メディアグランプリ

ロボット掃除機を手放したら、毎日がきれいになった

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記事:大森ちはるさま(ライティング・ゼミ)

ああ、また落ちてる……。
わたしは心の中でぼやいた。
髪の毛である。
リビングの床に、わたしのものか娘のか、黒くて長い髪の毛が1本横たわっている。
見渡せば、あそこにも1本、その向こうにもまた1本。
一度気になると、嫌でも目が捉えてしまう。
クリーム色のフローリングに、黒色のそれは映えるのだ。

少し前までは、なかったことにできていた。
見なかったふり。
気づかなかったふり。
1日我慢すれば、翌日、あの子――某社のロボット掃除機――が吸い取ってくれたから。

色白でまんまるのあの子は、とても働き者だった。
まだ夫とわたしの2人暮らしだった頃から7年間、我が家のキレイを護ってくれた。
毎週月・水・金曜日、出かけしなにスタートボタンを押す。
あの子は、トラックがそうするように、ピーピーピーとブザーを鳴らしてバックで充電ステーションを出る。
数十cm下がったところでピタッと止まり、その場で方向転換。
方向転換と同時にゴミかき集め用のブラシをブィーンと回し始め、いざ発進。
曲がったことは大嫌い。
どこかにぶつかるまで直進するひたむきさと、ぶつかる直前にスピードを弛める賢さを持っていた。
ぶつかった後の方向転換も、右向け右、左向け左ばかりではない。
右向けちょっと右、左向け大舵いっぱい、などのバラエティに富んだ技を場面場面で使い分けていた。

それが、この夏。
あの子は、部屋中を回りきる前に力尽きるようになってしまった。
帰宅してリビングに入るなり目につく、床に落ちたままの髪の毛。
あるときはリビングのど真ん中で、あるときはダイニングテーブルの下で、またあるときはソファーの脇に隠れるようにして立ちすくんでいる、あの子。
バッテリーは、去年交換したばかりだ。
ネットで調べて、ブラシの掃除、ロボットたるところのリセット、充電方法の試行錯誤など、手を施した。
それでも、あの子の体力は戻らない。
だましだまし掃除を続けてもらっているうちに、ある朝、スタートボタンを入れてから3分を待たずして、シャットダウンした。
ベートーベンの「運命」を思わせる世にも哀しいブザー音とともに、「わたしを充電してください」と乾いたひと言を残して。
初めてではなかった。
初めてではなかったが、試行錯誤の甲斐なく、3日連続だった。
ついに、あかんか。
さあ家を出ようと、朝日が射す玄関で靴を履いていたときにその声が聞こえ、1日分の意気がすっかり散った。
いとかなし。
たかが5文字、されど5文字の喪失感が、代わりに身体に充満した。
今まで、ほんとうに、どうもありがとう。

ああ、落ちてる……。
朝のあの時点でわかっていたことだけれど、ぼやかずにはいられない。
夕方、保育園児の3歳の娘と、これから晩ごはんと化す食材たちと帰宅したわたしは、床のあちらこちらに落ちたままの髪の毛を目にして、うなだれた。

「んーばさん(娘がつけたあの子の愛称)、今日はこんなところにおったー!」
もはや恒例となっていた、帰宅後の娘とあの子の、かくれんぼ。
そうか、この子は朝、わたしより先に公園――子どもの足でも玄関から10歩で着く――に駆け出していたから、最期の声を聞いてないのか。
例によって、電車の時刻が差し迫る中てんやわんやで保育園に向かったので、伝えそびれていた。
朝の顛末と、もうあの子に床掃除を頼めなくなったことを話した。
そして、これからは、おかーさんが掃除をがんばることも。

あの子の後継は、しばらく迎えないことにした。
我が家のお財布は、「じゃあ、買い替えようか」とポンと諭吉氏を4人も5人も10人も出せるほど裕福ではない。
家にほかに掃除用具がないわけでもない。
D社の月額制フロアモップと、業務用で定評のあるM社のコードレス掃除機(の家庭用モデル)。
市販のフロアワイパーと、自作の精油入りアルコールスプレー。

そもそも、我が家は市街地によくある、駐車場がビルトインになっている3階建ての一戸建てである。
2階がまるごとLDK。
その2階でしか、あの子を活用できていなかった。
階段2ヶ所、トイレ2ヶ所、1階と3階の全部は、今までもこのメンツ――フロアモップとフロアワイパー――でやってきた。
階段の段差とトイレの狭さは、あの子の専門外。
1階と3階は、階段掃除のついでに掃除すれば済む程度にしか使っていない。
寝るときとお風呂に入るとき以外は、家族3人ともほとんど2階に生息している。
聞くところによると、人は毎日、50~100本の髪の毛が抜けると云う。
そりゃあ、LDKの床に髪の毛がよく落ちているわけだ。夫のすね毛も。

試しに、LDKをフロアモップとフロアワイパーで掃除してみた。
(四角いところをまるく)モップがけして、モップから払い落としたゴミをコードレス掃除機で吸う。
(同じく四角いところにまるく)アルコールスプレーをかけて、かけたそばからワイパーで拭く。
それぞれ5分もかからなかった。

あれ? そんなものなの?
拍子抜けした。
そのたった5分を節約するために、今まであの子にご足労願っていたのか。
その5分の捻出が惜しいほど、ぎゅうぎゅう詰めの暮らしを送っている……のか?

「四角いところを四角く」は余裕があるときにすればいいと割り切って、モップの日とワイパーの日を毎日交互にもってくることにした。
床に落ちている髪の毛は、朝晩を問わず、目についたときにコードレス掃除機でちゃちゃっと吸うことにした。
思い立った時に掃除機をワンアクションで取り出せるように、出すのも戻すのも「うんとこしょ」という気を起こさずに済ませるべく、台所脇の隙間に立て掛けていたのを、壁にフックをつけて引っ掛けるかたちにした。
このルーティンを始めて2ヶ月、今のところまったく苦を感じてはいない。

むしろ、毎日そこそこ床がきれいなことで、気分がいい。

ああ、落ちてる……。
そうぼやきつつ、「明日あの子が吸ってくれるから」と見て見ぬふりをすることは、意外とストレスをもたらしていたのだな、と気がついた。
解釈した内容と知覚した情報がずれるから。
だったら、ズレの頻度を減らした方が、その場でちゃちゃっと解消した方が、穏やかな気分になれる。
脳みそって、不器用というか、たやすいというか。
「ああ……」から始まる憂いや煩わしさを、溜めない。
こまめなリセットで、「ご機嫌」はつくれるのだ。

毎朝5分の床掃除。
台所しごとや身支度、娘の世話が立て込む中での5分は、たしかに貴重である。
でも、それで自らを「ご機嫌」にできるなら、惜しくない。
いや、惜しまずにいたいな、と願う。

 

***
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2016-10-12 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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