから判断しようね」
ということだ。

親たちの噂話同様に、子どもたちの世界でも、この先生はこうで、あの先生はああだ、なんて噂も飛び交う。
それでも、多くの意見、もしくは発言権を持ちやすい子の意見がそうだからと、自分で見て判断することを放棄して、自分の声に耳を傾けずに安易に流されることほど危険なことはない。
大多数の意見に流されて何かを決断し、その結果が自分の意に反することに繋がった場合、その責めはきっと、簡単にその大多数に転嫁されるだろう。
けれど、自分と対話し、自分の心のままに選びとった先で生じた結果は、例え、その一時良くない結果に転んだとしても、「自分の心で動いた結果だ」と、いずれ納得する場所に落ち着くと思うのだ。
そして、そのように自分と向き合い、自分の目で見て、自分の心で感じて判断することを習慣にして生きていると、自ずと、自分の未熟さにも向き合うことになるので、その未熟さを前に、人の事をあーだ、こーだと言う、陳腐な思考は育ちにくいのではないか? とも夢想している。

また、クラス担任を持った経験からの担任目線で言わせてもらえば、人が人を育てる場に身を置く以上、批判ばかりをちらつかせる親よりも、「お任せしますよ」と言って子どもを預けてくれる親の多いクラスの方が、担任側のパフォーマンスの質が上がるということはあると思っている。
もちろん、プロである以上、どんな親の子でも同等に接するというのは鉄則であるが、人と人が、心と心で向き合う保育、教育の場において、その子どもや担任の心の自由度を広げるのも、狭めるのも、親のスタンスが影響するということは確かだと感じている(ここで言う自由度とは、経験値にも通じる)。

「あんたの担任は、はずれだからね。何かあったら、すぐ言いなよ」
「さぁ、新しい出会いが始まるよ。いっぱい、楽しんでおいで!」

子どもの豊かな心の育成に繋がるか言葉がけとして、この二者のどちらの言葉が良いかは、想像すれば容易く分かることだろう。
私(親)が苦手だと思うことや物や人が、子どもにとってもそうであるとは限らないし、私(親)が苦手だと思う、ことや物や人が、子どもにとって、好きなことや物や、人に転じていくことは素晴らしいことであろう。
そう考えると、子どもの固定観念のない柔軟な心を、どれだけ在るがままの姿で、大人の場所まで運んであげられるか、ということが大切な育児の軸になってくるとも思える。

不満なんて誰の心にもあるし、完全に満たされるということでさえ、その状態が続けば、別の問題が浮上してくることもあるほどに、人はめんどくさい生き物なのだが、そんな、めんどくさくて身勝手な個人が、別の人間を育てるという、無茶苦茶で、でもスペシャルな体験をする以上は、自分よりも、少しでも質の良い、そして心豊かな人に育っていくことを願う気持ちは、親になった誰もが持っていなければならないものだと思うのだ。

子育て14年目にして、いまだ未熟な私であるが、そんな理想は持ち続けていたいと思っている。

 

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2016-06-14 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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