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0.0001%以下の必然


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記事:松岡佐和(ライティング・ゼミ)

 

 

今から約20年前、京都の大学寮に住んでいたわたしは助産院の前を通って通学していました。

 

たまたま大学への道ぞいに助産院があり、たまたまいつもそこを通っていただけだったのですが、

その前を通るたび、大学生だったわたしは自分はいつかその助産院で出産するような気がしていました。

 

まだ大学生で妊娠出産する予定も皆無だったわたしがそのようなことを思っていたのはおかしいことかもしれません。

 

でも中の様子を見たことすらないその助産院の前を通るたび、わたしは幸せな気持ちがして力が湧きました。

 

 

現代日本では98%以上の妊婦が病院や診療所での出産を選ぶそうです。

 

助産院での出産をを選ぶ人は約1%。

 

 

なのになぜ、女子大生の頃のわたしは助産院での出産を夢想していたのでしょう。

 

変わったことが好き、というわたしの性格から来るものもあるかもしれませんが、

日本で出産する98%以上の人が選択するという、

もっとも一般的である病院出産がわたしの選択肢から外された一番の理由は、母の出産体験を聞いたことによります。

 

わたしには双子を含む4人の弟がいます。

 

妊娠出産という、女性にとっての大仕事を4度も経験したということは、

母にとって素晴らしいことであり、誇らしいことであるようでした。

 

母はよくわたしに出産の時の様子を恍惚の表情とともに話してくれました。

 

 

 

「赤ちゃんが出てくる時、お医者さんがはさみで股をチョキーン、と切るのよー、麻酔無しで。」

 

「◯◯が生まれる時、病室に誰もいなくて、看護婦さんを呼んで、もうすぐ生まれそうと言っても信じてくれなくて。

腹が立って腹が立って、このやろーと思って思いっきりいきんだら出てきたから、看護婦さんあわてて飛んできた」

 

「その時、奥の方が破れたから縫った」

 

「産後に若いお医者さんが回診に来た時、何も言わずにわたしの服をめくり上げて股を見たから「えーーー!?」と言ったらお医者さんは「すみません」と言って真っ赤になった」

 

などなど。

 

 

ちょちょちょ、ちょっとおかあさん?

 

 

嬉しそうに話してますけど、

わたしはそんなの最悪って思う。

 

何その医者。

 

楽しくなんかないよ。

 

 

わたしが嫌そうにそう言うと、

楽しそうに話していた母はちょっと自信をなくして傷ついたような表情を見せました。

 

 

そんな母の様子をよそにわたしは思いました。

 

ハサミで股を切られるって……。

「そんな恐ろしいこと……想像しただけで……ありえない!!!」

 

 

実際は出産時に麻酔無しでパチンと会陰切開されても、より強烈な陣痛のおかげで痛みを感じないらしいんですが、

 

でもそんなデリケートな部分をハサミで切ったり針で縫ったりって、ものすごく恐ろしいし

わたしは絶対嫌だ、と、

母の話を聞いたわたしはその時、固く決意してしまいました。

 

 

そしてどこで聞いたか、助産院での出産では会陰切開はないらしい、なにそれ最高!

 

……ということで必然的に、わたしの中での出産は助産院一択となりました。

 

 

そうして月日が流れること約10年。

 

横浜での最初の結婚後にあっというまに妊娠したわたしは、

水中出産で有名だった、今はもうない神奈川の某有名助産院で出産することに決めました。

 

暖かな雰囲気、親身になってくれて、頼りがいのありそうな助産師さん。

産後も一週間上げ膳据え膳でマッサージをしてくれるらしく。

完ぺき。

 

この助産院に妊婦として関われるのが嬉しくて、当時のだんなさんを伴って、うきうきと母親学級に通いました。

妊婦という資格を得て、ずっと夢に見ていた新しい世界への扉が開いたかような面白い気分でした。

 

 

しかし、

助産院が出産を扱うためには緊急時の搬送先として受け入れてくれる病院との提携が必要です。

 

わたしが妊娠初期にクラクラとめまいがして不安になった時、

それを助産師さんに言うと、提携病院での血液検査を勧められました。

 

勧められるままに病院へ行き、そこで出会った若いお医者さんに反抗的とみなされたわたしは

「ちゃんと検診を受けてくださいね。そういう人に限って子供が障害を持って生まれる」

といわれ、なにこの医者!? と、びっくり仰天しました。

 

わたしはその時めまいがしていて、少し出血もあったのでとても不安だったのと、

貧血を調べるための単なる血液検査のつもりで診察を受けに来たので、

まったく心の準備のない状態で、言われるがままに下着を脱いで足を開き、内診を受けました。

 

病院での内診はわたしは生まれて初めてだったのですごくショックを受け、

当時の妊婦のわたしよりも若そうな男のお医者さんの態度はぞんざいに感じられ、

 

乱暴に(と、わたしには感じられた)突っ込まれた器具が痛くて嫌悪感を感じ、

これで胎児が流れてしまうのではないかとさらに不安がつのり、

 

モニターに映し出された胎児も侵入してきた器具を嫌がって恐怖を感じているように思え、

 

だからお医者さんにモニターに映し出された胎児の写真を購入するかと聞かれても、

わたしは楽しい気持ちには到底なれなくて

 

「いりません」

と答えました。

 

すると、それらのわたしの態度が反抗的と思われたのか、

「そういう人に限って子供が障害を持って生まれる」と言われました。

 

 

そのような相性の悪い医師に股に器具を突っ込まれたわたしは、まるでレイプを受けたかのような悲惨な気分になってしまい、

病院の近くの海に行き、慟哭してオイオイ泣きました。

当時の夫はなすすべもなく、そんなわたしの横に立ちすくんでいました。

 

あの病院に関わってたらきっと流産する、と思い込んだわたしは

楽しみでしょうがなかった助産院に行くのもそれ以来きっぱりとやめてしまいました。

 

そうしてわたしは壁ぎわに追い詰められた獣のような心境で、

98%以上でもなく、次の1%でもなく、

医療関係者には存在自体がタブーである、その次の1%以下の妊婦となりました。

 

 

つまり自分たちだけで勝手に風呂で産みました。

 

 

丸々とした新生児は横浜の高台のマンションの風呂の湯の中に滑り出て、

ザバッと空中に抱え上げられた時には、うあうあと小さくつぶやいて、

 

ここはどこかな?

 

と薄暗い浴室の天井の方を不思議そうにぼんやりながめていました。

 

わたしはまだ出ない乳を新生児の口に含ませ、風呂の湯の中でしばらく抱きました。

その後、臍の緒で繋がったままのわたしと新生児は風呂から出て、

 

ヨボヨボとおぼつかない足取りで、バスルーム横のリビングへ這うように移動しました。

 

体を拭かれ、へその緒を切られ、服を着せられて一個の人間になった新生児は、そこでようやく大声で泣きました。

 

その時まで彼は胎内からの分離を自覚せず、泣く理由がなかったのだろうと思います。

 

 

わたしは病院で最後に見た1.2ミリの丸く米つぶみたいだった胎児の芽が

数ヶ月間ブラックボックスと化したわたしの腹の中でどんどん育ち、

次に出現した時には細部に至るまで作り込まれた完成品の人間であったことにすごく驚きました。

 

これだけは言える。

「こんなすみずみまで、わたしは作ってない!」

 

 

 

 

そしてさらに12年の月日が流れ、

 

長野でまた結婚したわたしは、また、あっという間に妊娠しました。

 

そして新たに長野の安曇野でかかることにした助産院は

今から約20年前、京都の街でわたしが大学への道すがら前を通り、憧れていた助産院と同じ名をしていました。

 

その偶然に、

「20年前からわたしが出産すると感じていた助産院は、これだったんだ」と思え、

20年の歳月をかけて目的地にたどり着いた心地がしました。

 

わたしは現代日本の98%以上にあたる、

病院出産のカテゴリーに自分を入れる選択はもう最初から持っていなかったけれど、

 

12年ぶりの妊婦として検診を受けた長野の提携病院での診察は

予想以上に楽しめるものでした。

 

流れた年月はわたしの心身をゆるめ、

わたしにとっての病院をアミューズメントパークのアトラクションような印象にしてくれていました。

胎児の写真は毎回もらい、4Dエコーとやらも受けました。

 

12年ぶりの妊婦の腹の中はブラックボックスどころか、4Dエコーで胎児の顔立ちまではっきり確認でき、

想像の余地はほとんど残されていませんでした。

 

わたしによく似て鼻が低いのが明らかに確認できたので、顔立ちに関する希望はすっかり失いましたが、

でもそれはそれで楽しいものでした。

 

 

 

ところが最終的には、今回わたしはインドで出産しました。

長野ではひどいつわりで心身ともに参ってやせ細っていたのが、

妊娠5ヶ月の時に、夏休み中の上の息子を連れてインドに遊びに行くとぴたりとなくなったので、インドで出産することにしたのです。

 

出産予定日は1月だったので、冬に長野にいると家に引きこもって確実に運動不足になりますが、

その頃のインドは1年で一番過ごしやすい気候なので毎日5キロは歩き回れるし、

何より面白おかしいインドにもっとゆっくりいたくなりました。

 

つまり2度目のわたしの出産はまた、病院出産の98%以上と助産院出産の1%の陰で語られない、残りの1%以下の出産となりました。

 

しかし前回と違うのは、今度は助産院にも提携病院にもインドで出産する旨を伝え、

インドに行ってから定期検診に通った現地の病院にも、インドの自宅で出産することを伝えてありました。

出産現場にいたのはわたしたち夫婦だけでしたが、わたしは何も誰も切り捨てずに済み、みんなが応援してくれました。

 

 

インドで借りた部屋のベッドの脇に、引き締まった小さめの赤ちゃんは、簡単に出てきました。

 

受け止めるのが間に合わず、

床に敷いてあった柔らかいマットの上にぼとりと落ちた赤ちゃんは、すぐにギャーと大声で泣きました。

おかげで息をしているかなどと心配する暇もありませんでした。

 

産後はそのまま2ヶ月インドにいて、上げ膳据え膳で今のだんなさんの世話になりました。

とはいっても徒歩5分の西洋人向けの食堂から、色んなご飯を一食200〜300円ほどで持ってきてもらうだけなので簡単です。

洗濯も一枚15円で外注です。

 

一日2回、部屋の外から神々を讃える音楽やヴェーダ吟唱が流れてくるのを楽しみ、

 

現地のたくさんの友人知人に祝福され、とても幸福な産後となりました。

 

 

 

インドで夫婦だけで出産とかって、

どうしてそういう奇抜なことになったのか自分でもよくわかりません。

 

インドではまだ自宅出産も多いだろうと思っていましたが、実際は違いました。

今どきはインド人も病院出産がほとんどで、帝王切開率も高くなっています。

自宅で産む場合も、10人くらいの親類縁者の女性が産婦を囲んで応援するそうです。

 

なので今回の私たちのような夫婦のみでの自宅出産は、現代インド人もびっくりの、稀なケースでした。

 

 

 

しかし、案外人生に選択肢は、有るように見えて無いのかな思います。

 

プロセスにおいていくらその人が迷ったとしても、すべては最初からすでに決まっているのではないかな思います。

 

自分で選んだ人生を生きているような気持ちに私たちはなるけれど。

人生には山あり谷ありのドラマが次々起こるように思えるけれど。

 

 

だって、わたしが逐一チェックをしていても、していなくても、

胎児はすみずみまでその子が育つように育ちます。

 

 

98%以上の病院出産でも、1%の助産院出産でもない、残りの表立って語られることのない1%以下の出産。

 

しかしそれがたとえ0.0001%でも、

そこに何度も吸い寄せられるわたしにとっては、それはもはや100%以上のものです。

 

 

 

わたしの人生にもいろいろなことが起こり、

上の子が9歳の時に自分と離ればなれになってしまった時などは、大変な悲劇のように感じました。

 

4Dエコーは正しくて、今年1月に生まれた下の子の鼻はしっかり低かったです。

 

 

10数年の間にわたしのだんなさんは入れ替わり、住む国も場所もころころ変わりました。

 

 

何もかもが変化し続けてきたように思えるけれど、

そしてこれからもわたしは異なった光景を見続けていくのだろうけれど、

 

それについてわたしが何を思おうと、どう感じようと、それとは関係なく、

実のところ、全ては予定通りのことがただ、展開しているのではないでしょうか。

 

 

「これ、こんなにすみずみまでできている。わたしが作ったんじゃないのは確実だ」

 

10数年前、最初の子が出てきた瞬間にそう感じました。

 

 

自分の人生は本当に自分の人生なのかと考えてみると、

 

非常に少数派である助産院出産に20年も憧れていたわたしの希望と予想を超えて

さらにわずかなケースである夫婦での自力出産(それぞれ父親は違います)に2回導かれたそのことからも、

全ての瞬間は、人の個人的な意図とは無関係の、強烈な必然の内に在るように思えてなりません。

 

他人と比較するためのパーセンテージは意味がなく、

全ての人にとってその人の人生は、どんな人生でも100%以上それでしかありえません。

 

 

 

わたしが京都であこがれ、長野で通った同じ名をした2つの別の助産院のように、

ときに人生には同じ要素が繰り返し現れもします。

 

過去と未来はどこかでそのように繋がっていて、

父親の違う上の子と下の子もわたしのDNAを通してつながっていて、

完全に単独のものは何もありません。

 

この世界は実は全てが織り込み済みの一枚の布のように

最初っからすみずみまで出来上がっている出来レースなのではないかとよく思います。

 

今も人生のあちこちに散りばめられた伏線は、わたしの努力や意図とは関係なく、

人生そのものによって着々と拾い集められつつあるように思います。

全てが凝縮される、ある一点に向けて。

 

わたしが何かをしなくても、

胎児がその子として完成し、人間となってこの世界に生まれてくるからには、

 

各々の人生の、プロセス自身の英知は100%信頼に足るもので、

 

私たちはこのブラックボックスのような人生に、

胎児のように安心して瞑想し、この身を委ねていてよいのだと思います。

 

むしろ人生はわたしたちからの、100%の信頼以外を拒むでしょう。

 

 

人生への信頼の結果、生まれた子の鼻が多少低かったとしても、

その鼻は、

わたしの母が会陰を切開して、わたしと4人の弟たちを出産した40年前よりもはるか昔から、

世界の愛を集めて100%受けいれるためのものとして、低く完成されていたのでしょう。

 

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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2016-08-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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