理由も告げずに去ることを、どうかゆるしてほしい……《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:中村 美香(プロフェッショナル・ゼミ)
「あれ? 美容院に行ってからどれくらい経つ?」
リビングで、目の前に座っている旦那に、指摘された。
髪の毛を切ったことには、あまり気がつかないのに、伸びたことには、よく気がつく。
確かに、また、髪の毛がもっさりしてきた。
手帳を確認すると、前回、美容院に行ってから、まだ、ひと月半も経っていない。
手を抜いて、少なめに切ったのかな?
長いこと、同じ人に同じように髪の毛を切ってもらっていたから不思議だった。
今まで、ちょうど2ヶ月経ったくらいに、そろそろ切ろうかな? と思うことが続いていた。
美容師さんが少なめに切っているか、もしくは、私の髪の毛に変化があったかだな。
ああ、そうか、加齢のせいかもしれない……。
だけど、一瞬でも、美容師さんのせいにしてしまったのは、気がかりなことがあるからだった。
それは、私が美容院に行く時、ほとんどお客さんがいないということだ!
前日に電話しても、翌日の朝一番、11時の予約が取れることが多い。
もしかすると、夕方から夜にかけて忙しいのかもしれないから、杞憂だといいが、もうひとつ、気がかりなことがあるのだ。
それは、スタッフが頻繁に変わることだ!
美容師の渡辺さんと出会ったのは、彼女が独立する前の店に居た時だから、約16年前になる。改めて、長い付き合いだ。
年齢は、私よりも少し年下だったはずだ。
彼女が、30歳くらいの時に、独立して、同じ駅の反対側に店を構えた時に、追いかけるように客の私も移ったのだった。
独立して、多分、もう10年は経っていると思う。
しかし、独立の当初からいるスタッフは、ひとりもいない。
渡辺さんは、私を含むお客さんに対しては、優しい口調なのだけれど、スタッフに対しては、結構厳しめな態度なのだ。
仕事に厳しいだけかと思っていたけれど、やっぱり、人を育てるのが得意ではないのかもしれない。
唯一、長く、勤めているアシスタントの二ノ宮さんは、朗らかで、とてもいい人だ。
だけど、二ノ宮さんについても心配なことがある。
それは、アシスタント歴が長いことだ!
美容業界のことはよくわからないけれど、お客さんの髪の毛を切ることができるスタイリストになるためには、シャンプーをしたり、マッサージをしたりするアシスタントという仕事を経ないといけないらしく、それには、大体3年から5年くらいかかると聞いた。
しかし、二ノ宮さんは、5年以上アシスタントをやっている。
二ノ宮さんのアシスタントとしての仕事は、素晴らしく、渡辺さんとの息も合っているようだ。
二ノ宮さんのシャンプーは、とても気持ちがいい。
力加減もいいし、ちょうど洗って欲しい場所を、洗って欲しいタイミングで洗ってくれる。
シャンプーやコンディショナーの洗い流しも申し分ないし、なんてったって、その後のマッサージがすごくうまい!
凝っている部分を瞬時に探し出し、ほどよく揉んでくれる。毎回、うとうとしてしまうほどだ。
会話の話題も、タイミングも、なかなかうまくて、おそらく、こまめにメモをしているのだろう、前回話した話を覚えていて
「息子さん、あれからどうしました?」
「旅行どうでしたか?」
と、思わず話したくなるようなことばかり聞いてきてくれる。
「へー、そうなんですね!」
「ああ、なんかわかる気がします」
と、相づちも打ってくれて、いい気分になってしまうのだ。
その後、他のお客さんの応対を終えた渡辺さんが、やってきて、髪の毛を切ってくれる。ドライヤーをかけるときに、また二ノ宮さんが戻ってきて、ふたりで乾かしてくれて仕上げに向かう。
そんな流れが大好きだった。
「私、結婚したんですよ」
長い間、同棲していた彼氏と二ノ宮さんが結婚したと聞いたのは、今から1年と少し前のことだった。
「あ、そうなんですね! おめでとうございます!」
「ありがとうございます。で、今、お腹に赤ちゃんが居て、もうすぐお休みをいただくことになりまして……」
二ノ宮さんは、少し膨らんだお腹をさすりながら、そう言った。
「わー、おめでとうございます! 体調大丈夫ですか?」
「はい! つわりも全然なくて元気です」
「無理しないでくださいね。だけど、しばらく会えなくて寂しいなぁ。また戻ってくるんですよね?」
「その予定ですけれど、ちょっと、まだ、先のことはわからなくて……」
二ノ宮さんは、めずらしく小さな声で、そう言った。
私が、その話を聞いた後、まだ数ヶ月はお店に立っていたみたいだけれど、タイミングが合わず、会えないまま産休と育休に入ってしまった。
二ノ宮さんの居ないお店は、照明は変わらないはずなのに、なんとなく薄暗い雰囲気だった。
2ヶ月ごとに、渡辺さん以外の誰かしらが変わり、渡辺さんの機嫌も、いつもあまりよくない感じだった。
さすがに、お客さんに対しては、笑顔だったけれど、スタッフに対して不機嫌に接しているのが、鏡越しに、はっきりと見えていた。
渡辺さんに対して、嫌な感情は生まれなかったけれど、代わりに、気の毒に思えてきてしまった。
悩みを相談できる人はいるんだろうか?
資金繰りはうまくいっているだろうか?
人が育たなくて困っていないだろうか?
直接、そんなことを聞けるわけもなく、ダラダラと日常の話をしつつも、二ノ宮さんと話していた時みたいには、楽しくはなくなっていた。
「二ノ宮さんとは、連絡取っているんですか?」
「はい。元気ですよ!」
少し、渡辺さんの顔がほころんだ。
「いつ頃戻ってくるとか決まっているんですか?」
「保育園になかなか預けられないみたいで、すぐに復帰とかは難しいみたいです」
また、渡辺さんの顔が曇った。
早く、二ノ宮さんに戻ってきてほしいですね!
と、言いたかったけれど、すぐ横にいるあまりシャンプーの上手じゃないアシスタントの男の子が気になって、言えなかった。
二ノ宮さんは、戻ってくるのかな?
美容院のHPを見ると、まだ、スタッフの欄に写真は載っているけれど、なんだか、もう戻ってこないような気もする。
二ノ宮さんは、多分、もうすぐ30歳くらいだ。
渡辺さんが、独立した年齢だ。
それなのに、まだスタイリストになっていない。
忙しい環境の中で、なかなかスタイリストになれないジレンマについて、考えることはあっても、どうこうできなかったのかもしれない。
だけど、妊娠、出産、育児と、環境が変わって、ふと、果たして、また、この美容院に戻るのがいいのかどうか、と、考えているかもしれない……。
二ノ宮さんがお休みに入ったことによって、私にも気づきがあった。
わざわざ、電車に乗って、主婦にとっては少し高めの、この美容院に来ていた理由がわかった気がした。
渡辺さんのカットの技術が好きなのもあるけれど、私は、二ノ宮さんにシャンプーとマッサージをしてもらい、おしゃべりをしたくて来ていたんだ。
だから、なんだか、今、物足りないんだ、そう思った。
人によるとは思うけれど、私のように、美容院を選ぶことに、とても神経を使う人も少なくないと思う。
私は、小学生までは、自宅で、母親に髪の毛を切ってもらっていた。
ロングヘアーで、しかも結んでいたので、そこそこ揃っていればよかったのだ。
中学生、高校生の時は、行き当たりばったりで、いろいろな美容院に行ってみたけれど、気に入ったり、気に入らなかったり……だけど、そんなものだと思っていた。
その後、成人式に着付けをしてもらうことから、近所の美容院に行くことになった。
そこで初めて、
「この人にずっと髪の毛を切ってもらいたい!」
と、思える女性の美容師さんに出会った。
その人が、転勤で、少し離れた場所に移っても、追いかけるように、着いて行った。
しかし、まもなく、彼女は、結婚をして、実家の近くに住むからと、美容師を辞めることになった。
まるで、恋人に振られたかのように、私は傷ついた。
これから、私はどうすればいいの?
と、不安になったことを覚えている。
仕方がないので、いろいろ調べて美容院に行ってみたけれど、なかなかしっくりくる人に出会えなかった。
「技術」というよりは、「人」だった。
あまりにも、チャラい感じの人は、見下されているような気がして嫌だったし、笑い方が嫌だったり、生理的に受け付けない人もいた。
ようやく、しっくりきた、当時の職場に近い美容院の美容師さんは、意外にも男性だった。男性だったけれど、中性的で嫌ではなかった。
ああ、やっと、落ち着いたと思ったら、数年で、遠くに引っ越してしまったのだ。
そして、また、しばらく彷徨った後に見つけたのが、渡辺さんだった。
何事もなければ、渡辺さんが、私が通える土地に居てくれる限りは、ずっとお世話になるつもりだった。
だけど、今、気持ちは揺らいでいる。
もし、美容師を恋人に例えたならば、私は、初めて、恋人を振ろうかどうか迷っている。
迷うということは、まだ、魅力はあるのだ!
渡辺さんがこだわって作ったウッディーな店の造りはとても気に入っている。
「いつもと同じ感じで、伸びた分切ってください」
と、言えば、大体気に入った髪型にしてくれる安定感も気に入っている。
腕はやっぱり悪くない。もっさりしやすくなったのはきっと加齢のはずだから……。
それに、なんと言っても、付き合いが長くて、情がある。
逆に、別れたい理由は、いくつかあるけれど、真っ先に思い浮かぶのは、意外にも、渡辺さんが、タバコ臭いことかもしれない。
急に、吸いだしたのではなく、ずっと前から吸っていたはずだけど、気になりだしたのは最近だ。
渡辺さんのタバコの量が増えたのか、気を使わなくなったのか、単に、私が気になりだしたのかはわからない。
そして、空いていることが心配だ。
空いていて大丈夫だろうか?
人がまた変わって大丈夫だろうか?
そうやって心配することに、結構、疲れたりする。
リラックスするために来ているはずが、余計に肩が凝ってしまう日も多い。
そう言えば、以前、私の紹介という形で、友だちを連れて行ったことがあった。
私の友だちの担当は、渡辺さんじゃなくて、他の人だった。
数か月後、仕上がりを気に入った友だちが、次回の予約しようとして電話したところ、
「その者は辞めましたので、他の者が担当させていただきます」
と、渡辺さんに、言われたらしかった。
びっくりした友だちは、予約を入れなかったらしい。
「せっかく紹介してくれたのに、申し訳ないけれど、辞めたこともちゃんと連絡しない対応が気に入らないので、他のところに変えるね」
と、私は、後日、友だちに言われたのだった。
その時、私は、渡辺さんに、そのことを言おうか迷って、言いづらくて言えなかった。
もしかすると、こういったことが積み重なって、お客さんが増えなかったのかもしれない。
渡辺さんとの付き合いが長くなって、
「他のところだったら、どんな髪型にしてくれるだろう?」
と、浮気したくなる時もあった。
だけど、一度、他の人に切ってもらうと、浮気したことがばれてしまうかと思って、それはできなかった。
私が、他の美容院で切るということは、渡辺さんとの別れなんだと思った。
私にとって、美容院とは何だろうか?
そんなこと、今まで考えたこともなかったけれど、私にとっての美容院での理想のひと時は、髪の毛を整えてもらうと同時に、その時間を居心地よくリラックスして過ごす時間なんだと気がついた。
もしかすると、こんなことになる前に、本当に、渡辺さんの、この渡辺さんのお店のファンだったら、私の友だちが、「担当者が辞めたことに関する対応」に納得がいかなくて、来なくなってしまったことを、しっかり伝えておけばよかったのかもしれない。
頻繁にスタッフが変わることに気がついた時に、スタッフのモチベーションを上げる接し方を、やんわりと提案してもよかったかもしれない。
だけど、それはできなかった。
美容師と客という関係だということもあるし、そういったアドバイスができる信頼関係も築けていなかった。
ああ、ここまで、考えて、気がついてしまった。
私の心は、もう、渡辺さんのお店から離れているんだということを。
もう、好きじゃない……。
そのことを認めたくなくて、ああでもない、こうでもないと、言っているに過ぎないじゃないか。
別れることを正当化するために、悪者になりたくないがために、言っているんだと気がついた。
渡辺さんのお店に変化を期待することだって、おこがましいことかもしれない。
愛なのか? エゴなのか?
情って厄介だ。
もっとシンプルに、他の美容院に行きたくなった気持ちを認めよう。
心のどこかに、二ノ宮さんが戻ってきてくれたら、また元のように、心地よく通えるかもしれないという期待もある。
もう少し待って、気持ちにケリがついたら、行動しようかと思う。
「さよなら」の代わりに、「ありがとう」と笑顔で言って、理由も告げずに去ることを、どうかゆるしてほしい。
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