プロフェッショナル・ゼミ

隣国の若い友人から届いた訃報 旭博曾祖父は日本人だった《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:山田THX将治(ライティング・ゼミ プロフェッショナルコース)

今年の3月上旬、台湾の知り合いから訃報が届いた。
「日本より桜の季節が早い当地です。
先日、我が家の曾祖父 楊旭博(日本名:西山旭博)は、好きだった桜の花と共に、102年の人生を収めました。
生前御逢いした貴殿の事を、そして日本の事を、死の直前に散りゆく桜を見ながら、想い出していたようです。何事か呟いていました。
報告が遅くなり、大変申し訳無い事で御座います。
落ち着きましたら、曾祖父の位牌を若い頃過ごした日本へ連れて行きたいと存じます。
其の節は、改めて連絡させて頂きますので、宜しく御願い申し上げます。
 楊文博」(原文・儘)

文博とは、6年前の初夏に出逢った。とある、食品関連のセミナーだった。
業界のセミナーの常で、たまたま隣り合わせ者の同士は、挨拶しながら名刺交換をする。その時もそうだった。
小生は、隣の席に座った若いカップルと挨拶し、名刺を交換した。頂いた名刺は「台日食品貿易株式会社 取締役 楊文博」とあった。流暢な日本語を操る文博に、
「台湾からいらしたのですか。日本語がお上手ですね」と、社交辞令で言った。
文博の一家は、戦前から食品輸入の会社をしており、彼はその四代目だった。日本の大学で学んでいて、日本語はほぼネイティブの発音が可能だった。台湾の男性にしては長身で、見た目は丁度、最近結婚した卓球の福原愛選手の旦那さんに似ていた。とてもハンサムな男だ。
横に連れていたのは、結婚したばかりの奥さんで、こちらも文博に負けないくらいの美人だった。

文博夫婦とランチを取りながら、日本へはよく来られるのかと聞いてみた。
「三月に結婚したばかりなんです。仕事が忙しくて、新婚旅行に行けなかったので、このセミナーに理由を付けて二人で日本にやって来ました」
文博は、頭を搔きながら答えた。
「そういえば、先日の震災の時は、貴方がたの国から多大な援助を頂いて、大変有難う御座います。日本人として、お礼を言います」
小生は、思い出した様に言った。すると二人は、同時に目に涙を溜め
「とんでもないことです。そのような事を初めて言って頂けました。日本との貿易をしている者として、とてもとても心配でした。今回日本に来ることも、大震災直後なので、友達には心配されました。でも、台湾大地震の時に最も助けて頂いた日本に、恩返しするのは当然のことだし、こんな時こそ日本の方々へ直接お礼が言いたかったのです。
山田さん、代表して受け取って下さい」
日本を代表するなんて、大それたことだったが、なんだか有難い気持ちになった。
それにしても、この台湾の若者は、何でそんなに日本を贔屓にしてくれるのか、少しだけ不思議に思った。
セミナーそのものは、通り一遍の内容であまり参考にならなかったが、二人と出逢えたことが、唯一の収穫だった。

翌々日、時間が空いた小生は、二人を行きたがっていた鎌倉へ案内した。まだ、中国本土からの旅行者がまだ少なかった時だったが、文博の日本語が大変うまかったので、二人は苦も無く周りに溶け込んでいた。
若い奥さんは、高徳院の大仏の大きさに驚き、近くで食べた‘アイスどら焼き’をとても気に入っていた。
丁度、長谷寺の紫陽花が見ごろで、文博は自慢の美人妻をモデルにし、紫陽花をバックにして、盛んにシャッターを切っていた。また、休憩に立ち寄った‘鎌倉ミルクホール’というレトロな喫茶店を「台北でも流行りそう」と言っていた。
帰りに、横浜の中華街で一緒に夕食を取った。これも、地元よりずっと美味しいと喜んでいた。
「日本人向けにアレンジした味が好きなんて、文博はほとんど日本人だね」
小生は、何だか嬉しくなって言った。

帰国した文博からは、丁重な御礼メールがすぐに来た。義理堅い男だ。

次の年の2月、文博からまた、メールが来た。
「山田さん
御無沙汰致して居ります。訪日の際は、大変お世話になりました。有難う御座います。
さて、この度、春節を迎えたおめでたい日に、新たな家族が誕生いたしました。
生まれた時の体重が、3,500gを超える大きな男の子です。
妻も産後の肥立ちが良く、毎日育児に励んでいます。
私も、これから一層仕事に対する励みになります。

お忙しい山田さんの事なので、御時間はなかなか取れないと思いますが、もし、御時間に余裕が出来ましたら、一度台湾まで御運び下さい。
家族も、山田さんにお会いするのを、楽しみにしています。

その節は、是非、台北を案内させて頂きます。

楊文博」(原文・儘)
小生は、文博と出逢った時と同じ初夏に、何とか時間が取れそうだと返信した。

約束の初夏になった。
運良く、6月の第二週目の週末は、何も予定が入らなそうだった。ネットで調べると、金曜日の午後東京発・日曜日の早朝台北発のパックなら、ホテル代込みでなんと29,800円(!)というのを見付けた。どうせ、台湾へ行くのは二度目だし、今回は文博の子供にお祝いを渡すだけだと考え、直ぐに予約した。
文博に連絡を入れると、喜んで空港まで出迎えてくれるとのことだった。

海外旅行とはいっても、実質二日程だし、今回は誰にもこの旅行の事を言っていなかったので土産なんぞを買う必要もなく、最小限の荷物だけにした。これなら全て、機内に持ち込めるので、荷物待ちの時間が節約出来る。しかも、出発が成田ではなく羽田であったのも、とても楽だった。エバー航空(台湾名:長英航空)という、格安専門の航空会社だったので、飛行機には期待してはいなかった。たった、3時間のフライトなので、我慢出来る範囲だと考えていた。
意外なことに、機内食が出た。味は、御世辞にも美味いとは言い難かったが、出ただけましだと考えた。
着陸したのは、松山(ショウザン)空港。通常到着する桃園空港と違い、小さな空港だった。しかし、台北の中心部から車で15分程度の便利な場所に在った。丁度、羽田や板付空港の感じだ。便利なので、次回からも訪台の折にも、ここにしようと思った。
余りの狭さに、着陸時の機頭映像にハラハラしてしまったが。

文博は、約束通りに出迎えてくれた。愛車のBMWで、小生をホテルまで連れて行ってくれた。チャックインを済ますと、荷物を置いただけで直ぐに実家に案内してくれた。奥さんとお子さんも、文博の実家で待っているらしい。
車で30分程の郊外の高級住宅地に、実家は在った。立派な門構えの、日本でもよく見掛ける様な、高級住宅だった。

玄関では、文博の御両親が迎えて下さった。御両親共、あまり日本語をお話にはならなかったが、一目で親日的と感じる雰囲気だった。流石に、日本と貿易をしているだけの事はある。
客間に通された。そこには、文博の奥さんとお子さんが待っていてくれた。誕生祝いを渡すのもそこそこに、文博が両親に小生を紹介してくれた。おおよそ、小生と同世代だった。

暫くすると、長身の老人が現れた。文博の曾祖父だ。息子である、文博から見ると祖父は既に亡くなっているとのことだった。
180cmを超える長身で、立派な口髭と白髪ばかりだが豊富な毛量でピンと背筋を伸ばしたその老人は、日本式の挨拶をした後、流暢な日本語で語り始めた。
「山田さん、遠い所をお越し頂き誠に有難う御座います。
私(「ワタクシ」と発音された)、文博の曾祖父で楊旭博と申します。今年で齢(よわい)満96になります。数えで33歳まで、帝国陸軍の大尉を務めておりました。日本名を、西山旭博と申します」
どうりで、背筋が伸びた長身の老人の訳だ。
それにしても、当時、日本から強制されたはずの名前まで名乗るとは、どんな感性の方なのかなと、小生は不思議に思った。

旭博曾祖父は、小生に対し一人で語り始めた。横に居た“成博”と命名された赤ん坊は、すやすやと寝ていた。旭博曾祖父は、老人にしては耳が遠くなく、腹から出るよく通った声だったが、決して大声にはなっていなかったからだ。
なんでも、旭博曾祖父の先祖は、高地に住む‘高砂族’という民族の出身で、高尾族の特徴で背が高いそうだ。生まれた時、台湾は日本統治下だった。旭博曾祖父の父は、日の丸にちなんで名前に“旭”の字を付けてくれたそうだ。
幼い頃から身長が高かったので、陸軍に進んだそうだ。本当は、海軍の航空兵に志願したが、背が高過ぎてハネられたそうだ。当時の航空機は、コクピットが文字通り狭く、背丈が重要な選考基準だったそうだ。
「山田さんは、身体が大きいから陸軍なら‘甲種合格’だったでしょうなぁ」
と、笑顔で語ってくれた。当時の日本人の体格は、貧弱だったらしい。
「私の祖父は、戦時中すでに中年だったので、徴用には取られたものの、徴兵はされなかったそうです。1900年生まれでしたから。ただ、祖父母の兄弟には、戦争に行った者が居ります」
本当は、陸軍の士官学校へ進んだ大叔父が居たり、硫黄島と南方で戦死した者、シベリアに抑留された者も居たが、旭博曾祖父の感情を害する恐れが有ったので、語らずにおいた。

当時の写真も、見せて頂いた。軍服姿の凛々しい若者時代の写真だった。長身だったので務めたのであろう、連隊旗手姿の物も有った。旭博曾祖父は、名前の由来となった日章旗を、誇らしげに掲げていらした。日本本土からの兵隊さんも含めて、連隊全員の日・台混合の集合写真も見せて頂いた。
旭博曾祖父は写真の中で、いつも笑顔で集団生活を楽しんでいらっしゃったような感じがしてきた。
「私は、日本人で在った事を誇りに思っています。今は御時勢で、はっきりとは言えなくなりましたが、私の根本は、台湾の山奥と日本本土に在ると考えています。残念だったのは、私は台湾人だったので、当地を防衛する任を与えられました。同士の日本人は、最前線へ送られたというのに。志半ばで散った、彼等の顔は、今でもはっきりと覚えています」
毅然とした旭博曾祖父の言葉に、小生は問うてみた。
「日本人から、ひどい仕打ちを受けたのではありませんか」
すると、笑顔で
「いえいえ、全く有りませんでした。勿論、厳しく指導されていた台湾の仲間も居ます。しかし、奴らがなっていなかっただけで、何人(なにじん)が指導しても、厳しくしてしまうと思います」
なんだか、ほっとした。

戦後、旭博曾祖父は、今の貿易会社を始められたそうだ。
終戦直後の日本の食糧難を心配して、本土へ帰還した仲間の士官を頼って、食料を送ったのが始まりだという。
何しろ、終戦直後の混乱期だ。苦労された事が有ったらしい。台湾には食料が余っていたが、日本本土へ食料を運ぶ船が、全く手配出来なかったそうだ。しかも、米や小麦は統制品だったので、輸送中に見付かれば全て没収されてしまう危険が有った。
旭博曾祖父は、今でいうコンテナに雑穀や木材、その他復興に必要になると思われる器具を詰め、その中に何とか米を忍ばせておいたそうだ。そのコンテナを、復員する日本人に託し、鹿児島で同じ連隊に居た同僚に受け取ってもらう手筈を整えた。
復員船なら、沖縄に立ち寄ることも無かったからだ。当時の沖縄は、荒廃しているだけでなく、アメリカの統治下だったから荷物を寄らせる訳にはいかなかったそうだ。
一か月掛かって、荷物は何とか無事に鹿児島へ着いたそうだ。その後、受け取った仲間は、長文の手紙でお礼を言ってきたそうだ。
実際に、その手紙を見せて頂いたが、達筆すぎるのと紙が古過ぎて、小生には半分ほどしか読めなかった。‘助かった’‘有難う’そして宛名の、‘西山旭博帝国陸軍大尉殿’の文字は、明確に読み取れた。

このことが切掛けで、旭博曾祖父は、主に食料を日本に輸出する事業を立ち上げたそうだ。気兼ねして尋ねられなかったが、当時の台湾は日本統治が急に外れ、中国本土からいわゆる“外省人”が渡って来た頃だ。言い尽くせない程の苦労が有っただろう。
旭博曾祖父は、語った。
「私は、日本という国に育てて頂きました。軍人という立場も、頂きました。戦前戦中に、本土へは三回しか行けませんでした。訓練でです。戦後は、何か日本へ恩返しをしたいと考えることが、人として当然と思います。そう日本の教育で習いましたから」
胸が一杯になり、何も返答が出来なかった。台湾の方達の、親日感情は旭博曾祖父の様な方々の指導によるものかもしれないと思った。

こんなことも言って下さった。
「日本の方々は、私達の国を“台湾”と呼んでくれます。日本以外の国は違います。これだけで、我々が日本に親しみを持つのです。この国を、日本とも中国とも違うと考えて下さる証拠だからです。
また、山田さんの様に、何の偏見も無く接して頂くと、もっと近寄ることが出来ると思います」
小生は、お誉めの言葉を頂き、なんだか気恥しくなった。ただ、自然にしていただけなので。

文博の母親の手による、豪華な夕食が振る舞われた。
好き嫌いが多い小生でも、何も気にしないで頂くことが出来た。ここにも、この一家の日本に対する気遣いが感じられ嬉しくなった。
母親(と言っても、小生より年下だが)は、
「孫(母親から見て)の顔を見に遥々来て下さるなんて、何と奇特な方だろうと思っていたんですよ。せめてもの御礼です」
と、言って下さった。
下戸な小生は、酒だけは断った。旭博曾祖父は、だいぶ酒量が落ちたと言いながら、美味しそうにビアマグを傾けていた。

楽しかった夕食も済み、小生は御暇する時間となった。
旭博曾祖父は、わざわざ門の外まで見送って下さった。
ホテルまでの車中、文博は、
「山田さんが来て下さったお蔭で、曾祖父から貴重な話が聴けました。これまでほとんど、戦中の事は語らなかったもので」
と、言ってくれた。小生も、少しはお役に立てたようだ。

次の日、文博は台北市内の観光に連れて行ってくれた。台北は二度目だったし、暑さ(台湾が一年で一番暑い時期だった)が堪えたので、観光はそこそこにし、ホテルへ戻った。
帰りは朝一番の飛行機だったので、そろそろ寝ようかと考えていた午後九時過ぎ、文博が突然小生に部屋のドアを叩いた。
「旭博曾祖父が、山田さんに頼むのを忘れたと言って、これを持って来ました」
手には、古い勲章が有った。
「これを、日本のどこかへ奉納してほしいと言ってます」
旭博曾祖父が、軍人時代に頂いた勲章だろう。
「そんな恐れ多い事は出来ない。文博が再来日する際に、持って来てくれ。責任をもって、靖国神社へ君を連れて行くから」
小生は、丁重にお断りした。
残念さをにじませながら、それでも納得したように頷いた文博は、
「では必ず、日本に持って行きます」
と、言ってくれた。
残念ながら、旭博曾祖父の存命中には実現出来なかったが。

今年、桜が散り始めた東京で、旭博曾祖父の訃報を受け取った。
散りゆく桜を見ながら、隣国の地で現地人と生を受け、日本人とし軍務に付き、戦後は、日本の為に懸命に食料を届けてくれた楊旭博さん。
ご冥福を祈るとともに、改めて、感謝を込めて、西南の方角へ小生は頭を垂れた。

合掌。

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