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プロフェッショナル・ゼミ

キュレーションサイトが炎上していても、キュレーターのことは嫌いにならないようにしようと思ったこと《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:村井 武 (プロフェッショナル・ゼミ)

「キュレーションサイトはインチキばかり!」

そんなセリフがネット上を流れていくのを見るようになった。昨今ネット上で、キュレーションサイトが炎上している、という。

運営会社の幹部が説明のための会見を開いたり、「本当の責任者は雲隠れしている」という言説が飛び交ったり、「キュレーションなんてパクリだって最初からわかってたよ」みたいな罵声が投げかけられたり。

なんだか荒れているけど、そもそもキュレーションサイトって何だっけ。

手っ取り早く、ネット上の辞書をひいてみる。WeblioのIT用語辞典が出てきた。なんだかカタカナが並んでいて、わかりにくい。ルー語か。

「キュレーションサイト
キュレーションによって情報を人手でまとめて提供している(キュレーションサービスを提供する)Webサイトの総称である。(以下略)」

正しいんだろうけど、意味わからない。「キュレーション」を見よ、ってところか。始まりましたよ、辞書にはよくある意味・定義の堂々巡り。辞書を読むのは苦にならないので、キュレーションサービスをひいてみましょう。ネット辞書なのでクリックでひと飛び。同じくWeblioのIT用語辞典から。こっちはさらに長いな。

「キュレーションサービス 別名:キュレーティングサービス
【英】curating service, curation service
キュレーションサービスとは、キュレーションによって情報をまとめ、共有するサービスの総称である。
「キュレーション」(curation)は、web上のコンテンツを特定のテーマに沿って人手で集め、それによって新たな価値を生み出すといった意味合いで用いられる用語である。キュレーションサービスにおいて情報の収集や編集を行なうユーザーは「キュレーター」と呼ばれることもある。なお、「キュレーター」は元々は「学芸員」を指す英語である。」

なんとなく見えてきた。ネット上のコンテンツを人手で集めていたのがキュレーションサイトで、そこで収集されたコンテンツの内容だったり、権利の取り扱いだったりが、問題だということで運営にあれこれ疑問が向けられている、ということでよろしいでしょうか。

でも、キュレーション、キュレーターって、元々そんな意味で使われてたっけ。さっき見た説明の最後に付け加えてあったように、これはネットでの文脈で限定された用法だよな。

記憶を辿ると、初めてキュレーターという言葉に触れたのは、社会人大学院に通っていたときだった。当時、同じ専攻で学んでいた美術好きの人が美術の世界における鑑定に伴う責任という新しくて、面白そうなテーマを研究していた。くだけていうと鑑定団番組に出てくるような目利きの皆さんが、モノの価値を見誤って、高い値段を付けたり、逆に安く見積もったりしてしまったときに、どんな責任を負うのか、負わないのかということらしい。面白い!

雑談で研究テーマを話してくれるとき、彼はよく「僕はキュレーターになりたいと思って、その勉強もしてます」と言っていたのだ。彼の説明だと、キュレーターというのは、美術館とか博物館の収集物について、あれこれ管理をするのだが、その重要な役割のひとつとして収集物の「目利き」があるということだった。

キュレーターって目利きのことじゃなかったっけ。ただ、やたら集めてくるのとは違うんじゃないか。

美術には殆ど関心がないのだけれども、そのとき、人生の目利きになりたいもんだなー、と考えたのは覚えている。

そう、そして、同時に自分のあれこれについて、プロのキュレーターに見立て、目利きをしてもらいたいなー、とも思ったのだ。きっと、占い好きで、すぐ見てもらいたがる私の心情とつながるところがあったのだろう。

見立て、とか、目利きって難しい。見識がいるし、決断しなくちゃいけないし、挙句の果てに責任論まで持ち出されるんだからな。

炎上しているキュレーターとはずいぶんと趣が違う。

そして、気づいてみると、本来の用法に近い、目利きとしてのキュレーターというのは、様々な分野について、周りに結構いたりする。

私の出会った目利きのうち、印象に残るのはどうしても私の「何か」を評価してくれた人々となる。この先をお読みいただく方々におかれては、ここからの話にあれこれと自慢臭がつきまとうことをお許し頂きたい。自慢の香りがする表現の愚かしさを私自身、認識しているので、それに免じてご勘弁願いたいと思う。

まず、その大学院での指導教官が専攻分野について当代きっての目利きだった。その教科書を読むと、自分の文書の中に、まだ業績も多くはない若手の研究を積極的に取りあげ、単に賛意を表するだけではなく
「優れた業績である」
「鋭い指摘というべきである」
「最初の重要な問題提起である」
と、若手を激励する言葉が添えられているのだった。厳しい目利きからもらえた数文字の評価が、若手研究者にとって大きな励みになったことか想像に難くない。

そして、私は、指導を頂いて1年ほど経ったとき、先生から
「あなたの論文は、世の中に発表する価値があります。私が編集者と話をしましょう」
と言って頂いた。

あの時の驚きと、心の中に思わぬ光が射したような気持ちは忘れることができない。まさに目利きのキュレーターに「仕事」を認めて頂けたのだから。あの研究室の日差し、窓を背にした先生の佇まいまで、ありありと思い出すことができる。論文は、先生との連名で活字となった。

このとき、キュレーターは、人に勇気と励ましを与える仕事になり得ることを知った。

別の目利きから、私のルックスについて評価をもらったこともある。
私はまったく自分のルックスに気を遣わないまま中年をとうに過ぎていた。「プロの独身36年」なんかで威張ってもらっては困るというくらい色気はなく、ルックスを取り繕う気持ちに欠けていた。そんなとき、あるきっかけで、季節の服装の見立てをお願いした知人の女性から

「ムライさんはプリっといいお尻をしてるのだから*、それを活かさなきゃダメなの」

と驚愕の評価を頂いた。

* 会話時点でのお尻です。また個人の感想です。お尻に対する印象には個人差があります。

「お、お尻?」
「女性はね、男性のお尻を見てるのよ。あなたは女性に受けのいいお尻を持ってるの」

えっ! そうなの!?

「そのお尻を活かすには、こういうパンツと……」

そしてその女性は、私のお尻を評価し、叱咤激励を加えつつ、半日にわたり季節の服装一式を見たててくれた。

彼女の選んだ服は、私自身では絶対に手を出すことのない色使いであり、フォルムであり、アイテムだった。

「いやー、この色は僕にはあり得ない」
「いいの。あなたの肌にはこれが似合うの」
「僕の歳でこれは、ちょっと無理があるのでは。ちょっとアレな人に見えてしまう……」
「いいの。あなたには必要なアイテムなの。会社にしていったって全然大丈夫」

「自分で自分に似合うと思っている服」と「客観的に似合う服」とがまったくズレていることをつくづく思い知らされた。自分の基準とプロの基準との違いを見せつけられるのももキュレーター、目利きとの対話の醍醐味だった。

彼女もやはり、私の思わぬ一面-特にお尻-に光を当ててくれた恩人のひとりである。彼女の見立ててくれた服を着ている限りで、私はごくごく一部で人的、時間的限定付きの「おしゃれなおじさん」という評価を得ることができた。キュレーター抜きには、あり得なかった人生である。

さらに、どんなパートナーと似合うのかもプロの独身にとっては、重要な見立てである。これも自分では「似合い」がわからない。

エンタテインメントやアート畑で長く働き、多くのアーティストの信頼を得ている女性から

「あなたは自分で男性としての価値に気付いていないのよね。あなたに似合う女性は……」

と私が探すべき女性のタイプを教えて頂いたこともある。

「でも、そんな女性どこに……」
「あなたを探しているこのタイプの女性は日本中に5,000人くらいいるはず」

え、5,000人って、ちょっとしたアリーナ一つ分の収容人員ですよね。どこにあるのですか、私を探す女性が集まるアリーナ。

「僕自身は、アーティストでいうと○○○さんみたいなタイプの方がいいな、と思うんですよね」

私は厚顔にも、この方と旧知の関係にあるはずの女性アーティストの名前を挙げた。

「あぁあ。あなたは、ほんっとうに女がわかっていない。あれは外見も作品もフェミニンに見えるけれども、中身はオトコ。サバサバしすぎてあなたとは合いません。あなただと、きっとそんなこと考えてるんじゃないかとは思っていたけれど、やっぱりねぇ。女のことも、それからご自分のことをもっとよく知ることが必要なのよ」

彼女は、私のキャラクターを見立てて、似合いのパートナータイプを教えてくれたのだ。ところで、彼女にもたくさん元気は頂いたが、私のプロ意識はそれを超えて強く、今でもプロの独身を貫いている。

さて、私は自分を表現する手段を、長いこと持たなかった。絵心はなく、幼いときにピアノ教室にちょっとだけ通い、若いときにギターを叩く真似事もしてみたが続かなかった。唯一、続いているかにみえたのが、文章を書くことだった。

文章表現ワークショップの類にも参加したことはあった。それぞれに多くのヒントを与えてくれる場ではあったし、評価もしてもらったが、その期間限りのもので、そこで学んだことを生かす場が、ない。後に続かない。場としての時間的な幅が短すぎるように思われたのだ。また、継続性のあるものとしての同人誌的なメディアは、私の目に入る限りでは、外に開いていない空気があり、もともと内向的な私がさらに内向しそうで、入りかねた。

私の仕事は企業法務なので、毎日、毎日契約書や法律の文章を読み、レビューし、書くのが日常だ。大学院に通っていた時期には論文も書いていた。今も発表のあてもなしに、面白いと思った素材について論文のかけらのようなものを書いている。

書くことが日常の一部にはなっているし、ある人々にとってはそれが-望むらくは-価値を生んでいる。多分、正確な文章や、いわゆるビジネス上の文章を書くスキルはいくらか貯まっている。

それはそれとして、できれば、自分の文章生活に、もうひとつの流れが作れないだろうかと思い始めた。可能であれば、今より少し広い範囲の人々に届く文章であって、読む人が楽しい、面白いと思ってくれるような文章を書くための流れが。

少しくっきり、そんな望みが浮かんでいたころ、ネットで、ふと天狼院書店ライティングゼミの告知を知った。今年の春の初めのこと。

告知は冒頭に「人生を変えるライティング教室」と謳っている。

そこでは秘伝のスキル伝授とともに、天狼院書店のサイトへの掲載につながるメディアグランプリという継続的な場も用意されているという。そして、何より、受講生は受講期間中、店主・三浦さんから継続的・定期的に自分の作品への評価をもらう機会が得られる。

あ、探していた「場」ってこれかもしれない、と思った。

一人の目利きから定期的、継続的に評価を受ける場。

目利きの評価を受けることで「人生が変わる」のは確かだ。これまで私の人生の転機にはキュレーター、目利きがいて、私の中に何かを見つけてくれた。

人によっては大げさなキャッチに見えるかもしれない「人生を変える」は、私にとっては非常に現実味のある行動のキーワードのひとつだ。これはご縁かもしない。

臆病なくせに直観で行動を起こす私は、天狼院書店についてネットで若干のリサーチをして、早速、ライティングゼミに申し込んだ。

さて、ゼミが始まった。池袋の店頭に集まる受講生の皆さんの顔ぶれを見ると、猛者ばかりに見えて、臆病ものの私は、いきなり萎縮していた。

毎週課題として課せられる作品の投稿にはなかなかの勇気がいる。自分の書いたものを人さまに読んで頂くことが、こんなに難しいとは思わなかった。日記とはそこが大きく違う。
まず天狼院書店の目利き、三浦さんの心を動かさなくてはいけない。その上で、その向こう-天狼院書店のサイトを訪ねてくれる人々に届く文章を毎週作り上げることが当面の目標となった。

始めの数回は、三浦さんの審査を通らない。やっぱりね。そんなに簡単なワケがない。それでも、毎回頂くアドバイスを自分の文章に埋め込んでいくうちに、何とか天狼院書店のサイト-これ自体がメディアだ-に掲載して頂けるようにもなった。

そのうち、時々天狼院書店が開催しているメディアグランプリのランクというものに、瞬間風速的に自分の名前が載るようになった。

これは、作品ごとのページビュー計測の結果に基づく評価らしい。これには、かつて論文を活字にして公にしたとき、その後、数か月、数年後に研究者がそれを引用してくれるのを読むのと同じくらいの緊張感と高揚感とを覚えるようになった。

私自身は、天狼院書店やネット界隈でバズ(buzz)と呼ばれる、爆発的ヒットになじむ作品を書く柄ではないと自覚している。それでも、書店のメディアを通じて、お目にかかったこともない読者に作品を読んで頂ける驚きと、喜びは想像を超えるものがあった。

三浦さんが単なる目利きであるのみならず、経営者・ビジネスデザイナーとして天狼院書店のシステムを組み立て、一受講生の作品が不特定多数の読者に届くメディアを作り上げ、維持してくれているお陰で、やはり、私は人生で新しい体験をしたのだ。

ゼミでは自分の作品に対して三浦さんや、他の受講生、そして読者の反応がもらえるのみならず、三浦さんが他の受講生の作品の目利きをしている様子も、ガラス張りで見える。構図としては鑑定団番組と同じなのだが、これが非常に興味深く、また、自分の文章を書くときに役に立つ。目利きの着眼点が目の前で披露されているのだから。稀にではあるが、厳しいコメントが、書き手の人生観に関わるものとなることもある。目利き、キュレーターの覚悟を見るのは、むしろ、そんな否定的評価を下しているときだ。

かくして、私は、継続的に作品を生み出し、目利きをしてもらうために、2期のライティングゼミを経て、今はプロフェッショナル・ゼミの末席を汚させて頂いている。これは自分の中で起こりつつある変化のモメンタム-勢いを維持し、できれば加速させるための選択である。

目利き、キュレーターに頼る人生は、他人任せではないか、という見方もあるだろう。結局、権威に従っているのではないか、「空気を読む」のバリエーションに過ぎないという評価もあるだろう。

それでも、自分の見識などたかが知れているという自覚のある私にとって、目利きの評価をもらうことは、それ自体思いっきり主体的で、積極的な行動なのだ。そしてその目利きを見出す点で私のわずかな見識は働き、私の責任において決断をしているのだ。

そして、私の出会ったキュレーターは、それぞれの専門分野で、あるいは人生において、豊富な体験と見識を持つ方々であって、この人々の評価をもらうことは、私の人生を変えて当たり前だとも思うのだ。

天狼院書店ライティングゼミでの審査がそうであるように、時に、目利きたちは私に、私の作品に否定的な、低い評価を下す。それは当然のことなのだ。

ただ、ただ、無条件でほめてもらいたいのであれば、この方々を煩わせる必要はまったくない。

最近、日本を代表する憲法学者の講義を聞く機会があった。彼は、アメリカの判例を紹介する文脈で、エピソード的に「美術館の専門職は(美術作品の)内容の『差別』をすることこそが仕事だ」と述べていた。学芸員とも訳される美術館のキュレーターを指した言及だろう。まさに、目利きから差別してもらうことで、私の人生は-時に痛みを伴いつつも-豊かになる。

キュレーションサイト方面は炎上し、キュレーションサービスはdisられているというが、私は目利きとしてのキュレーターとのご縁を大切に、大切にしていくつもりなので、関係各位にはよろしくお引き回しを頂きたい。

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この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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