プロフェッショナル・ゼミ

甘いためいき《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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【東京・福岡・京都・全国通信対応】《日曜コース》

記事:谷口愛子(プロフェッショナルゼミ) (フィクション)

「今夜も会えて嬉しいわ。昨日が最後かと思っていたから」

 私は、真っ暗な海に浮かぶ船上から一人、波間を見下ろしている。私の誕生日に贈られた三十人乗りの帆船に、今は私一人しかいない。背後には私の治める国がある。小さいけれども豊かな国は、今夜は眠らずに美しく輝いている。
 私のいる海上まで、にぎやかな声が聞こえてくる。楽しげにあがる高い声は、小さな少女のものだろうか。重ねて、おおぜいの人々の、合唱のような声もあがる。
――私の国には、これほど多くの人がいたのだな。うるさいくらいに賑やかな夜。
普段の祭りでもここまでは明るくはならない。窓にほどこされた色とりどりのガラス細工に火が映えて、海から振り返るとまるで贅沢な絵本のように見える。
 しかし、その光を浴びて私を見上げている、彼女は何にも増して美しい。
 私の大切な国さえ、彼女の前には引き立て役にしか見えないほどに。

「私のために、ほろぼしてくれて、ありがとう」

 背後の光がひときわ明るくなり、ガラスがはじけ散る大きな音が聞こえてきた。
 逃げ惑う人々の悲鳴は、振り返って見なければ、祭りに喜ぶ歓声にしか聞こえない。恐怖の叫び声と笑い声は、驚くほど似ているものだ。
 瞬く光に照らされて、暗い海の中、彼女の濡れた白い肌と鱗がキラキラと浮かび上がる。手を伸ばしても届かないほどの距離にいても、彼女の瞳が柔らかく形を変えて、私に微笑みかけてくれるのがはっきりわかった。
――これでやっと、私は彼女のものになれるのだ。
――地面を踏みしめる無骨な足を捨てて、彼女と同じ、滑らかな尾を手に入れるのだ。

「まさかあなたが、そこまでしてくれるなんて思ってなかったの。少しでも疑ってしまったこと、謝るわ。ごめんなさいね」

 彼女の瞳がわずかに曇る。妹姫のことを思い出しているのかもしれない。
 少し前まで私のもとにいて、私と、隣国の姫との婚礼の夜に姿を消した、名も知らぬ娘も本当は彼女と同じ人魚だったらしい。
 口をきかないものだから、全く知らなかった。
 海の王の娘で、人間の私を愛し、あの嵐の晩に私の命を救ってくれたのだという。そして私のそばにいるために、愚かにも、輝く人魚の尾を捨てた。しかも海の中の誰よりも美しかったという声と引き換えにした。それを彼女に聞いた時には絶句した。信じられないくらい愚かな娘だ。人魚のままで、海の中から歌いかけてくれていたら、少しは私の心も動いたかもしれなかった。
 もう顔もあまり覚えていないけれど、可憐な娘だった。
 私の婚礼の夜に、悲しみのあまり身を投げたのだとか。
 確かに気の毒なことをした。
 けれど、

「なにを考えてるの? もしかして後悔してるとか?」

 あの娘が今もいたら、彼女とは会えていなかったのだ。
 私は首を振って、娘の控えめな微笑みを心から追い払う。
 そうして、彼女に笑いかける。
 
今夜は祝祭の夜なのだ。

「違うのね。よかった。だったらもっと楽しそうな顔をして。私のために、もっともっと晴れやかに笑ってくれなくちゃ」

 彼女はゆったりと、まるでソファでくつろぐように海の上を泳いでいる。仰向けになると、真っ白い乳房が豊かな黒髪の間に見えかくれした。

 ・・・・・・・・・・

 彼女が私の国にあらわれたのは、ひと月ほど前のことだった。
 船乗りが漁に出たまま戻らないという報告が増えていた。熟練の船乗りが、天候も悪くないのに戻らないというのは奇妙な話で、本腰を入れて調べようと思っていたところだった。国に広まった、海の底に住むあやしげな魔女や人魚の呪いであるという迷信を一掃するためにも、できるだけ早く、しかし安全に調べる必要があった。大胆に、慎重に、計画を練らなければならない。
彼女があらわれたのは、まさにその矢先だった。
 私の城は海に四方を囲まれている。細長い形をしている国の端、岬の先端に突き出すように建っていて、国と繋がれた道を除けば、どの部屋からも海が見える。なかでも私の寝室は壁の全てが窓になっていて、海以外何も見えない。歴代の王たちも、部屋でくつろぐ一時だけは、国のことも忘れて、完全な個人になりたかったのだろう。
 その日も、暮れていく海を眺めながらソファに横たわっていたが、心配ごとが海にまつわることだけに、完全にくつろぐというわけにはいかなかった。
 どうしても、思い出してしまう。
 しばらくは、音楽をかけたり酒を少しだけなめたりしながら過ごしていたが、もう無理だ、あきらめて、逆にどっぷり考えてみようと決めた。執務室で、頭の中でだけ考えている時とは違うアイディアが浮かぶかもしれない。そう決めると楽になって、大きな窓を外に開いた、その時だった。
 ふくよかな歌声が聞こえてきたのだ。
 わずかにかすれた、厚みのある声は、風に乗って私を包むように流れ込んできた。
 慌てて窓から身を乗り出して見回すと、笑い混じりに私を呼ぶ声が聞こえてきた。
 声は海の上からしていたのだった。

「あら。ついにお目にかかれたわ。こんにちは。妹がお世話になったわね」
 
 大きな弦楽器のように、柔らかく深みのある声が、風にのって運ばれてくる。まるですぐ耳元でささやくような声をうっとりと聞きながら、私は彼女の姿にくぎ付けになっていた。

 ちょうど夕日の最後のかけらが水平線に消えようとしていた。
 海面には茜色の光の道ができていた。
 空はすでに青から紫に変わりはじめていたけれど、海との境界線は黄金色に輝いていた。
 まばゆい黄金の光を背にして、太陽からのびている一直線の茜色に浮かんでいるのが彼女だった。
 くっきりとした黒い眉に、黒い瞳。海面にただよう黒い髪に包まれた裸体は光を受けてどこまでも白く、そして、尾が。
――青いグラデーションに彩られた、大きな尾が。
 グラデーションは、よく見れば一枚一枚微妙に色の違うウロコなのだった。
 それが暮れていく太陽の光と空の色をうつして、少しずつ色を変えながら遊ぶように揺れていた。

 こんなに美しいものを、私は生まれて初めて見たのだ。

 立ち尽くす私を面白そうに見上げて、彼女はもう一度同じ言葉を投げてきた。

「ついにお会いできたわね。こんにちは。妹がお世話になったわね」
「妹。……妹? だれの? あなたの?」
「そうよ。ついこの間までいたでしょう。口のきけない美しい娘が」

 そこで私は知ったのだ。
 口のきけないあの娘が、人魚の姫であったことを。私を愛して人魚の証である尾を捨てた上、誰よりも美しかったという声までも魔女に売り渡してしまったということを。
 彼女の話は、もちろん衝撃的だった。
 教訓を含んだ言い伝えにすぎないと思っていた人魚や魔女が実在したことに加えて、かわいそうな娘の決断には胸も痛んだ。
 しかし、それも全て彼女の柔らかな声に乗せて語られると、いつまでも聞いていたいおとぎ話にしか聞こえないのだった。

「妹が命をかけて愛した男の人ってどんな人なのかしらと思って」

 彼女は愉快そうに肩をゆすって私を指さした。
 
「君は、どう思った?」
「そうね」

 太陽が急速に光を失って、彼女の姿も消えかけている。

「まあ悪くないわ。今までみたことないかんじ」

 水音をひとつ残して、彼女の姿が海の中に消えていった。

・・・・・・・・・・

 それからの私の生活は、彼女を中心に回り始めた。

 船乗りが消えていたのは、彼女が私を海に誘い出すためにしていたことだった。しばらくすると、全員無事に戻ってきたし、それ以上の被害は出なかったので、このことは国民もすぐに忘れてしまった。
 船乗りたちは、人魚がたくさんいる綺麗な王国を見たと話していたが、本気にする人はもちろんいなかった。本人たちも、遭難した中で夢を見たのだと思ってるようで、そのうちに口にも出さなくなった。
 私だけが、信じた。
 彼女がいるのだから、疑う余地などない。
 海の底には彼女が暮らす美しい国があるのだ。

 私も、行きたい。
 彼女と一緒に連れて行ってはもらえないだろうか。
 
 そう思い始めるころには、国は少しずつ壊れ始めていた。

 妃となっていた隣国の姫は、私が彼女を見る時の目が冷たいと言って泣くようになった。悪いとは思ったが、彼女を見た後ではとても妃を愛することはできなかった。憎くなったわけではないが、単に疎ましかった。妃との時間は、そろって食事をする朝の時間が全てになり、その時にも、会話というものは全くなくなっていた。
 彼女の声を、他の女の声で上書きすることに耐えられなかった。
 国民の声にこたえる会議にも、だんだん出るのがおっくうになっていった。
 話し合いを何より重視していた、つい数日前までの自分が信じられないくらい、国のことにも民のことにも関心を持てなくなっていた。
 私を諫める大臣の声は、知らない国の言葉のように聞こえた。

「人魚の声には魔力があると申しますぞ」
 私が子どものころから世話してくれている執事が、ある時心配そうに話しかけてきた。
「もちろん、人魚などというものは迷信にすぎませんけれど……。最近の王は、あまりにも自分を失っておられる。海を眺める時間が長すぎます。まるで人魚の声に魅入られてでもいるようで……」
「そうだね」
 実際、言い訳をすることも面倒になっていた。
「知ってるよ。魔力があるんだよね。それで人を、海の中に引きずりこむんだ。その話はじいやが聞かせてくれたんじゃないか。私がうんと子どものころにね。大丈夫、ちゃんとわかってる」
「そうでございますか? それならよろしいんですよ。そうですよね。国のことを、真剣に考えすぎおられるだけなんですよね。けれど、くれぐれも……いえ、お体に障りませんようにね」
「ありがとう」

――わかってる。ありがとう。だけどもう遅いんだ。

 彼女の声の他は何も聞きたくないし、彼女の姿以外は何も見たくない。
 彼女が笑ってくれるなら、どんなものでも差し出せるのに、彼女は何も望まない。

 ただ、微笑みながら窓辺にやってきて、楽しげに泳いでみせたり、人魚の国に伝わるという複雑な歌を聞かせてくれるだけだ。

「あの子がいて、一緒に歌えたら、もっともっと綺麗に聞かせてあげられたんだけど」

 時折、彼女の瞳が揺れる。
 そんな時だけ、私はあの娘のことを思い出す。
 すっかり心から消えてしまった娘の記憶を、彼女と話すために必死でかき集める。

「どうしてあの娘は、声を失ってしまったのかな。一度でいい、そのままの姿で現れてくれたらよかったのに。そして私に歌いかけてくれたらよかったのに」

 一度、私はそうつぶやいた。
 心からの言葉だった。
 いつものようにゆったりとほほ笑んでいた彼女は、その時初めて目を見開いて私を見つめた。
 一切の感情が読み取れない、しんとした眼差しだった。

「あの子は、不器用な子だったの」

 絞り出すようにつぶやいたあと、ぽつりと言い加えた。

「あなたは優しい人ね。人間てみんなそう? それともあなたが特別に優しいのかしら」

 彼女が、あのことを提案してきたのは、次に現れた時のことだった。

――私と一緒にいたいのならね。
――出してから、おいで。
 
 彼女はそう言ったのだ。
 思えば昨夜のことなのか。
 時間の感覚が、妙に間延びしている。
 何しろ、いろいろなことをしなければならなかったのだ。

――出してから、おいで。

 だから私は出した。

何十年も私に仕えてきた料理長には暇を出した。
 妻である隣国の姫は私の国から追い出した。
 親交のある国々には絶縁状を出した。
 大臣たちには解雇通知を出した。

 そして私の国には、武器庫からありったけの火薬を出して、城の大砲から外に向けて大放出した。

 私の手の中には、もう何も残っていない。
 その分、心の中は彼女への思いだけで埋め尽くされている。
 こんなに身軽さと自由を感じられたのは、生まれて初めてのことだった。

「一緒に笑いましょう。私も嬉しい」

 背後の光の勢いは、少しかげってきたようだ。燃えるものは燃えつきてしまったのか。人々の叫び声だけが、暗さを増していく海に響いている。
 彼女が私に手招きしている。
 ついに、彼女に触れることができる……!

「約束を守ってくれたから、私も守るわ。一緒に海の国に行きましょう」

 火薬の塊が残っていたようだ。花火を思わせる、光のかけらが夜空に散った。
 彼女の肌が、鮮やかに染まる。

「いらっしゃい。私の手を取って。そうして一緒に海の国まで行けたなら、美しい尾をあなたにあげる」

 私は船の手すりを越えて、海に抱かれるように両手を広げて飛び降りた。
 いったん海中に沈み、ふんわりと浮き上がると、彼女が首をかしげて私を見ていた。
 私は夢中で彼女に手を伸ばす。
 彼女も応えて、私に触れる。

「さあ、落ち着いて。あなたにあげる尾は特別よ。魔女からやっとの思いで取り戻したの」

 彼女が私を胸に抱いてささやく。
 いつもは風にのって届く声が、今は吐息と一緒に流れ込んでくる。
 あまりの幸福にくらくらしながら、私はそれを逃さず聞くために耳をすます。

「あの子の尾よ。朝焼けの色をした、この世の何より美しい尾なの」

――あの娘の?
――なぜ、それを私に?
――私をそれほど大切に思ってくれているから、だろうか……。

 彼女の長いためいきが耳にかかる。

「行きましょう。海の底は少しだけ遠いけど、私と一緒だもの、がんばれるわよね」

 海に反射していた光はもうほとんど見えない。
 暗い海の上で、私は彼女と二人きりで旅に出るのだ。

「だから、私の国にはね。あなたの胸にはいっている空気。みいいんな」

 彼女の声がひときわ甘く響く。

「出してから、おいで」

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