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メディアグランプリ

やっぱり紙の本が好き


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記事:村井 武 (ライティング・ゼミ)

 

「こち亀」こと「こちら葛飾区亀有公園前派出所」がついに最終回を迎えた。単行本で200巻になるという。

 

私も結構なファンで、単行本は出るたびに買って100巻までは全部そろえて実家に置いてある。できるものなら200巻一気読みしたいと思うものの、とりあえず100巻を読むために実家に帰るのもたいへんだし、今住んでいる東京で200巻全部を買いなおすのも、費用と置き場所を考えると現実的ではない。(実行しているツワモノもきっといるとは思うけれども。)

 

費用の点を措くと、置き場所については、電子書籍で入手すれば殆ど解決できる。便利な時代になったものだ。

 

電子書籍にはあれこれとメリットがある。紙の本よりはいくらか安い。デバイスは場所をとらない。それ自体は重さがないので持ち運びに便利。いろんな企業や業界がアプローチを変えつつ参入を試みていることには理由があるのだろう。

 

電子化された書籍には、出版社が電子書籍として用意している出来合いのものと、個人が紙の本を電子化するいわゆる自炊ものとがある。

 

私の場合、電子化された書籍とのつきあいは、自炊から始まった。

 

私の蔵書は、個人のそれとしては少なくはない方だろうと思う。十年に一度くらい「本の重さで床だの天井だのが抜ける」というニュースが面白ネタ的に流れてくる。廊下に積んだ本が崩れトイレの扉をふさぎ、トイレから出られなくなった事件を素材にした読み物を目にした記憶もある。そんな話が他人事とは思えない。

 

大手建設会社で住宅営業をしていた知人に家の蔵書を見せて「ここ鉄筋マンションだから、床が抜けるってことはないですよね。へへへ」と冗談半分に聞いてみたことがある。「ははは。調べてみますわ」と言ったその人はしばらくたって「ごめんなさい。はっきりしたことは言えないようです」という答をくれた。床、抜けるかもしれない?

 

東日本大震災のとき職場で夜を過ごし、都内の自宅に帰宅すると天井近くの本棚が半分飛び出していた。「あれに頭を直撃されていたら死んでいたな」とぞっとして蔵書の整理を始めた。

 

本を処分するというのは心痛む作業だ。特に専門書の類はないと困るから捨てたり売ったりはできない。しかし、重くて地震のときにリスク要因となるのはこういう本だ。思い悩んだ挙句に「自炊」することにした。

 

紙の本の背表紙を裁断機で断裁し、ばらばらになった頁をスキャナーに読ませてタブレットに収録してディスプレイで読む。これなら本の内容を維持しながら蔵書を減らせる。

 

さっそく一冊数千円で買った専門書を連日Kinko’sに持ち込んで背表紙を断ち切ってもらった。初めは一冊百円だった作業料。連日厚い専門書を持ちこむ私のせいではないと思うが、ひと月くらい経った頃から「これかからは、本の厚さ一センチごとに百円とさせて頂きます」と言われた。

 

百冊近い専門書が紙の束に変じた。さて、スキャンに移るかと思って、改めて「元」書籍たちの姿を見て

「あぁ、失敗した」

と思った。

 

背表紙から切り離された頁たち。命を失っているのだ。根っこから抜かれた植物のように。紙の本は、紙の本として命を与えられている。背表紙を取り払った紙の束は、もはや本ではない。

情報はそのままそこに残っているから専門書の機能は失われていないのだが、本としての命は失われている。百冊の本の遺骸を前に、申し訳ない、という気持ちがこみ上げた。

 

心情の問題としてもう本を断裁、自炊するのは、やめようと思った。

 

本たちに詫びを言いながら、スキャンを始めた。少なくとも一万頁を超える紙のスキャン作業。修行のようだった。これもワリに合わない。

 

数週間かけて百冊の本をスキャンし、タブレットに収納した。

 

ここでも思い違いがあったことに気づく。専門書というのは、一冊を通読することはそんなに多くない。資料として使ったり、他の本と突き合わせて検討したり、クロスリファレンスが必要なのだ。そのためには、複数の本を同時に開く必要がある。一冊の本にたくさん付箋をつけて、ばっさばっさめくりながら調べ物をすることも度々だ。

 

ところが、自炊してしまった複数の本を一台のタブレットの限られた大きさのディスプレイ上で同時に開き、気軽に見比べることはできない。いちいちファイルを閉じて別の本のファイルを開いて……という作業を繰り返さなければならない。調べものの効率が著しく落ちてしまった。

 

さらにスキャンが終わった頁を捨てることもためらわれたので、勤務先で「本の頁あげます」と呼びかけた。多くの同僚が輪ゴムで括られた「頁の束」を見に来たが、命を失った様を見て

「ぁ……、ちょっとこれは結構です」

しおれた頁たちの引き取り手は殆ど現れなかった。

 

かくして、お手製電子書籍である自炊について、私の意見は極めてネガティブなものとなった。

 

では、プロが作った出来あいの電子書籍はどうか。Kindleはアメリカから取り寄せて使い始めた。新しい本の形態には興味津津だったのでとりあえずコンテンツは洋書だけだが試してみたかった。手元に届いたKindle。既に自分の名前が入りカスタマイズされていることや日本でも3G回線につながっていることに感激したのも束の間、やはりここでも悩みにつきあたる。

 

始めから電子ファイルとして用意されている電子書籍だから、「命」の問題や作業の手間の問題は感じない。

 

老眼が来ている目には、フォントの大きさを変えられるのもありがたい。さらに、アンダーラインやブックマークの機能も嬉しい。辞書も大歓迎だ。

 

しかし、形のなさが課題となった。私は本を読むとき、どこにどんなことが書かれているかを

「本の、このあたりのページの、右のページの上の段のこの辺」

と位置記憶で覚えている。

 

「厚さ」と言う情報のない電子書籍では、「あれはこの辺に書いてあった」と頁に指をひっかけてあたりをつけることができない。ディスプレイの下とか上に「今読んでいるのは全体の頁のこの辺です」と示すナビゲータみたいなものは付いているがあれは頁数をイメージ化したようなもので厚さから得られる位置情報とは違うのだ。

 

また、フォントの大きさをいじれるばかりに、毎回「見やすい」大きさに調整する癖がついてしまったが、フォントをいじると頁、本全体のフォーマットも変わり固定した位置情報が得られなくなってしまった。「あの辺に書いてあった」情報として決め打ちできないのだ。

 

もちろん、検索機能は充実しているので関連語で検索すれば、「そこ」を見つけることはできる。しかし、これは私の読書スタイルに変革を迫るものだった。

 

期待とちょっと違うな。せっかく入手したKindle初代機。ごく短期間で埃をかぶることになった。端末は私用にカスタマイズされ、私のamazonアカウントと結びついているから譲ることもできない。

 

ついでに、少なくともこのスタイルの電子書籍だと「本を贈る」楽しみもなさそうだな、ともぼんやり思った。

 

自分の本棚を眺めると、好きな本ほど「ボロボロ」になっている。これは専門書(にも「好きなもの」はあるけれど)より、文芸書に多い。背表紙から本全体が複数に割れてしまい、紙とセロテープでつないだ本もある。文庫本なら安いものなので買いかえればいいのだが、思い出が消えて行くようでなかなかそうもいかない。昭和の文庫本だと値段が「120円」なんていうのもあって、その数字も思い出を惹起するトリガーになっている。

 

あぁ、やっぱり紙という有体物に物語が、活字が乗っているのって捨てがたい。

 

所詮、紙世代のノスタルジーかもしれない。デジタル・ネイティブ世代にはこんな感傷は無縁なのかとも思う。

 

1980年代にワープロがオフィスに入ってきたとき、すごく乱暴に言うと私の周りの当時40歳以上の世代は「こんなもの清書用の機械だ」と言って自分では触ろうとしなかった。手書きの原稿をアシスタントにワープロで打たせていたのだ。それより下の世代ではたちまちキーボードを打つことが「書くこと」の意味として取り込まれた。私たちの世代は10本の指でQWERTYキーボードを打ちながら、書き・考える。

さらに私たちより下の世代は、ポケベルでメッセージを送りあうために公衆電話の数字キーを打ちながらものを考え、ガラケーのキーボードを親指で押しながら文章をつくり、さらに今の大学生はフリック入力で論文・エッセイを書くという。思考を親指の平面上の動きによって表現できるのだろう。

 

テクノロジーは人の読み書き・思考を容易に変えうるのだ。だから、電子書籍はどうもなぁ、と言っている私が時代においていかれるのかもしれない。(時の流れに食らいつき、置いて行かれなかったのが「年甲斐もなく」という言葉を知らない「こち亀」の両さんだ! )

 

こんな課題、問題もいずれ技術が解決し、最後に残るのは私の心情的な抵抗だけ、という日も来るのかもしれない。パラダイム・チェンジというのは古い世代がこの世から消えた時に起きるという。

 

しかし、本については少し事情が異なるかもしれない。一見最新鋭のメディアに見える電子書籍、これが10年先、いや5年先でさえ、この形で維持されるとは限らない。

 

他方、なんだかんだと言って、紙は百年、千年の時を超えて情報を伝えてきた実績のあるメディア、媒体なのだ。

 

わずか数年前に入手した私の初代Kindleはバッテリーがあがり、アカウントとの接続ができなくなり、そこで入手したコンテンツをどう取り出してよいのかわからない状態になってしまった。

 

タブレット、カードメディア、あるいはクラウド上に貯めている各種の記録、書籍も、それを支える記録メディアの進歩と古いメディアの経年劣化(それは、ある意味紙より速く、不可逆だ)やサービス、サポート打ち切りにより、使いものにならなくなることも容易に想定できる。

 

もちろん紙についても、使われている化学薬品のせいで劣化が激しいとか固有の問題は抱えているけれども、媒体としては極めてシンプル。

 

これからも電子書籍は進化し、新しい電子ペーパーを含め媒体技術が生まれていくだろう。でも大きな目で見ると古いテクノロジーの成果である紙は、大きな変化と無縁のところにいる分、変化に強いのではないかしら、と思っている。

 

そして、私は何より、命を感じられる紙の本の手触りと匂いが好きなので、紙の本を買い、置き場に悩みつつ、読み続けることはやめられないだろうな、と思っている。紙フェチなのだろう。

 

さて、200巻のこち亀をどう読むかについては、まだうじうじ悩みます。背表紙を並べると両さんの絵になっていたりするので、紙でどーんと並べてもみたいけど、場所はないし……。

 

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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2016-10-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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