プロフェッショナル・ゼミ

春の波打ち際で《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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【東京・福岡・京都・全国通信対応】《日曜コース》

記事:市岡弥恵(プロフェッショナル・ゼミ)

海に帰りたいと思った。
そしたら、全部忘れられるような気がした。寒い冬が終わり、トレンチコートだけで出かけられるようになった青空を見て、やっと私はその太陽の下でまた新しく始められるのではないかと思った。
まだ、水は少し冷たいだろうか。裸足で砂浜を歩くには、まだ早いだろうか。それでも、足の指に入ってくる砂を噛み締めたかった。波にさらわれる砂と一緒に、海に連れて帰って欲しかった。
人魚のように、声を失ってもいいと思っていた。何かと引き換えに、手に入るならそれでいいと思っていたはずだったのに。それなのに、失ったものが大きすぎて、私はもう一度海に戻りたかったのかもしれない。

スマホを取り、着信を鳴らす。
やはり応答がないのを確認し、私は別の番号を呼び出した。2コールも鳴らないうちにとってくれる相手。
眠そうな声が返ってくる。土曜の午前中。きっとゆっくり寝ていたかったはずなのに、こうして私の電話に出てくれる。

ねぇ、一緒に海に取りに帰ってくれないだろうか。
私があそこで、失くしてもいいと言ってしまったものを……一緒に取りに行ってくれないだろうか……。

***

浮気されているのには、だいぶ前から気づいていた。
気づいていたのに、知らない振りをした。言ったところで、信じろって言われるだけだと分かっていたから。これまでの男がそうだったように、上っ面だけの言葉を並べて、ただ信じろと言い、抱きしめてくるんだろうと思った。そして乱暴にキスをするんでしょう? 激しくすれば、女は愛されていると感じると盲信している。そんな男達の態度が、悲しくてたまらなかった。

「ねぇ、ここ誰か座った?」

最初に聞いたのは、こんな言葉だった気がする。いつも座る助手席のシートの位置が違う。なんとなく背もたれが、倒れすぎている気がする。私は自分も運転するせいか、目の前があまり見えないのは好きじゃない。人が運転する車だからこそ、前が見えないと不安なのだ。だから、助手席に座った時に、ダッシュボードがいつもよりも邪魔な高さにあったのが気になった。
たったそれだけのことだった。特に何かを疑うことはなかった。誰かが座る事だってあるはずのこの助手席に、まさか他の女が座っていたとは思ってもみなかったのだ。

「え? 誰も乗せてないよ?」

本当は、あの時少しだけ疑っていれば良かったのかもしれない。
梅雨が終わって夏が始まったばかりの頃。エアコンよりも、窓を開けてドライブした方が気持ち良かった季節。風でなびいていた前髪から、左眉が上がるのが見えたのに……。チクリと感じた違和感を私はそのまま見ない事にして、窓の外から景色を眺めてしまった。綺麗なもの見ていた方がが、良かった気がしたのだ。ただ、自分の世界にそんな嫌なものを、迎え入れたくなかった。

確信に変わったのは、八月入ってからだ。
仕事で会えないという日が増え、連絡が取れない時が多くなった。それでも仕事だと言われれば、しょうがない。やはり私には、信じる以外の選択肢しかない。それに、そんな疑り深い女になんかなりたくない、というプライドも出てくる。心の中にモヤモヤとしたものを抱えながら、なんとか会える日に会いに行く。

「仕事忙しそうだね」
「あぁ、うん。色々任されることも多くなったから」

私と同じ、29歳。
そうだろうな、と思った。私の会社の同期の男性だって、ガムシャラに働いている。一つのチームを任されるようになり、30代でマネージャーや課長代理とかになれるよう必死で頑張っている。頑張らなくちゃいけない時期なのは分かっていた。むしろその年齢で、暇な方がこっちだって不安だ。

「そうだよね。あんまり、無理しないでね。明日どうする? どこ行く?」
「あぁ、ドライブでもする?」
「ほんと?! 行く!」

ただ素直に嬉しかったのだ。
このところ、会うのはいつも夜ばかりだった。一日中一緒にいられるのなんて、いつぶりだろう。どこかに一緒に行きたかったし、何より「連れて行ってくれる」ということがすごく嬉しかった。
観たい映画があっても、行きたい場所があっても、会えない事が分かっていたから、結局友人と行っていた。
どれだけ飢えていたのだろうかと思う。
付き合ったばかりの頃は、あんなに毎週末出かけていたのに……。お互い環境が変わる事も分かっていたし、飽きや慣れが来る事も分かっていた。だから、徐々に会えなくなるという変化も、それは当たり前の事だったのかもしれない。

「どこ行きたい?」
「海!!」
「お前ほんと、ドライブって言うと、海だよな」

だって、好きなんだもん、海。
いろんな事があっても、あの広い海を見れば、どうでも良くなる。冬に行くと激しく荒だっている時もあるけれど、夏の海は大好きだった。全部を受け止めれくれるような、深さを感じる。だから、明日は絶対海に行きたい。

「なら、早く寝るぞ。シャワー浴びておいで」
「うんっ」

私はとても可愛い顔をしていたんじゃないかと思う。この時までは……。

シャワーを浴び終わって、洗面台に立った時だった。
化粧水の瓶が空っぽになっていることに気付いた。二週間前の日曜日に来た時、なくなりそうだからと洗面台の下に新しい化粧水を置いていった事を思い出す。私は、タオルで髪をぬぐいながら、膝を曲げ洗面台の扉を開けた。

見なければ良かったと思った。

きっと彼は、ここにこんな物が置いてあるなんて気づいてない。自分が浮気をしていることなんかバレていないと思っているはずだ。
そして、隠し通せると。

そんなの男の都合だ。
浮気相手の女だって、割り切って付き合っている。彼はきっとそう思っているのだろう。でも、そうじゃないみたいだよ……。

私は、新しい化粧水だけを取り出し、扉を閉めた。
新品の箱を開けようとする。
分厚い楕円型のテーブを剥がしたいのに、指が震えてなかなか開かない。結局私は不器用に箱を破り、化粧水を取り出した。

「髪生乾きじゃん」
「うん。暑いから諦めた」

長い髪は、乾かすだけで15分もかかる。夏場はせっかくシャワーを浴びたのに、ドライヤーの熱でまた汗をかくものだから、諦めてしまう。

「ここで乾かしてあげようか?」

私は、何も答えられなかった。
もう一人の女にも、同じ事を言っているのではないかと思ったからだ。

彼はソファから立ち上がり、洗面台からドライヤーをとってきた。

「ほら、ここならクーラー効いてるし大丈夫だろ」

そう言いながら、またソファに座り、私に床に座れと言う。

「扇風機もつけてやるよ」

冗談めかしながら、私の髪にドライアーを当てる。左手で頭をわしゃわしゃとされ、髪がボサボサになっていくのが分かる。付き合いたての頃も、こうして髪を乾かしてくれていた事を思い出した。
ずっとこんな風に笑ってくれてると思っていたし、会えるものだと思っていた。お互い変化はあるかもしれない。それでも、ずっとあの頃のように変わらずに笑ってくれると思っていた。

「もうちょっと優しくしてよ……」

あまりにも雑に乾かされるものだから、思わず言った。

「えぇ? 聞こえない!」

ドライヤーの音で聞こえないのか、彼が顔を近づけてくる。

「優しくして! ボサボサ!」

ドライヤーを切り、笑いながら彼は言った。

「はは、ごめんごめん」
そうして、私の髪を手ぐしで整え、おでこにキスをしてくる。何を考えているんだろうと思った。他の女の事を抱きながら、この人はどうして昔みたいにやれるんだろうと。
そしていつもと変わらず、キスをしてくる。乱暴でもなんでもなく、ただいつも通りに優しく。

——ねぇ、それって……ずるいよ……。

キスって、本当の事を見えなくする何かがあると思った。洗面台の下で見たものも、泣きたい子供のような私の気持ちも。だからやっぱり好きだと思わせる。

ねぇ、好きなんだよ。ほんとに。

翌日、海に着くと私はやはり思った。
人魚のように、声を失ってもいい。何かと引き換えに、彼との時間が手に入るのならそれでいいと思った。

ミュールを脱いで、火傷をしそうなほどに暑い砂浜を歩いた。足の指の間に、砂が入りこんで来る。波打ち際まで行くと、砂がサラサラとさらわれていった。足元をすくわれそうになりながら、私は思った。
まだ、海の底には行きたくないと。もう少し、ここに居させてくれないだろうか。その代わり、私の心はここに置いていってもいい。洗面台の下で見つけた、旅行用の小さな化粧品たちも、子供のように泣きたい私の気持ちも、ここに置き去りにしていく。だから、もう少しだけ、この人の顔を見させてくれないだろうか。そう思ったのだ。

***

海に色んなものを置いて、秋と冬を過ごした。
ただただ、生きた気がする。
お互いの人生。
そこに少しだけ交差する生活。
その少しの時間、彼が昔の様に優しくキスをしてくれるのであれば良かった。

——福岡戻ることになったよ! 4月からそっち! 3月に家探しに行くけん、そん時会おうや。

一番寒い2月が終わって、3月になっていた。昼間はコートを脱いでも過ごせるぐらい暖かくなってきた。それなのに、今日は突然また冬に戻ったように寒い。
金曜の夜、仕事が終わり博多駅に向かっていると、大学時代の男友達が、東京から帰ってくると電話をくれた。大学時代いつも一緒にいたグループの一人だった。裏表のない、すごくいいヤツ。笑う時は笑って、男のくせに泣く時は豪快に泣く人だった。

——ほんと? うん、日程決まったら連絡ちょうだい。
——おう! お前また変な男と付き合っとらんめーね?

そうだった……。
この人は、大学の頃からの私の恋愛を知っている……。なんだか可笑しくなった。成長していない私に、昔から変わらずこうして心配してくれる友達。

——うん、大丈夫だよ。
——お前の大丈夫は、大丈夫じゃないけんね。まぁ、今度聞くわ!

電話を切ると、スマホの画面にポツリと雪が落ちてきた。
3月に雪……。

もうすぐ冬が終わるのに。もうすぐ春が来るのに……。

私は、博多駅に向かって歩く人々の流れの中で、足を止めた。
空を見上げると、真っ黒な空から、小さな雪がハラハラと無数に落ちてきていた。街灯に照らされて、キラキラした粒がゆっくり降りてくる。
広げた掌に、冷たい雪が落ちては、直ぐに溶けていった。

季節の終わりと始まりが混じり合う、そんな時に降る雪に、私は泣いていいよと言われている気がした。私は、とても大切なものを、海に置き去りにしてきたんじゃないかと思った。本当は、引き換えになんか出来なかったものを……。

***

翌朝起きると、カーテンの隙間から柔らかい日差しが差し込んでいた。
ベランダに出ると、冬に植えていたプランターのチューリップが、少しだけ開いていた。昨日が、最後の冬だったかな……。

海に帰りたいと思った。
そしたら、全部忘れられるような気がした。
寒い冬が終わり、トレンチコートだけで出かけられるようになった青空を見て、やっと私はその太陽の下でまた新しく始められるのではないかと思った。
まだ、水は少し冷たいだろうか。裸足で砂浜を歩くには、まだ早いだろうか。それでも、足の指に入ってくる砂を噛み締めたかった。波にさらわれる砂と一緒に、海に連れて帰って欲しかった。

スマホを取り、彼氏に電話をした。
やはり出ることはない。きっと今頃は、もう一人の女とまだベッドの中で眠っている。

私は別の番号を呼び出した。2コールも鳴らないうちにとってくれる相手。
眠そうな声が返ってくる。土曜の午前中。きっとゆっくり寝ていたかったはずなのに、こうして私の電話に出てくれる。

——どげんしたやぁ?

昔からそう。私から電話をすると、何かあったんじゃないかと心配してくれる。

——ねぇ、4月帰って来たら、海行こうよ。
——海や、分かった分かった。お前ほんと昔から海好きやな。

どこかで言われたようなセリフだと思いながら、私はやはりそんなに昔から海が好きだったんだと安心した。

一緒に海に取りに帰ってくれないだろうか。
男としてとか、そんなこと言ってるんじゃない。ただ本当の私を知る一人として、一緒に迎えに行ってくれないだろうか。
私があそこで、失くしてもいいと言ってしまったものを……一緒に迎えてくれないだろうか……。
足の指の間に入ってくる砂を噛み締めながら、波打ち際まで歩いて、そのまま海に連れて帰ってほしい。

そしたら、また自由に泳げるんじゃないかと思う。足がなくなって、ヒレになっても、それでも私は泳ぎたい。

そして、一緒に泣いてくれないかな。
昔みたいに、豪快に。

※この物語は、フィクションです。

***

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