プロフェッショナル・ゼミ

味付きゆで卵と誰かの男《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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【東京・福岡・京都・全国通信対応】《日曜コース》

記事:市岡弥恵(プロフェッショナル・ゼミ)

ペコ。
ペコペコ。

デスクに置いたスマホが音を出した。
営業から戻って、私のデスク周りはガチャガチャだ。乱雑としたデスクに放り出していたスマホが、書類に埋まってどこにあるか分からない。視線だけ音のする方に向けたが、何度も鳴り続けるスマホを見る気になれず、私は放置することにした。

「あのぉ、先輩……」

隣に座る、後輩のケンタが話しかけてきた。
顔はいいくせに、どうにもケンタは要領が悪い。営業マンとしての押しも弱い。そのくせ、生意気なことを言ってくるものだから、先輩社員から「数字あげてから言えよ」と言われるような奴だ。

「なに?」
「いや……、すんません。その……めっちゃスマホ鳴ってるっす」
「それが?」
「いやっ、ちょっとうるさいなぁって……」

眉間に皺を寄せながら、私はケンタに顔を向けた。ケンタは一応、申し訳なさそうな顔をしている。

「いえ、なんもないっす! すんませんっ!」

私は、ケンタがパソコンに向き直ったのを確認し、書類をかき分けスマホを見つけた。緑色の通知アイコンが、次から次に、上から下へと流れていく。ペコペコと情けない音を出し続けるスマホ。
サイレントモードにしないのは、クライアントからの着信を逃したくないからだ。一分一秒も無駄にしたくない。着信に気付かずに、折り返して、今度は相手が不在。そんな面倒なやりとりが嫌いだ。

グループ内で、何か盛り上がっているんだろう。そう思い、私はやはりスマホを放置することにした。

書類の山の上に置いたコンビニ袋の中から、味付きのゆで卵を取り出す。どうせ、今日も終電。このフロアに居るのはほとんどが営業マン。みんな大抵、帰社前に食材を調達して、こうしてデスクに戻ってくる。
バリッとゆで卵のパックを開けて、デスクの角に卵をぶつけた。

「それで、先輩」
「うん?」
「明日の商談なんすけど」
「あぁ」

ケンタが資料を開くのを見ながら、私の手は、ベシャッと潰れたゆで卵を弄んだ。ゆで卵についたその傷口から、べしゃりべしゃりと殻を潰す。このやり方が、一番殻を剥きやすい気がする。
ペコペコ音が止み、やっとスマホの画面が暗くなったのが目に入った。

「ある程度作ったんすけど、ここの数字がズレちゃって……」

上の空でケンタの声を聞きながら、私はゆで卵を潰す。
卵全体に、ヒビが入ったところで、私は一欠片をペラリと指で剥がした。薄皮も上手にひっついてくる。薄皮で繋ぎとめられた、硬い殻たちが、メリメリと剥がれ、徐々に白いツルリとした肌が見えてきた。蛍光灯の光を反射してテラッとした卵。
ゆで卵の、上半分が剥けたところで、私はパクリとそのツルツルした肌にかじりついた。

「聞いてます?!」

突然強気になったケンタの声に、私は足を組み直し、椅子と一緒にぐるりとケンタの方を向いた。モグモグと動く私の口を見て、ケンタは私が右手に持ったゆで卵に視線を移す。

「それ、好きっすね……」
「うん、悪い?」
「いや、悪くないっすけど。ゆで卵って……色気もなんもないっすよ……」
「頭使うと、カロリー消費するんだよ」

私は、やっと鳴り止んだスマホを手にとりながら答えた。

「どうせコンビニで買うなら、シュークリームとか……」
「甘いやつ、嫌い」
「えっ?! マジやばいっすよ、先輩。デートとか、どうするんすか?! パンケーキ食べたいっ。とか、可愛く言わないと!!」

私は、真顔でケンタの顔を見ながら、ゆで卵の下半分も剥き、パクリと一口で口に入れた。真顔でモグモグと口を動かしてみせる。

「うっ……。すんません……」

黙っていれば、可愛い顔をしているのに。
ケンタの話に付き合うのは面倒なので、こうやって真顔で対応しケンタを黙らせるようにしているのだ。

スマホの画面に目を戻す。
緑色のアプリの右肩の数字は、「34」となっていた。余程グループ内で盛り上がっていたらしい。私は、グループのメッセージを開く気になれず、画面をスクロールした。30件も未読のやり取りに追いつける気がしない。
新規のメッセージの中に、1件だけ紛れた特異なメッセージが目に入る。開くまでもなく、読めるその一文。
私は、一瞬固まってしまった。

いずれこんな日が来ることは分かっていたのだ。そして、その時どんな風に私が狼狽えるのかも分かっていた。だから、こうしてその時が、この面倒くさい後輩と居る時で良かったと思った。

——ごめん、バレたわ。

メッセージを開かずとも読めたその一文を、私は見ないふりをしてスマホをロックした。

「ねぇ、ケンタ」
「なんすか?」
「なんでこれ、殻ついてんのに、味がちゃんと付いてんの?」
「はっ?!」

開いたパックの中に投げ込んでいた、卵の残骸を手でつまみながら私はケンタに聞いた。

「味付きゆで卵。なんで殻がついてるのに、こんなに中の卵に味が付くの?」
「いや、知らんっすよ、そんなの……」

そうだよね……。
私はポツリと答えて席を立った。

「あれっ、先輩どこ行くんすか?」
「おしっこ」
「いや、だから、色気ってもんが……」

私の背中に向かって投げつけられた言葉を無視して、右手にスマホを握りながら、何十人もいるフロアを足早に歩く。営業集団のフロアは、ガチャガチャとうるさい。ひっきりなしに営業マンの携帯に着信が入る。パソコンのタイプ音がカチャカチャと重なり、何十人が使っていると、それだけでかなりの音になる。体育会系の営業マンなんか、ただでさえ声がでかい。女性営業は枕営業ばりに、可愛い声をはりあげる。汗の匂いやら、香水の匂いやら、タバコの匂いやら……。音も匂いも、目に見えるものも……。全てが混沌としているフロア。
しかし、だからこそ、プライベートの事など考える暇もないぐらい仕事に没頭してこれたのかもしれない。

フロアを出て、非常階段の扉を開けた。踊り場に蛍光灯が付いているだけの薄暗い非常階段。上に行こうか下に行こうか少し迷い、私は2階分上まであがった。このフロアには、別の会社が入っている。同じ会社の人間と会う事もないだろうと思い、私は踊り場の一番上に腰を下ろした。

スマホを開くと、緑色のアプリの右肩は「35」に変わっている。あれからもう一通来ていたようだ。
アプリを開き、例のメッセージを開いた。

——ごめん、バレたわ。
——ちょっと、話せる?

相手の画面では、「既読」のマークが付いてしまっているはずだ。しかし、私はそのメッセージにどう返信すべきか分からなかった。バレたのなら、しょうがないですねと割り切るべきか。それとも、そうですか、それではこれでお終いですねと終わらせるべきか。自分はどうしたいのだろうと思った。ぐるぐると同じところを回る脳みそ。どう考えたって、続けるのか、別れるのか、その2択しか私の頭の中には浮かんでこない。「別れさせられる」という考えがなぜか巡ってこないのだ。

膝に頬杖を付きながら、何を考えているのか分からないまま、ぼんやりと考えた。

一つ下の踊り場の蛍光灯の周りを、小さな虫が飛んでいるのが見えた。

***

男が既に、「誰かのもの」になっているのは最初から分かっていた。悪びれもなく、この男はその事を話してきたし、それを前提に付き合い始めたのだ。

肉欲。

多分、それだけだったと思う。下品な言葉を使ってしまえば、それだけだった。私にしても、男にしても。何かを期待していたわけではない。私のものになって欲しいだとか、そんなことも考えないはずだったのだ。だから私は、自分に言い聞かせたのだ。

「めんどくさい」と。

うんざりしていた。誰かを好きになるということに。
自分の心の中で、波風を立てたくなかったのだ。ただ、平穏な水平線がキラキラと反射する水面の状態でいたかった。経済的にも余裕ができて、自分がやりたいことはなんでもやれる。誰かに、何かをしてもらう必要もない。誰かに幸せにしてもらわなくても、自分で自分を満たせると思った。そして事実、私は一人でも満足できていたのだ。ただ、平穏に過ごせていた。

だから、必要ない。
はずだったのだ。

ただ、どうしても、一人じゃ埋められないものがあった。だから、そこに感情を伴わせるつもりなんかなかったのだ。

肉欲。

ただ、それを埋められさえすればいいと。

「お前、寂しくならないわけ?」
「は?」
「いや、いいけどさ、別に。そうやって独身やってるのもいいけどさ」

たまに夕食を一緒に食べるだけの、友人だった男。既に「誰かのもの」であった男。食事が終わり、歩いて駅まで向かっていた時だった。突然そう聞かれ、ただ心配してくれているのだろうと思った。

「うーん。体が寂しい」
「お前ほんと、そういうとこストレートだよな」
「しょうがない。体ばかりは」

いつものように、冗談まじりで話しただけだ。30歳も越えれば、独身でいることなんて笑いのネタにすればいい。ただ、いつものように軽く流したはずだった。

「ふーん」
「何よ?」
「ちょっと、付き合えよ」

そう言われ、突然手を引かれた。

街灯の下で、小さな虫がぴゅんぴゅん飛んでいた。
ポツポツとゴマを散らしたように、道路に虫が落ちている。右手を引かれながら、私はその虫から目が離せなかった。

玄関に入るなり、耳と髪の間から、生ぬるい手が入ってきた。すっぽりと自分の後頭部が手に収まってしまうのを感じならが、男の手はそんなに大きかったのかと思った。耳たぶを親指で触られながら、ぼんやりと玄関を眺める。男が選ぶはずもないような、アクセサリートレイが靴箱の上に置いてある。視界に入ってきた男の顔に焦点を合わせながら、私は男の口元を見た。夜になり少し伸びてしまったヒゲが、やはりゴマを散らしたようだと思った。薄い唇が私の下唇を吸っている。左手で私の頭を支えながら、右手で腰を抱いてくる男。何度か唇を吸われ、舌が入ってくる。とろりとした食感に、体が反応してしまう。唇から、耳たぶに移った男の口が、耳元で音を出す。

しょうがないよ。体だけは。

そんな事を思いながら、私は玄関の鍵を右手で探した。

心だけ。波風が立たなければいい。ただ、キラキラと光を反射する水平線のように穏やかでいられればいい。

右手で玄関の鍵を見つけ、私はガチャリと鍵をかけた。

***

一つ下の踊り場の蛍光灯の周りを、小さな虫が飛んでいるのが見える。
ペシペシと蛍光灯にぶつかっては跳ね返され、またそこに向かって飛んでいる。

ペコペコ。

右手に握っていたスマホがなった。

——腹こわしましたー?

ケンタだ。
ふと、現実に戻され、私は非常階段を降りた。

フロアに戻ると、腕組みをしてパソコンに向かっているケンタが居た。

「あっ、先輩」
「ごめん、明日の資料だっけ?」
「あっいやいや、そっちじゃなくて」

私は、席に座りながら、コンビニ袋を引き寄せた。
バリッとゆで卵のパックを開ける。

「それっす」
「卵?」
「なんで、味が染みるのか。殻が付いているのに」

私は、デスクの角にゆで卵をぶつけた。
べこっとついた傷口に、親指を押し付ける。

「卵の殻って、小さな穴があるらしいっす」
「うん」
「だから、水とか塩水とかは分子が小さいから……」

ケンタの話をやはり上の空で聞きながら、私はやはり卵の殻をベシベシと潰した。
あの人が、既に付き合っている彼女と結婚間近だったのは知っていた。あの日初めて、彼の家に行ってから、2ヶ月後には彼は婚約をした。

肉欲。

ただ、それだけだと、言い聞かせた。自分の心の中に嵐が吹かないように、私は固い固い殻で自分を覆ったのに。知らないよ、小さな穴があったなんて。

ベシベシと殻を潰し、卵全体に細かいヒビが入っていくのを確認した。
一欠片をペラリと指で剥がした。薄皮も上手にひっついてくる。薄皮で繋ぎとめられた、硬い殻たちが、メリメリと剥がれ、徐々に白いツルリとした肌が見えてきた。蛍光灯の光を反射してテラッとした卵。

「聞いてます?! 俺調べたんすけど、ちゃんと!」

少しむくれているケンタの顔をマジマジと見た。
夜10時を回り、やはり口元に少しヒゲが生えていた。

「これ、あげる」

私は、上半分だけ剥いたゆで卵をケンタに渡した。

「えっ、いらんっす」
「食えよ」

私はケンタに無理やりゆで卵を食べさせた。固い固い殻の下にあった、真っ白なツルッとした卵を。少しぽってりとした唇が、ツルツルの卵を齧る。もぐもぐと動くケンタの口を、やはりマジマジと見た。

「うまいっすね。すげー、殻の上から味付いてるほんとに。穴空いてるんすよ、この殻に」

ケンタは、下半分の殻を剥き、パクリと口に入れた。

***

「ごめん、遅くなった」

仕事が終わり、私は帰りながら彼に電話をした。

「いや、忙しいところごめん」
「バレたの?」
「多分……」

はぁっとため息を吐いている彼。電話口でライターの音が聞こえる。

「それで?」
「いや、だから、多分もう会うの難しい。暫くは」
「ふーん」

私はどうしたいのだろうと思った。
固い固い殻を潰して、つるりとした卵の私はどうしたいだろうと思った。知らない間に、小さな穴から入ってきたもので染みてしまっている私はどうしたいだろう。

「ごめん、でも、ちょっと婚約破棄とかになるのは……」

彼が電話口で、モゴモゴと言っていた。
自分勝手な人だと思う。
ごめんと言いながら、結局大事なことは自分からは何も言わない。「別れてくれ」と一言、言えばいいものを。

「ねぇ」
「うん?」

ふぅーとタバコの煙を吐いている音が聞こえる。

「好き」
「あっ、うん」
「だから、出してからまたおいでよ」
「え? 何を?」
「婚姻届」

そしたら、浮気相手から愛人になるよ。
全力で。

街灯の下で、虫がぴゅんぴゅん飛んでいるのが見えた。
道路にゴマを散らしているように虫が落ちていた。

※この物語は、フィクションです。

***

この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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