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29歳の6月、突然3週間で父が胃がんで亡くなって医者になろうと思った時のこと


あじさい2

記事:庭瀬亜香さま(ライティングゼミ)

今年もこの季節になった。14年前の梅雨時とはとても思えない真夏のように暑い6月のある日に、父は自分の専門である胃がんを自分自身で見つけてわずか3週間で逝ってしまった。入院前日まで23年間仕事をしていた自分のクリニックに一度も戻ることもなく、大好きだった庭のアジサイも見ることもないままだった。享年62歳だった。

父が自分で自分の胃がんを見つけたのは、5月の連休も明けてしばらくしてからだった。連休に母と2人で上海に旅行に行き、中華料理が美味しくて沢山食べたというお土産話を聞かされていた私には冗談としか思えなかった。しかも、自分の専門である胃がんで、自分でおかしいと思って自分でレントゲンをとって見つけたという。急いで手術はしてみたものの、既にあちこち転移しているスキルス胃がんの末期で、胃の出口の幽門も殆ど閉塞しかかっていた。ベテラン外科医もなすすべもなく、なんとか食べられるようにするための姑息的なバイパス手術をしただけで手術は終わってしまった。父一人で開業していたクリニックは、突然院長不在になり、なんとか友人医師たちが交代できてくれてつないでいたが、いつもは冷静な母も、さすがにわずか数日でかなりやつれてきていた。

「あなたが医者だったらよかったのに。だったら、お父さんの代わりの医者がいたのにね」と、突然母が思いついたように言った。父の手術が終わって数日後だった。今更何を言っているのだろうと思った。10代の頃、父には相当反発して医者には決してなるまいと思っていた。しかも、もう29歳なのに、今更センター試験を受けて6年間医学部に行くなんて考えてもめまいがする、ありえない、と思った。母は「知らなかったの? 最近、学士編入学というのができて、大学を出ているとセンター試験も受けなくてよくて、文系でも受かる学校もあるみたいよ、新聞に出ていたわ」と教えてくれた。

突然、私の中で何かがカチッと符合した。今まで本当の本当に一度も医者になろうなんて考えたことはなかった。いや、正確に言えば、高校時代一瞬考えてみたけれど、でも、やはりあの強烈な父親と同じ職業になって、一生あれこれ言われるのは本当に勘弁だとおもって、医者になることはその時からずっと私の選択肢から完全に消えていた。それなのに、なぜか私の頭と心は何かを訴えていた。ふと母の後ろに視線を向けると、居間の障子戸の向こうで、庭の梅の木の葉が昼下がりの風に揺れてゆらゆらと揺れ、光と影が揺らめいていた。突然、その光と影の向こうに、蜃気楼のように2つのレールが交差しているのを、なぜかはっきりと感じた。今ならあっちのレールに移れる。でも、今を逃したらもうあちらには移れない。突如として、なぜかそのことを鮮明に瞬時に私は理解した。今このままの人生と、医者になった人生が突然交差していた。今なら医者になれる。でも、今を逃すとなれない。乗り移るかどうするのか? 突然、今まで一度も考えたことがなかった医者になるという選択肢が、ものすごい現実感をもって私に迫ってきていた。

疲れたからしばらく休むわという母を尻目に、私は今の自分の見たヴィジョンに打ちのめされていた。今まで相当長いこと完全に否定してきただけに、突如としてでてきたヴィジョンが逆に鮮明過ぎて、無視しようにもできなかった。おもむろにインターネットで医学部学士編入学について調べると、確かに母の言った通り、数年前から大卒者は3年生時に編入できる制度が国立大学でも始まっており、しかも、文系出身でも受かる学校も何校かあった。しかも、願書の受付期間がちょうど調べた5月から6月の時期に集中していた。余りの偶然に驚いた。何かがまたカチッと符合した。レールを移るなら本当に今なのかもしれない。

でも、同時に、自分で自分の考えに愕然とした。今まで完全に否定して生きてきてもう29歳になった今更、医者になるというのか? ようやく夢だったアメリカの大学院留学を終えて、更に夢だった国際機関でしばらく働いて、それなりに将来のヴィジョンを描いていたのに、全く違う医者に今からなるというのか? 自分でも自分の考えに自信がなかった。でも、直感はそうだと強く私に問いかけていた。さすがに1日で決めるには重すぎた。1週間だけ悩もう。そう決めた。徐々に弱っている父を見ていると、そして願書の締め切りを考えると、1週間が限界だった。そして、この1週間で、父が反対しても母が反対しても、心の底から本当に医者になりたいと思ったら、受けよう、そう決めた。それが、今まで一度たりとも私に医者になれと言わなかった父への最低限の礼儀だと思った。

思いつく限りの友人や先輩や恩師に急いで連絡してアドバイスをもらった。法学部の恩師は、法律のバックグラウンドがある医者がいてもいいのではないか、むしろこれからの時代に必要とされるのではないかという好意的なコメントをくれた。コンサルタントの先輩も、決して悪いアイデアではない、29歳の再スタートは人生全体を考えれば遅くはないと思うといってくれた。留学時代の友人も、大学時代の友人も、おおむね賛成だった。親友や幼馴染に至っては、いつかそういうと思っていたと案外冷静で、それに私はびっくりした。当時付き合っていた人も、驚いてはいたが、賛成してくれた。医者になっていた友達だけが反対だった。「かなりきつい仕事だよ、今の専門の方がよっぽどいいと思うからやめておけ」と。私はなるほどと思ったが、もう私の決意は揺らがなかった。

一週間、考えて悩み抜いて、私は決めた。向こうのレールに乗り移れるのなら、乗り移ろうと。不思議だった。あれだけ医者にはなるまいと思っていたのに、なれるかもとおもったら、突然すべてが符合してきた。人に奉仕する仕事であること、専門的な仕事であること、女性でも活躍できること、生涯にわたって仕事できること、自営できること、全てがいきなり前から自分が思い描いていた仕事であることに気が付いてしまった。まるで、今までわざと遠回りをしてきたかのように。

決めたら、まず父には言わないと、と思った。思ったが、なかなか言い出せなかった。手術の後、父は急激に弱っていった。あれだけ話好きだったのに、入院前日まで普通に開業医として仕事をしていたのが嘘のように、殆ど食べることも話すこともできなくなっていった。まだ意識が鮮明なうちに父に話したかったが、医者には絶対にならないと言い張っていた今までのことを考えると、恥ずかしすぎてなかなか言い出せなかった。もしかしたら、今さら何を言うと怒られるかもしれない。面会の度に喉元まででかかって、でも、なかなか言い出せず数日が経っていった。

父は徐々に痛み止めでうつらうつらすることが増えていった。入院して2週間たったある日、そろそろ話せる限界かもしれないとようやく覚悟を決めた。一生後悔するよりはと、2人きりになった瞬間に、思い切って言った。「お父さん、私、医者になる。受かるかわからないけど、医学部の学士編入学試験を受ける」と。父は、それまで半分目を閉じて天井を眺めながらうつらうつらしていたが、突然はっと起きて、何かを見つけたかのように大きな目を見開いて私を見た。そして私の手を取って強く握りながらはっきり言った。「そうか、そうか! 俺の、俺の……」。そのあと父は何も言わなかった。私と父は固く手を握り合い、何も言わず生まれて2人で初めて泣いた。亡くなる1週間前だった。

父の大好きなアジサイが実家の庭でようやく咲きだした6月のある朝、私が徹夜でN大学医学部の願書を書き終えた朝に、母が一人で見守る中で父は静かに息を引き取った。享年62歳だった。

あれからもう14年もたった。気が付いたら、私は医者10年目になった。父のクリニックは今も閉めたままだ。私はあれからまた医者として人間として色々な経験をして、結局、父のクリニックではなく、全く別の地で自分自身のクリニックを作ることにした。

あの日、梅の木の向こうに見えた蜃気楼のレールのヴィジョンは何だったのか、今でも時々不思議に思う。あのとき、レールを移ったことが良かったのか悪かったのか、私にはまだよくわからない。医学部の4年間も、医者としての10年間も、決して楽ではなかった。でも、少なくともこの14年間、専門は違うけれど、父と同じ医学の道を、医者としての人生を歩めて面白かった、と思う。そして、きっとこれからも。

アジサイの咲く14年前の6月、享年62歳で逝った父の命日を偲びつつ。

 

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