プロフェッショナル・ゼミ

通帳を落としたら、甘い罠の入り口が見えた《プロフェッショナル・ゼミ》


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【東京・福岡・京都・全国通信対応】《日曜コース》

記事:めぐ(プロフェッショナル・ゼミ)

ない……。
銀行の通帳が、ない。
いつもの場所にないのだ。
たしかに、この引き出しの、このファイルの、このポケットの中に入れていたのに。
どんなに探しても、ない。
一瞬にして、体中の血がひいていく。 
ごそごそとデスクの引き出しからファイルを引き抜いては、パラパラめくり、パタンと閉じる。
関係のありそうなファイルは、すでに3回はリピートした。
しかし、どこを探しても、ない。
背後から、上司がいぶかしげにこちらを見ている気配をひしひしと感じる。
あぁ、これはまずい。とてもまずいことになった……。
これが、残高が限りなく0に近い私の通帳だったら、まだよかった。
いや、むしろそうであってほしかった。
しかし、私が探しているのは、会社の通帳。しかも、残高は1,200万円ある。
さらに、パスワードが書かれたメモが通帳に挟まっている可能性が高い。
あぁぁぁ、バカだ。私は大バカ者だ。
生暖かいような、気持ちの悪い汗がじっとり流れるのを感じる。
今すぐに、時の流れも、人の動きも、リモコンで一時停止をしたい気分だ。

お願い、拾われていないでいて。
お金、引き出されていないでいて。
そして、どうか上司に気づかれませんように。

とにかく、何とかしなくちゃ。
その「何とか」がなんなのか、空っぽの頭をフル回転させて考えていると、カラカラとむなしい音が聞こえてきて、さらに焦る。
そうか! 通帳の利用停止の手続きだ!
こんな当たり前なことを思いつくのに3分かかってしまった。
しまった、タイムロスだ。
今こうしている瞬間に、誰かが引き出しているかもしれない。
そう思ったら、居てもたってもいられなくなって、財布と携帯と、その銀行口座のキャッシュカードを持ち出して会社を飛び出した。
誰にも見つからないようにこっそりと、銀行のお問い合わせセンターに電話をかける。
「はい、いかがいたしましたか?」
「すいません! 通帳を紛失してしまいまして! とにかくできるだけ早く利用停止をしたいのですが!」
こうゆうクレーム口調のお客様の対応をしたことは私も何度もある。その度に、もっと穏やかにいれたらいいのにね~、なんて呑気に思ったものだ。気を荒立ててもしょうがないのに、と。
それなのに、今、そんなクレーマー的な物言いをしてしまっている。
相手は何も悪くないのにこんな言い方してしまっている自分が、なんだか浅ましい存在に思えてきた。
けれど、そんな私にも電話口のお姉さんは優しかった。
きっと1日に何度も同じような対応をしているのだろう。
彼女は、温かく慰めてくれているかのような優しい声で、こちらの状況を聞き出してくれて、その上これからの手続きについて丁寧に教えてくれた。
ありがたかった。
会ったことも、顔も見たこともないけれど、彼女は女神だ、と思った。
この女神のおかげで、とりあえず「通帳の利用停止」という第一段階はクリアした。
今この時から、世界中の誰もが、どんな偉人でさえもあの口座の通帳は利用できない。
お姉さんの力はすごい、とやけに感心した。
しかし、まだ安心はできない。

次の問題は、1,200万円の預金が無事であるか、だ。
1,200万円すべて、見知らぬ誰かに引き出されていたら……。
考えただけでぞっとする。
もしかして、私は会社を辞めなくてはならなくなるのではないか。ふとそんなことが頭をよぎった。
もしそうなったら、今までお世話になった先輩や同期、それに指導してきた後輩たちに、なんて説明すればいいのだろう。
「会社の通帳失くして、1,200万円被害を出してしまったので、辞めます」
いやいや、そんなのダサイ。ダサすぎる。
先輩、同期はまだしも、後輩には合わせる顔がない。
私は、新人の研修を担当しているのだ。
大学を卒業して間もない22~23歳に、社会マナーをはじめ会社のルール、営業業務について教えている。
その中で、もちろん、書類や重要情報のセキュリティについても指導をしている。
そんな私が、だ。
通帳失くしました、しかも通帳に暗証番号を挟んでました、だなんて言ったら完全に笑い者だ。
ただ、過去にさかのぼることはできない。
引き出されているか、引き出されていないか、2つに1つ。
祈るようにして、キャッシュカードをATMに差し込む。
残金照会のボタンを押す。
入試の合格発表を見るかのような気分だ。
ピ…。
「残高:1,200万円」
よかった……。
ホッとして、全身の力が抜けた。
運が良かった。ひとまず安住の地を得た、そう思った。
これでチャラだ、と。
しかし、現実はそう甘くない。

ホっとした私は、さっき「クレーマーな私」が聞き逃した「通帳再発行の手続き」をもう一度確認するために、あの女神の彼女に二度目の電話をしていた。
ATMの前で。
そう、会社の最寄りのATMの前で。
安心して気分がよくなった私は声が大きかった。
完全に気が大きくなっていた。
そんな私の前に、急に大柄な男性が立ちはだかったのだ。
電話中の私は、彼の顔を見てたじろいだ。
……上司だ。

あわよくば、すべて完了してから上司に報告をしたかった。
もっと言うと、何も被害がなければ報告をしなくても大丈夫なのではないか、という下心があったことも否めない。
いずれにしても、彼と話すのは今、ここではない。
それなのに、彼はずっと私の電話が終わるのを目の前で待っている。
まるで番犬のように。
電話が永遠に終わらなければいい、と思った。
そんな願いは叶うはずもなく、女神は最後まで優しく丁寧に今後の手続き方法を教えてくれ、電話は静かに終わった。

「お前、ここで何してるんだ? 声が聞こえてお前がいるのに気づいたわ。何してるんだ?」
上司からの先制攻撃だ。
「さっき、血相変えて何かを探してたろ? ただ事じゃない、すごい剣幕だったぞ」
「はい……」
もはや、さっきまでの気が大きい私はもうどこにもいない。
どうやら、彼は遅めのランチに向かう途中で、たまたま私の機嫌のいい大きな声を聞きつけたらしい。
そして、ファイルを次々に取り出してはパタンとする「あの」一部始終を見られていた。
……やはりそうか。そりゃそうだよな。
そうと分かると、今の私に黙秘権というものはない。

「実は、通帳をなくしてしまいまして……」
おそるおそる、上司の顔を見上げる。
「あぁ、やっぱりな。そうだろうと思ったよ。それで、大丈夫なのか?」
「はい、今さっき通帳の利用停止が完了しまして、残高も減っていないことを確認しました」
そして、今後の手続きについて簡単に説明をした。
怒られるだろうな、と思った。
100%非があるのは私だ。受け入れるしかない。今後の対策をしっかり報告しよう、と頭の中はその準備をしていた。
そしたら、彼は意外にも優しく笑って、
「そうか、それならよかった。困ったことがあったら、一人で抱え込まないですぐ相談しろよ。大丈夫だから」
と言った。
正直、そうくるとは全く思っていなかったので驚いた。
そして、その一言に救われた気がした。
なんだ、なんでも話していいのか、と。
それと同時に、分かった。
なぜ最近、上司を自分の家族のように思ってしまうのか、が。

取引先との打合せの時、上司が冗談や相手方が困るようなギャグを言うと「もう、またそんなこと言って。恥ずかしい」と、父に思うそれを自然に思っていた。
マラソンの結果がよかったとドヤ顔で自慢する上司に対して、「えー、どうせまぐれでしょ」と兄に対して思うそれを自然に思っていた。
そして、今回のことは母に思う感情と似ていた。
私の母は、私のことをよく見ていてくれている。
ウソをついても、そのウソは母にはいつもばれてしまう。
私が甘ったれたことを言っていたら、「またそんなこと言って! ちゃんとしなさい!」と言う。
弱っていたら、「いいのよ、そんなに頑張らなくて。大丈夫」と言う。
社会人になって仕事に忙殺され、何もできなくなってしまって、自然に涙が流れるようになってしまった時はこう言った。
「誰に認めてもらわなくてもいいじゃない。私があなたを認めているよ。一人でがんばらなくていい。抱え込まないで」と。

この母のセリフが、今さっき目の前の上司の言葉とリンクする。
社会人になると、家族といるよりも仕事をしている時間の方が長くなる。
そして、会社の人と一緒にいることが長くなる。
同僚と仕事をするうちに、その人がどんな性格で、何が得意で不得意か、手に取るように分かる。
上司と部下となれば、それはなおさらだ。
仕事をするうちに、信頼関係も深まっていく。
この仕事ならこいつに任せられる、こいつなら完璧にこなしてくれるだろう、という上司の気持ちが伝わってくるのだ。
それに応えようと、こちらも多少無理をしてでも成功させようと頑張る。
その繰り返しを毎日、会社のデスクの島で行っている。
そのうち、その信頼関係は、だんだんと家族のそれに似てくる。
男性同士であれば、きっと「三国志」の劉備、関羽、張飛の3人が義兄弟の契りを結ぶような感じだろう。
しかし、男女となるとそうはいかない。
どこかのタイミングで、どちらかの色気がほんの少しでも混じってしまうことがあるのだ。その途端に、一気に違う方面に転落する。
お互いを理解し信頼関係が厚いからこその転落。そんな甘い罠が会社生活にはいつでも潜んでいる。
甘い罠なんてどこにあるのだろう、と思っていたが、その1つをついに見つけてしまった。

そんなことをぼんやり思っていたら、思わずクスっと笑ってしまった。
「そうですね、これからはすぐに相談します!」
「おいお前、なに笑ってるんだよ! ちゃんと反省しろ」
誤解されると困るので一応言っておくが、私と上司の間には、1mmもそんな色気は存在しない。
けれど、気を許したときが一番危険なのだ。
車の免許を取って、運転に慣れたころに事故を起こすのと同じように。

いや、そんなことより、二度と通帳は落とさないようにしなくてはいけない。
そして、これからは暗証番号は紙ではなく、頭の中にしまっておこう、と新人に言っているそれを改めて心に刻み込んだ。

***

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