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メディアグランプリ

あなたは人殺しになったことがありますか



記事:染宮愛子(ライティング・ゼミ)

 

あなたは『人殺し』に出会ったことがありますか? 命の危険にはさらされずとも、広がった光景を前に「人殺しだ」と思ったことはありませんか?

 

あるんですよ、私。ネタでもギャグでも大げさな表現でもなく、もうマジに、大マジに、「このままじゃみんな殺人犯になっちゃう!」って言ったことがあるんですよ。状況が状況なもんだから、言われた側も笑ってごまかすわけにもいかなくて、もうシーンと静まり返っちゃってですね。一体何人が私の言いたいことを理解してくれたのか、今となっちゃあ、分かったもんじゃないんですけどね。

 

ああ、死体は出てません。ご安心を。ある意味完全犯罪みたいなものなんで。バレなきゃいいんです、バレなきゃ。殺したかどうかは見た人間が決めればいいし、そもそもそれが『殺人』だと思ってる人間がどんだけいるんだって話でしてね。

 

え、話が見えない? そうですよね、一体どんな血なまぐさい話をする気なんだよって思いますよね? でもほら、死にも色々あるじゃないですか。物理的な死に、精神的な死に、社会的な死に。そのどれでもない死の話なんですね、これ。

 

あるんですよ、この世の中には。

物理的でも精神的でも社会的でもない、怪談でもなけりゃ与太話でもない、現実でもなけりゃ空想でもない『死』ってのがあるんですよ。

 

私が話したいのはね、たった一時間の生と死の話。寿命以上に明確に、キッチリハッキリ決められた生涯の話。この世に、この世ならざる存在を召喚する話、なんですよ。

 

ああ、ご安心を。怖い話じゃありませんし、珍しい話でもありません。私もあなたも、いつもいつでも見てますんで。なんならほら、テレビつけてみてください、テレビ。今が夜の8時から11時あたりなら、ちょうど生と死が乱れ飛んでるゴールデンタイムです。

 

――分からない? ではヒントを。

 

あなたが見ているテレビドラマ。あなたが見ている映画。

……そのとき、あなたの前にいるのは『誰』でしょう?

 

エンドロールには『○○役 △△』みたいに流れてきて、それを当たり前のように受け入れてますよね。

じゃあ、そのドラマが展開している間、あなたの前にいるのは『役者』と『登場人物』のどちらでしょう? どちらかだとしたら、その間、もう片方はどこに行っちゃったんでしょう? どこにも行ってなくて、混ざってるんだとしたら、それは一体『誰』なんでしょう?

 

役者だったとしたら、彼らは心にもないことを言って、我々を騙してるんでしょうか?

登場人物だとしたら、役者の魂はどこに行っちゃったんでしょうか?

ハイブリッドだとしたら、彼らを分ける境目って、一体どこなんでしょうか?

 

――『演技』ってのは、一体、なんなんでしょうか?

 

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高校時代、私は演劇部でずっとこの問いを考え続けていました。

演劇とは一体何なのか、演技とは一体何なのか、と。

『芝居の間だけこの世に現れる登場人物たちのために、私たちは何ができるのだろうか』

『たかだか一時間、二時間しかこの世にいられない彼らの命を燃やし尽くすには、どうしたらいいだろうか』

お芝居をしたことがある方ならば想像できるかと思うのですが、芝居というのは『私ではない、別の人間として振舞うこと』です。与えられた状況、人間関係、自分自身のスペックも考え方も喋り方もいつもの自分と違う。違うのに、違和感ではなく自然さを持って受け入れ、行動する。

用意されている台詞、用意されている展開をなぞっていくといえばそれまでです。けれど、声帯を震わせているのは自分。怒りに肩を震わせているのは自分。銃を構えて引き金を引くのも、後ろから殴られてぶっ倒れるのも自分の身体です。

じゃあ、芝居は、演技は『嘘』なのか? 私たちは『嘘』のために演劇をやっているのか? そんなことはない、ないなら、じゃあ、何のために?

高校生といえば考えすぎて一周回って馬鹿になる時代。もとより空想家であった私は、芝居に向き合っていくうちに『芝居は召喚儀式だ』と考えるようになっていきました。

 

芝居とは召喚の儀。芝居が行われている間、役者に憑依する形で登場人物がこの世に現れ、幕が下りると共に闇に帰っていく。役者の殻をかぶるため、登場人物の再現度は役者の技量によって変わる。だから、役者は彼らのために全力を尽くして演技を磨く。

当然、中途半端な演技では召喚に失敗してしまいます。『鋼の錬金術師』でエルリック兄弟がお母さんの練成に失敗したように、誰一人望まない『なにものでもないバケモノ』が生まれかねない。それは間接的に登場人物を殺すことであり、それだけは避けなければならない――

 

だから、私は言ったのです。

「このままでは、みんな人殺しになってしまう」

「登場人物たちを、舞台に呼び出すことができなくなってしまう」

そんなことを真顔で、心から。リハーサルが失敗し、落ち込む後輩たちの前で。ただただ、公演時間しかこの世にいられない登場人物たちのために、彼らのために自分を捧げるかのごとく練習してきた、みんなのために、言ったのです。

 

私の中で、芝居とは生きることであり、死ぬことでもあり、生むことであり、殺すことだったのです。

 

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……まあ、これが高校時代の『青春の思い出』で終わればよかったんですけどね。実際、私は今でもこの答えが出てないんですよ。

今の職業は役者じゃないから、専門的な知識もその世界を極めたがゆえの意見も持ってないですが、だからこそ気になってしょうがない。

あの日演じた登場人物たちは、ちゃんと生きられたのだろうか。彼らは満足してくれただろうか。誰も答えちゃくれないし、満足いく返事なんかどこにもないってわかっちゃいるんですけどね。

 

さらに言えば、最近、出会っちまったんですよね。『LARP』っていう、先の展開を知らないまま、目の前で起こる状況にアドリブで演技、対応し続けていく即興演劇型ゲームに。

このゲーム、シチュエーションはあっても役者に台詞が用意されてない。だから、登場人物としてその場で思いつきで喋るんです。もうね、『ここにいる』のが『自分』なのか『登場人物』なのかわかりゃしない。観客もいないから、周りの目も気にしないでいい。ただただ、『自分』と『登場人物』のすりあわせと、より面白い展開、より面白い会話を作り出すことに集中する。ここまでくると、もう『もうひとつの人生を生きている』も同然。

そんな世界に飛び込んで、再び演技に身を浸して……ますます、わからなくなったんですよ。喋っているのは『私』、行動しているのは『私』。だけどそれは『染宮愛子』ではない。演技ひとつだけで、私は『染宮愛子』から飛び出しちゃうんです。そうして別の『誰か』が生まれて、ゲームの間だけ『生きて』いく。

 

いや。

 

ちょっと怖い話をすれば。

今、こうしてキーボードを叩いている私も、これを読んでいるあなたも、演技かもしれない。演技が『身体に誰かを召喚すること』だとするなら、たまたま長い間召喚されてるだけなのかもしれない。あなたの性格も、行動も、反応も、全部『召喚されちゃっただけ』なのかもしれない。

もっと言えば、自宅で家族に接してるあなたと、会社で同期に接してるあなたの反応って、一致していますか? それは演技ですか?

 

――だから、あなたに聞きたいんです。

あなたは今、『誰』を生きているんでしょうか?

 

 

***
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2016-07-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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