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小学生の時に大流行した「だけん何?」と思考停止の関係


記事:のんさ~ん!(ライティングゼミ)

 

 

本来、人間とは、何も考えたくない生き物なのかもしれない。というか、「考える」という優れた機能を持つのは、人間だけであって、一般に言う犬とか魚などの動物は、本能的にしか生きていない。人間は生命を維持するために、脳がずば抜けて発達したのかもしれないが、本来は人間も自然の一部であり、動物である。その名残で理性と本能の間で葛藤するのであろう。

 

なんだか、らしくないような言葉をつらつらと述べてしまったが、要するに、人間も考える必要がないのなら、何も考えず生きていたいのではないのか? わざわざ、様々な悩みや葛藤をすることで多くのストレスを抱えて生きていくより、ただ流れに身を任せ、何も考えずに生きていくことを望んでいるのではないか?

そう、思ったのである。

 

このことを物語るエピソードがある。

私が幼いころ、確か小学校低学年の時だった。田舎の小学生の中で、一時期流行った言葉がある。

 

それが、「だけん、何?」

 

この言葉の意味は全国に伝わるだろうか?

標準語にすると、「だから、何?」ということになるが、この言葉をクラスのみんながある状況になると、口々に言いだすのである。しかも、だんだんエスカレートしていくと、もう、何が何だかわからないことになってくる。今思うと本当に滑稽である。しかし、当然ながらその時の私は、いたって普通に使っていた言葉なのである。

 

そう、この言葉の正体は、喧嘩した際の挑発的な言葉なのである。

 

Aちゃんがこう言った。

「なんで○○ちゃん、こんなことすると? せんでよ、私、こうなるやん!」

 

いきなりそう言われてちょっとむっとしたBちゃんは、

「だけんな~ん?」

 

な~ん? と伸ばしてAちゃんに挑発するようにこの言葉をすかさず使うのである。

 

Aちゃんもいらだって、

「だけん、こうこうやけんやめてっていいよるったい!」

と言い返す。

 

Bちゃん一言、

「だけん?」

 

Aちゃん、少し涙目になりながら、

「だけん、嫌なものは嫌と! せんでよ!」

 

Bちゃん、全く表情を変えずにまたまた、

「だけん何やん」

 

Aちゃん、耐えきれなくなって、

「だけん何ってだけん何?!」

大きな声でこう言った。

 

Bちゃん、ここでなんと返すのか?!

 

「だけん何ってだけん何?!ってだけん何?」

 

冷静にこう返すBちゃん。もう、唖然とするしかないAちゃん。

 

とまあ、こんな感じの何が何だかわからなくなるような喧嘩を小学生の頃の私は見ていたし、あっ、何ていったらいいかわからなくなったら、こう言い返せば勝てるんだ、みたいな悪知恵を働かせていた時期があったのだ。誰から始まったのかはわからないけど、あっという間にこの「だけん何?」という挑発言葉は小学生の私たちの間に広まった。

 

もちろん私も使った。しかも、家の中でである(笑)

 

母に叱られ、だけん何? さすがに父は怒ると怖いのでごめんなさい(笑)

 

「自分の出したものは、自分で片付けなさい」

と言われ、私は片付けが面倒で、でも言い訳が見当たらなかったのでとっさに

 

「だけん何?」を発射。

 

ここから、想像つくだろうけど、言わなければよかったと思うほどの壮絶なお説教と、泣きながらむきになっての「だけん何?」の連発嵐がはじまった。

 

散々言いあった後、あれ? 「だけん何?」って言っても何も状況は変化しないし、かえって嫌な気持ちになるな、と感じた。

 

と、まあこんなことを私は思い出した。

でも、なぜこんな言葉を小学生たちは発射するようになったのだろう?

そもそも「だけん何?」の効果ってなんだ?

あの、こういえば相手は言い返せないぞ、という挑発的になれる感覚。これって何なんだ?

 

私は、こう考えた。

例えば、喧嘩の最中に「だけん何やん!」と言われたら、返す言葉がなくなってしまう。それは自分がなぜ嫌なのか、なぜ自分がこんな状況になっているのか、自分がそう思う理由をうまく伝えられなくて、すると考えることが面倒になり、思考停止状態になっているのではないか、と。でも、それよりもっと思考停止しているのは、「だけん何?」と言い始めた当の本人である。相手が自分に気持ちをぶつけてきたのに、相手がどう思っているのか、なんで嫌なのか考えようとしていない。そして、相手の言葉に、自分はどう思ったのかさえ伝えることを放棄している。

 

つまり、「だけん何?」という言葉は、挑発するための言葉ではなく、思考停止の印だったのだ。私はこのことに、大人になってからやっと気が付いたのである。

幼かったから、思考停止を示す言葉を使うのは仕方のないことだったのかもしれない。でも、大人になった今の自分はどうであろうか。自分に都合の悪いことを言われると、何らかのもっともらしい理由をつけてごまかしたり、あるいはそうだよね、そうだよねと何も考えずに共感する。これって、「だけん何?」と言っているのとまったく同じことではないか?

 

そう、やっぱり人間は本当は何も考えたくない、思考停止という楽な状態に甘えがちなのかもしれない。

 

でも、考えることが好きな人、自分の気持ちをめんどくさがらず、勇気を持って伝えている人に出会うと、思考停止なんかしてられないと思ってしまう。なぜなら、彼らは自分というものをもっていて、キラキラ輝いているように見えるからだ。そして、自由にもみえる。たとえ自分にとって都合の悪い状況に置かれているとしても。

 

 

そう感じたのにもわけがある。

私が大学で哲学を専攻したとき(専攻したというより、必須科目だったという方が正しい)、例によって、哲学と聞くだけで、訳が分からない言葉ばかりでつまらないものだと思っていたものだから、これは寝てしまう授業だと思っていた。だが、その哲学の先生の授業は、私の想像をはるかに超えて面白かった。

なぜなら、哲学は、難しくなんかなんともないもので、哲学するということは当たり前を疑って考えることなのだと教えてもらったからだ。どんなに偉い哲学者も行っていることはただ一つ。当たり前を疑って考えること。すると、物事の本質が見えてくるのである。「死」とは何か? 「人生」とは何か? 「善」とは何か? 日本人が○○的を多用するのはなぜなのか?

こう考えると、哲学することこそ、「だけん何?」である。哲学に答えなんかないし、考えても考えてもわからないことだってある。そもそも別に考えなくても生きていけることを考えているのだから。

でも、そこには特別な宝石のようなものが見えてくる。なぜなら、今ここで哲学をしていなければ、一生考えることのなかったことを考えることができるのである。つまり、大多数の人が考えないようなことを考えるということであって、考えても意味のないようなことを考えるからこそ、得られる価値観や視点はとても私にとって貴重なものとなったのである。

 

私は哲学を通して、考えることの楽しさを知った。だから、「だけん何?」のもたらす思考停止がどんなにもったいないのかに気づいたのである。

 

 

 

「だけん何?」ではなく、私はこうこうだからこう思うんだよ。あなたはどう思うの?一緒に考えようよ。考えることってとっても素敵なんだよ。見える世界が変わるよ。

 

そんなふうに問いかけられる大人になっていきたい、そう思ったのであった。

 

 

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2016-07-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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