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生きることは雑草を抜くことなのかもしれない


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記事:かほり(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
「雑草やと思ったから……」

 

小学生のころ、学校で朝顔の種が配られた。
みんな一つずつ、鉢植えの朝顔を育てて観察日記をつけるのだ。
生活という科目の教材である。
 
クラス全員分の鉢が中庭に並べられた。
その中で真っ先に芽を出したものがあった。
私の鉢植えである。
 
翌日それが何者かによって引っこ抜かれた。
犯人はクラスの男子。
言い分は、「雑草やと思ったから……」
 
私の鉢植えに、ぴょこんと出た小さな双葉を雑草だと間違えたらしい。
それを見事に抜いてくれたのだ。
 
私はクラスのみんなに憐れまれた。
「かわいそう」「大丈夫?」
 
担任の先生も慰めてくれた。
「新しい種をあげるからね、またがんばって育てや」
 
そして、みんながみんな犯人の男子を責め立てた。
終わりのホームルームの時、先生はみんなの前でその男子に謝らせた。
私は「いいよ」と小さくつぶやいた。
 
でも、私は正直そんなに悲しくなかった。
なんとも薄情な小学生かと思われるかもしれないが、朝顔が引っこ抜かれたって、別に私は怒りたくも泣きたくもならなかった。
 
ただ一つ、疑問が残った。
 
私の朝顔は、みんなからどうしてそんなに大事にされるのか?
雑草なら抜いてもいいのに、どうして私の朝顔は抜いたらみんなそんなに怒るのか?
 
学校の大掃除の時は、みんな校内の草を引っこ抜いた。
バケツいっぱいになるまでむしって、きれいになると褒められた。
さぼったら、「ちゃんと草むしりしなさい」と怒られた。
 
でも私の朝顔をむしったら、「むしってはいけません」と叱られる。
それはどうしてなのだろう。小学生の私は思っていた。
 
大人になった今、私は当時の私に答えをあげるとしたら……。
 
「それは、朝顔の方が、雑草よりも価値があるからだよ」と言うしかない。
 
朝顔は、おうちの人がお金を出して買ってくれたものだ。
でも雑草はそうではない。
朝顔は鉢植えを用意して、土を敷いて、種をまいて、毎日水やりをして育てているものだ。
大きくなあれ、大きくなあれ。
クラス一人一人の思いが詰まっている。
でも雑草はそんな手間暇かかっていない。
 
むしろ、雑草は邪魔だ。
生え放題だと見栄えが悪いし、虫が棲みつく。
栽培している植物の周りに生えていると、その植物が吸収すべき栄養分を奪ってしまう。
だから、雑草はいらないもの。
 
こんなに改まって答えなくても、大人になった私にとっては雑草を抜くなんて当たり前のことだ。理由なんて意識したことなかった。
でも幼かった私は、たしかに疑問を抱いていた。
朝顔も雑草も、当時の私にとって価値は同じだったんだろう。
どちらも平等な命だったんだろう。
 
そうだ。確かに、「朝顔」と「雑草」なんて人間が勝手に付けた名前なだけで、本来は平等なはずである。なのに、今の私は無意識に価値を付けている。こっちは「朝顔」でこっちは「雑草」。
 
私はハッとした。この感覚、なんか知ってる。
「朝顔」と「雑草」の価値を天秤にかけるように、私は人に対しても、無意識に価値を与えているのだった。
 
毎日誰かしらが死んでいく。一人、また一人……。
人が死なない日はない。
地震や火事などの災害、事故、病気、殺人、過労死、自殺……。
 
そんなニュースを見るたびに、私の心は痛む。
「かわいそう……」
哀しくて、哀しくて、どこにも行き場のない気持ちになることが、しょっちゅうだ。
 
でも、そんな気持ちと裏腹に、心のどこかで、
「こんな目にあったのが、自分じゃなくてよかった……」
とほっとする自分がいる。
 
地震が起きたのが、自分の住んでいるところじゃなくてよかった。
事故に遭ったのが自分じゃなくてよかった。
病気になったのが自分じゃなくてよかった。
ブラック企業に勤めて、過労死に追いやられるのが自分じゃなくてよかった。
自殺するまで、追い詰められなくてよかった。
 
人が死ぬニュースを見て、「辛い、気の毒だ」と思う自分がいるのは確かだ。
でも、同時に「自分じゃなくてよかった」と心の底から安心する。
同情と安堵。この二つの気持ちが、常に1セットとして自分の中に存在する。
ということはきっと、「辛い、気の毒だ」と思うことそれ自体が、「自分はそうなりたくはない」と思うことと同じことなのだ。
「自分はそうならなくてよかった、死んでくれたのが他人でよかった」
私は、人の死を哀しめる人間だ、と善良者ぶっておきながら、実は、人の死を自分の安心材料にしている。
無意識のうちに、他人よりも自分の命に価値を置いている。
本来他人と自分は、平等なはずなのに。おんなじ命なのに。
当たり前のように、朝顔を守って、雑草を抜くように、私は何の悪びれもなく、自分を守って、他人のことはどうでもいいと思っている。
人の死を「かわいそうだ」と思うことは、人間としての良心だと思い込んでいる。
本当は自分を他人の価値を天秤にかけているのに、そのことに全く気が付かなかった。同情することに対して、何の罪悪感も抱かない。「大変だったね」と涙を流す。
 
でも私は、生きるっていうこと自体が、こういうことなんじゃないかと思う。
生きているということは、災害や事故や犯罪にも遭ってないし、病死や自殺、過労死にも追いやられていないということだ。つまり、「自分じゃなくてよかった」という安堵の連続なのである。
だから、生きる自分がいれば、必ず死んでいく誰かが存在するのだ。
ある植物には「朝顔」という名前を与えて、別の植物には「雑草」と名付けるように、みんな生きる自分と死んでいく他人に、価値を定めている。
誰かを殺す代わりに、自分を生かしているのである。
 
何かに価値を置くということは、別の何かの価値を下げるということだ。
朝顔が守られて、雑草が抜かれるように、あるものが価値を得れば、他のものは価値を失くす。世の中の植物をどこもかしこも生え放題にしておくわけにはいかない。
人間も同じだ。生きたい放題ではいけない。
生を得る人間がいれば、生を失う人間もいる。
だから、自分が生を得ていれば、「よかった」と安心する。あのニュースで死んだ人が自分じゃなくてよかった、とほっとする。
本当は生きること自体、きっと罪なことなのだ。
 
でも私は、生きることに罪悪感を持つことは、決してネガティブなことだと思っていない。それは、同時に責任感を持つことだと思うからである。
自分は、常に誰かに生かされている。死んでくれる誰かがいるから、自分は生きている。自分に降りかかるかもしれない事態を、他人が肩代わりしてくれているのである。
 
自分に価値を置くことで、価値を失う誰かがいる。
他人にもっと価値を置くべきだ、もっと敬うべきだと言いたいのではない。
むしろ、他人よりも自分の命に価値を置いていい。生きているのなら、そんなこと当たり前だ。
ただ私は、死んでいく他人の分も、自分は生きているのだ、ということをいつまでも自覚していたいと思うのだ。
 
 
***

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2017-06-01 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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