プロフェッショナル・ゼミ

ブラック勤務の果てに見たもの《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:吉田裕子(プロフェッショナル・ゼミ)

――「いいね!」なんて、押してやるものか。

安田律子はInstagramに上げられた集合写真を見ながら毒づいた。カラフルなスノーボードウェアを着て、雪山でいっせいにジャンプしている写真。そこに写っているのは、コンビニバイトの同僚たちだ。

成人の日とつながる3連休。そこで、彼らが揃いも揃って休みを取ったために、律子はこの期間、かなり無理のあるシフトになってしまったのだ。

●金曜17:00-22:00
●土曜11:00-22:00
●日曜7:00-13:30、17:00-22:00
●月曜7:00-13:30、22:00-翌7:00

おおよそ4日間で43時間の勤務である。コンビニバイトだけで生計を立てているフリーターであれば、こうした勤務も普通なのかもしれない。しかし、律子は、秋学期の試験を間近に控えた大学3年生だった。4年になる前にできるだけ単位を取りきろうとしていたので、今学期は特に多くの授業を履修していた。その試験は間近に迫っていたが、この土曜日は午前中からの11時間勤務で、全然勉強できないままに終わろうとしていた。

客足の途絶えた時間に、休憩が多少とれるとはいえ、11時間もの勤務はなかなか辛いものがある。住宅街にある店舗なので、猛烈に混むということはなかったが、安定的に客は来る。品出しのない時間帯、ちょっと後ろで休もうとすると、すぐに客が来て、出て行かなければならなかった。「2人以上の行列ができたら行け」が合言葉である。結局、11時間ほぼ立ちっぱなしであった。

単純に肉体的に疲れていたところに、雪山ジャンプの写真を見てしまい、律子は、精神的にもぐったりして帰宅した。同棲している同い年の彼氏・篤史は、半ば呆れたような顔で彼女を迎えた。

「朝出てってこの時間まで? 良くやるねぇ」
「この連休、うちの店、ちょっと人が足りなくて」
「そこで、じゃあ自分がやろう、って思うのがすごいわ」
「仲良い先輩とかに『代わって』って言われたら断れなくて」

そのとき、篤史の電話が鳴る。
「はい、中嶋です。あ、お疲れ様でーす。明後日の中3の授業前ですか? 何でです? あー、ちょっとその時間帯は難しいですね。はい、失礼しまーす」
と電話を切ると、篤史は苛立ちをぶつけるようにスマホをソファーに投げ出した。

「何だったの?」
「小4理科の代講だってさ。大学2年の講師が『成人式後の同窓会に出たいから、授業は出来ない』って言い出したらしい」
「こんな直前になって? 無責任過ぎる……。その日、篤史は何か用事でもあったの?」
「いや」
「え? じゃあ、やれば良かったのに」
律子が無邪気に言うと、篤史は顔をしかめ、
「君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす」
と吐き捨てた。篤史は大学で中国思想を専攻しており、突然、『論語』やら何やらを引用し出す癖があった。経営学科の律子には知る由もなく、毎回、意味を訊くことになる。
「今回のはどういう意味?」
「上の者は下の者を使うときに、きちんと礼をわきまえよ。下の者は上の者に仕えるのに、真心をもって仕えよ。――だからさ、うちの室長、礼がなってないから受けなかったの。『どうせお前はヒマだろ』っていうのが、声からも感じられて不快だった」
「まぁ、それはムカつくけど、実際、空いてるんでしょ? 生徒たち困っちゃうんだし、やってあげればいいじゃん」
「はいはい。律子はそういう社畜的発想だから、ブラックに搾取されるんだよ」
「そんな、搾取って……」
「こんな11時間もこき使われて、搾取じゃん。あーやだわ~、ブラックバイト」
そう言うと、篤史は呆れた様子で奥の部屋に戻っていった。

バイトの仕方に関しては、2人はよくケンカになった。篤史は、最初から決められていた授業業務に関しては完遂するが、代講やテスト対策の補習など、プラスアルファの仕事に関しては消極的だった。全く引き受けないわけではなかったが、ゼミでの発表や試験などとの兼ね合いが良いときだけである。律子の方はというと、普段は週3回、17時~22時に勤務するだけだが、今回のように、代わりを頼まれるとなかなか断れない性質であった。学生の試験期間だとか、クリスマスだとか、そういうときにはしょっちゅう代打出勤していた。この点を篤史は冷ややかに見ていたのである。

今日も「ブラックバイト」などと揶揄されたことに、律子はムっとしていたが、言い返す気力もなかった。どうせ反論しに行っても時間の無駄だ。それなら休んだ方が良い。

鍋には篤史の作ったポトフが残っていた。それを温め、廃棄でもらってきたパンと合わせて、遅い夕食にした。そのお礼をLINEで送ると、そのままソファーで寝ることにした。翌朝も7時出勤である。寝過ごしたくないときには、安眠できるベッドよりもソファーの方が向いていた。それで何とか起きたところを、熱めのシャワーで覚醒させて出勤するのが、律子のパターンだった。

日曜朝、店に行くと、夜勤の店長と入れ替わりに店頭に立った。今回の人不足は律子以上に彼にのしかかっているようで、連日17時から翌7時の勤務であるようだった。店長がそれだけ頑張っているんだから、自分も頑張りたいと思うのだった。

日ごろ夕方に勤務することの多い律子は、あまり店長と勤務が重なることはなかったが、それでも店長には好感を持っていた。彼はいわゆる雇われ店長であるが、オーナーからの信頼も厚く、この店舗に関しては全面的に任されているようだった。恐らく40手前くらい。口数の多い人ではないが、客対応は愛想が良い。てきぱきとした仕事ぶりも含め、一緒にシフトに入ると気持ちの良く仕事のできる相手だ。シフトも柔軟に調整してくれるということもあり、スタッフからも評判の良い店長である。

ただし律子は、寛大な店長にスタッフたちが甘えている状況を快く思っていなかった。だからこそ、自分はシフトに穴をあけたくないと決めていた。その思いはだんだん強まり、勤務開始から3年近くが経った今、後輩たちがバイトに穴をあけることにまで申し訳なさを感じるようになっていた。

それで今回、いろんな子達の代打を引き受けたのである。決して店長からの命令ではなかった。彼はそういう理不尽なことをしない人だ。だからこそ、篤史が「ブラックバイト」などとからかう点が気に食わなかったのである。

日曜の朝番は13時半に終わったが、17時からは夕方のシフトが入っていた。名前の通り律儀な律子は、シフト開始時刻の20分前には来るようにしていた。となると、間は約3時間。いちいち家に帰ることもバカバカしく思われたが、一応帰ることにした。家が近いのが救いであった。今朝も5時半起きだったので、疲れてきていたのは事実である。心なしか風邪気味でもあった。

帰宅し、目覚ましを念入りにかけると、律子はソファーに倒れ込んだ。篤史が奥の部屋から出てきたので、「もし4時に起きてなかったら起こして」と頼むと、また呆れられた。ただ、篤史が「はいはい」と気のない返事をしたのは、律子がどうせそれ以前に起きていることが確信できたからでもある。実際、律子は自分自身でかけた目覚ましの1回目(3時45分)で、ばっちり起きていた。

4時にリビングに出てきた篤史は、それを確認し、「やっぱ起きてるじゃん」とつぶやいた。そのとき律子は、化粧を直しつつ鼻水と闘っている最中であった。アレルギー性鼻炎持ちの律子は、疲れてくると症状が出やすい傾向にあった。へぇっくしゅん!! その特大のくしゃみに、篤史は苦笑いしつつ、
「大丈夫? 薬飲む?」
と心配した。律子がファンデーションを塗り直しながらうなずくと、篤史は薬と水を用意してくれた。実際、篤史はそういう人間であった。優しく、律子を大切に想うがゆえに、彼女がバイトに入れ込み過ぎることを心配しているのであった。

律子は鼻炎カプセルを呑むと、念のため、マスクをして出勤した。篤史はまるで親のように、
「今、体調崩したら、試験とか受けらんなくなるから、無理しすぎんなよ」
と声をかけて送り出すのだった。篤史は一日試験勉強らしい。

律子は、篤史のバランスのとり方に憧れる部分もあった。篤史は長期的に見て自分のためにすべきことというのをきちんと見極めたうえでバイトや遊びの予定を調整できる人間である。シフトに穴が開くのを嫌うあまり、自分の勉強がつい後回しになりがちな自分とは対照的であった。

篤史と話していると時々、自分がシフトを埋めるコマに過ぎないような気もしてくる。そういえば、店長はどんなつもりで働いているんだろう。遊びでシフトに穴をあける学生の代わりをつとめることにイライラしないのだろうか。

17時の勤務開始時刻に25分の余裕をもって来てみたのだが、すでに店長は来ていた。さすがである。律子は人がいない時間に訊いてみた。
「この連休、店長、なかなか無茶してますよねぇ……? 今日17時から朝7時までなんですよね?」
「まぁ、一時的なことだからね。これがずっとだったら辛いけど。責任者だし、それぐらいは仕方ないと思ってる」
「でも、今回のって、みんながシフト放り出してスノボ行っちゃったからじゃないですか。そういうのってムカつきませんか?」
「え? あ、もしかして、安田さんムカついてるの? まー、そうだよなぁ。でも、これは学生を使って回している以上、構造的な課題だと思うよ。あいつら責めてもしょうがない。たまには盛大に遊びたいでしょ」
ふふっ、と笑いながら語る店長に、律子は自分の発想のレベルが恥ずかしくなった。店長は大人だった。

「いや、それにさ」
「それに?」
「自分が普段入る時間以外に入れば、色々分かることがあるから、有意義だよ」
「え?」
「さっき夜ご飯を買いに来たおばあちゃんいるでしょ? あの人、朝も昼もだいたい来るんだ。今回夕方も入って、このおばあちゃん夜も来るんだな、って分かったわけ。たぶん、一人暮らし。三食うちで買ってるんだなぁって思うとさ、弁当とか発注するときに、一人用のヘルシーなおかずも入れなくちゃな~、って分かるじゃん」

店長はビジネスマンだった。律子も、そのおばあちゃんが来ていることには気付いていた。でも、そういう発想は特になかった。常連の顔は十何人か覚えているが、せいぜい、よく買うものをもとに脳内であだ名をつけるぐらいだった。

店長はまだ続ける。
「あと、普段は安田さん、夕方のシフトだからあまり俺と一緒にならないでしょ? こうやって一緒に入る機会があると、見えてくることが色々あるよね」
「え……」
「安田さんさ、『お客さんを待たせてはいけない』っていう意識が強いんだよね。品出ししたり休憩したりしながらでも、ちゃんとレジ前にアンテナ張ってるな、ってのが分かる」
「あ、ありがとうございます」
「……ただねぇ」
続きがあった。
「そういうさ、人に気を遣うところ。それも程々にね。今回の連休、みんなに『代わって』と頼まれたところ、どんどん引き受けたでしょ?」
律子は少し驚いた。シフトを引き受けたことをアピールしたことはなかったので、店長がきちんと察してくれていたことが嬉しかった。

しかし、店長の言いたいことは、律子の理解とは少し違っていた。別に、褒めたり気遣ったりしようとして言ったわけではなかったのである。

「安田さん。今回、俺からは一言も『シフト埋めて』って頼んでないよね? 一応さ、他店からヘルプ呼ぶとか、こういうときのしのぎ方はあるの。それを勝手にたくさん引き受けて、それで体調崩したら、元も子もないからさ、気を付けてね」

マスク姿を見据えての指摘に、律子は何も言えなかった。

決して口調はきつくなかった。しかし、それだけに、律子の胸には応えた。店長の言ったことは実にもっともだった。ただ、自分がいま何のために体を張っているのかが分からなくなってしまうようで動揺した。店のためを思って引き受けていたのに、それを「勝手にたくさん引き受けて」と言われたのである。そんなの、勤労意欲が一気に削がれてしまうではないか。

そのやり取りの後、一定のペースで客が来てくれたおかげで、二人きりの時間がほとんどなかったことが、律子にとっては救いだった。接客や品出しの作業をしている間は気も紛れるし、何とか22時までやり過ごしたが、店を出ると、一気に気分が重くなった。

肉体的にも疲れていたが、律子は少し遠回りをして家に帰った。別のコンビニで、少し高めのユンケルを買った。

よりにもよって、疲れが溜まりに溜まった3連休中最終日が1番過酷な勤務シフトであった。朝番を終えた後、夜22時からの夜勤だった。篤史の反対もあり、基本的に夜勤には入らない律子であったが、この日だけは仕方がなかった。ふだん夜勤を担当する男の子が、成人式で来られないということだった。この男の子は日ごろ休まない。しかも、この月曜以外、スノボメンバーの穴を共に埋めてくれていた子であった。その子の頼みはどうしても断れず、慣れない夜勤に入ることにしたのである。

21時半過ぎに出勤すると、この日も17時から勤務していたらしい店長がいた。その朝7時過ぎまで勤務していたというのに、すごいものである。律子の顔を見るなり、
「マスクしてないね。もう風邪は良いの?」
と声をかけてきたのだが、律子は店長の真意をはかりかねて、複雑な笑顔で会釈をした。――心配してくれたのだろうか、皮肉だろうか。

この店舗では、深夜になるとたいてい、夜勤の2人で示し合わせ、それぞれが主に担当する時間帯を決めていた。主担当がレジや品出し・清掃をし、もう一人はバックヤードで休むのである。時間帯が時間帯だけに、休む側はだいたい仮眠を取っている。来店を告げる音が聞こえると、カメラで店内の様子を見、必要そうであれば、店に出て行くのである。

今は店長が主担当をつとめる時間である。律子は奥に下がっていたが、今日は仮眠をとるわけにはいかなかった。この連休中に進めるつもりの試験勉強が全然進んでいなかったのである。『立地論入門』という教科書を広げながら、律子は、これも店長に言わせれば、自業自得なのかもしれない、などと考えた。「このシフトになるのは分かっていたんだから前々からやっておけよ」とか言われるのかもしれない、と――。

とりあえず寝てしまわないようにエナジードリンクを飲み、教科書を読み始めた。

律子がうつらうつらしながら教科書を読み進めていると、不意に、店長が物を取りに来た。
「起きてんのか。寝てても良いのに」
「……私、明後日から試験なんです」
律子は少しすねたような口調で答えた。店長はそのムスッとした態度を気に留めた様子もなく、
「そっか、大変だな。それなのに入ってくれてありがとな」
とだけ言うと、お手ふきの束を取って店頭に帰っていった。

律子は拍子抜けした。日曜の一言以来、店長に対していくらかの悪感情を抱いていたのだが、それは被害妄想が過ぎたのかもしれない。交代するタイミングで顔を合わせるのさえ気が重かったが、だいぶ気が楽になった。

その後結局、律子一人で店頭に立たせるのは治安上心配だと言って、店長も仮眠をとらず、二人で店に立ち続けた状態で朝を迎えた。タクシーで帰宅してきたらしい酔っぱらいの後、しばらく客足は途絶えていたが、6時ごろに常連のおばあちゃんが来た。この3連休でおばあちゃんと何回会ったんだろう、と律子が考えていると、おばあちゃんがレジにやってきた。
「お弁当温めますか?」
「ええ、お願いしますね」
温めの要りそうな商品は先に会計。温めの有無を確認し、レンジにかけている間に他の商品の会計を進める。会計の終わるころには、温めが終わる。律子がいつもの流れを手際よく進めているとき、おばあちゃんが声をかけてきた。
「あなたね、最近いっぱい働いているでしょ。そんなに働いて疲れてないかしら。昨日マスクしていたでしょう」
律子は最初、何が起きたのか分からなかった。酔っぱらいが少し絡んでくることを除けば、お客さんにこうして話しかけられることはめったになかったからだ。戸惑い、手が止まる。おばあちゃんはなおも続ける。
「あのね、私うちのおみかんを持ってきたのよ。あ、気にしなくていいのよ。たくさんあるから。風邪にはビタミンがいいらしいから。食べなさいね」
おばあちゃんは半ば押し付けるようにして、コンビニの袋に入れられたみかんを律子に渡すと、商品を受け取って出て行った。

律子はお礼を伝えられていないことに気が付いて、慌てておばあちゃんを追いかけた。
「お客様、ありがとうございました!」
深々と頭を下げてお辞儀をした後、律子が顔を上げられなかったのは、自分が泣いていることがよく分かったからだった。

涙をぬぐって店に戻ると、6時20分だった。おばあさんの出た後、客は誰もいなかった。律子の朝7時までのシフトも、もう少しで終わろうとしている。そろそろ、交代の子が出勤してくるだろう。

さっきおばあさんを追いかけたときに中途半端にしてしまったレジまわりの整理をしようとしたら、店長が片付けてくれていた。そして、
「安田さん。いい加減、疲れたでしょ。お客さん来るまで、中にいていいよ」
と言ってくれた。このままシフト終わりまで二人一緒に立ち続ける(そして、激務完走の喜びを分かち合う)つもりでいた律子は、ちょっと拍子抜けしたのだが、
「ありがとうございます」
と言ってバックヤードに入ろうとすると、その背中に、
「ちっちゃい冷蔵庫に、廃棄のスイーツがいろいろ入ってる。みかんと一緒に食べなよ」
という声が投げられた。律子はお礼を言いながら、また泣きそうになった。

疲れているタイミングでの甘いものはたまらなかった。すっかり回転の鈍くなった頭に、元気を与えてくれるような甘さだった。

みかんとプリンとを代わる代わるに頬張りながら、律子は「これで私は満足なんだなぁ」と思った。店長がいて、お客さんがいて、彼らの求めに応えたくて、自分は頑張るんだろうなぁ、と思った。体力的には今日が1番きついはずだが、不思議と不快さはなかった。

みかんを2つ食べた後、残りの1つのみかんの皮に、ネームペンで「店長もお疲れ様でした!」と書きながら、律子は、篤史が教えてくれた言葉を静かに思い出していた。

「君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす」

そういう臣でありたいという思いとともに。

***

この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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