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老夫婦が手に入れた、もう一度、新婚生活


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記事 : 鼓星(ライティング・ゼミ)

ビービービー、ビービービー、ビービービー……。マナーモードに設定したケータイがカバンの中でしつこく鳴っている。平日の昼間に電話してくるのなんて、どうせ十中八九、セールスの電話に決まっているから、普段は仕事中にケータイが鳴っても無視している。でも、その日は、電話を取らなければならない理由があった。

液晶には「母」の表示。
覚悟を決めて、通話ボタンを押した。

その前の週末に実家に顔を出した時に、父親が「なんだか、左手に力が入らない」と言っていた。病気でほとんど動けない母親に代わって、父親はもう15年ほど家事全般を引き受けているが、昨年80歳を迎え、さすがに老いが目立つようになってきた。「疲れが出ているんじゃないの? 掃除と洗濯はそれぞれ1日おきにして割り切って手抜きすればいいんだよ。今日はゆっくりお風呂に入って早く寝た方がいいよ」と最初は軽く受け流した。

ところが、さほど固く閉まっているとも思えないジャムの瓶のフタが開けられずに苦労している様子。チャンネルを替えようとして手にしたテレビのリモコンを危うく取り落としそうになるなど、いつもとは明らかに違う。呂律はしっかりしているし、おかしなことを言っているわけではないけれど、なんだか嫌な予感がした。

「もしかして、手が動かないのは脳から来ているんじゃない? 月曜日、必ず、お医者さんに行ってよ。あ、自転車はダメだよ。絶対にバスに乗ってね。もし、土日のうちに頭が痛くなったり、気分が悪くなったりしたら、月曜日を待たないで、すぐに救急車を呼んだ方がいいから」と念を押して、実家を後にしたのだった。

電話に出ると、母親の弱々しい声が聞こえてきた。「あのね、お父さんね、今朝、バスでクリニックに行ったんだけど、そこからそのまま救急車で脳神経の専門病院に運ばれたんだって。なかなか帰ってこないから心配してたら、今、やっとお父さんから電話があった」と言う。

ああ、やっぱり。

「それで、手術は今日なの?」
「まだ、検査の途中みたいだった。朝行ったクリニックでCTを撮ってもらったら脳梗塞らしい影が写っているから、すぐに入院設備のある病院に行きなさいって、救急車を手配してくれたんだって。行った先の病院で、MRIを撮るのを待っている時間に電話してきたみたい。他の検査も色々あって、これからしばらくは携帯も通じないって」

筋肉の病気で思うままに身体が動かせない母は、食事や着替え、トイレなど身の回りの最低限のことはできるものの、炊事や掃除などをする体力も気力もない。近くのスーパーですら1人では行けない。母親にとって、父親はライフラインのような存在だ。
入院して家に帰ってこなかったら。ましてや、深刻な脳梗塞で父親が寝たきりになったり、最悪、帰らぬ人になったら……。電話の向こう側から、母親の不安に押しつぶされそうな様子が伝わってきた。

実は、このところ、父と母の関係は、あまりしっくり行っていないようだった。
ライフラインのような存在でありながら、母は父に対して不満いっぱいで、毎週末、私が実家に顔を出すのを待ち構えるように、愚痴をぶちまける。
「お父さんの作る料理はマンネリ」
「スーパーで安いものばかり買ってくるから、毎日、まずい食事ばかり」
「男の人は、掃除の仕方がザツでイヤになっちゃう。角っこまで掃除機をかけてくれない」
「お父さんはせっかちだから、まだ私が食べ終わっていないのに、ご飯の後片付けを始める。毎日嫌がらせされているみたいで気が滅入る」
「お父さんが朝から晩までテレビをかけっぱなしにしているから、いつも音がしていて気持ちが休まらない」

ほとんど外出もできない母にとっては、家の中の出来事が世界のほぼ全てであり、小さなことまで目についてしまうのは仕方の無いことなのかもしれない。
でも、家事を全て引き受け、母を一人にするわけにはいかないと、泊りがけの同窓会旅行は断り、外出しても必ず夕食の支度に間に合うように戻ってくる父親にとっては、文句ばかり言われるのは不本意きわまりない。

母の愚痴に反論して、「まずいものばかりなんて食べさせてないだろう」「年金生活なんだから、贅沢ばかりしていられないんだよ。安いものばかりと文句言うな!」と声を荒げ、険悪な空気が流れるのが常だ。いい年した夫婦の言い争いに、娘の私はかなりウンザリしていた。
内心、父が脳梗塞になったのは、母からちくちくと文句を言われるストレスも一因なのではないかと思った。でも、急に弱気になった母親に、「大丈夫だよ。初診ですぐに大病院への転送手続きをとってくれるなんて、親切なお医者さんに当たってラッキーだと思わなきゃ」と明るく言った。

結局、夜になって父親本人から電話があり、緊急手術は必要がないこと、点滴で投薬治療しながら様子を見るので、入院は少なくとも1週間くらいになることなど、報告があった。しっかりとした滑舌で、脳の異常はそれほど深刻ではなさそうだ。なにはともあれ、最悪の事態は回避できた。
父との電話を切ると、今度は母から電話があり、「明日、下着とかタオルとか、必要なものを病院に届けに行ってくる」と言う。

家の近所のスーパーですら1人では行けない母親が、バスを乗り継いで1時間以上もかかる病院に行くのは不可能だと思って止めようとした。しかし、「家のすぐそばのバス停からバスに乗れば途中まで行ける。その先はタクシーで病院の入口まで行ってもらうから大丈夫」と言い張る。

母にとっては、冒険のような遠出だったに違いないが、タクシーの運転手さんの手を借りつつも、なんとか一人で入院グッズ一式を病院まで届けて、帰ってくることができた。その報告の電話は、前日の弱々しい声とは打って変わって、なんだか嬉しそうだった。
「お父さん、食欲もあるし、まあまあ元気だった。下着と一緒に、チョコレートと小さなお饅頭も入れておいたの。入院中、好きなもの食べられないと可哀想だから。看護婦さんに見つからないように食べなよと言っておいた」そうだ。

父の入院中、私は何度か食事を届けたり、買い物を代行したりしたが、母はなんとか1人で生活を乗り切った。
「今まで、全部、お父さんにやってもらっていたから、冷蔵庫に何が入っているかもわからないの。掃除機かけるのも休み休みやらないとできないし、病院から電話がいつかかってくるかと思うと、ずっと緊張していなきゃいけない。もう、頭の中がしっちゃかめっちゃか」と言いながら、なぜかいつもより元気そうだった。

結局、父親は手術せず、2週間ほどで退院した。
退院の日も、母親がバスとタクシーを乗り継いで、父親を迎えに行った。
あんなに父に不満ばかりぶちまけていた母が、病気になった父親をいたわり、世話を焼いている姿になんだか胸が熱くなった。

父親の退院後、まかせっぱなしにしていた食事のしたくを、ささやかながら母親も手伝うようになった。「お父さん倒れたら困るから、お母さんもゴハンの片付けしたり、煮物作ったりしているの」と嬉しそうに言う。父は、母の炊いた煮物を箸でつまみながら、「何年かぶりにり作ったわりには、旨いよ」と相好を崩す。

何歳になっても、人は誰かの役に立ちたいのだ。
父の病気は決して喜ばしいことではないけれど、でも、それをきっかけに、母は、ただお世話されるだけの存在から、誰かのために労を取り、感謝される喜びを思い出した。

父80歳、母77歳。
長年の結婚生活で思いやりを忘れかけ、お互いへの不満を溜めこんでいたけれど、人生の最終盤で、もう一度、新婚生活のような日々を手に入れた。
いたわりあい、支えあう。年をとってからだってシアワセになれるんだと思うと、私まで、なんだかシアワセな気持ちになる。

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2017-03-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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