プロフェッショナル・ゼミ

彼女の背に向かって、どうして、どうしてこうなったんだ、と叫びたかった《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:西部直樹(プロフェッショナル・ゼミ)

その後ろ姿でわかった。
彼女だ。
肩までの髪
水泳で鍛えちゃたんだよね、といつもすぼめがちにしているすこし広い肩
一度だけ絡められた長い腕、
短いスカートが似合うすっと伸びた脚。

御茶ノ水の書店に入ったら、彼女がいた。
海外文学の棚をじっと見ている彼女の後ろ姿。
何ヶ月ぶりだろう、二ヶ月ぶりになるのか。
元気そうだな。

わたしは彼女に声をかけるかどうか、迷った。
わたしは彼女の後ろ姿をなんとなく見ていたかった。

二年前、ある居酒屋で彼女と出会った。

20代30代40代そして50代のわたしと、男たちばかりで、あまり酒も飲まず、料理をあまり頼むことなく、語り合っていた。
わたしが
「今日はこれを手に入れましたよ」と一冊の雑誌を取り出した。
座に少しざわめきが起きた。
「それ、気になっていたんです」と20代の青年がいい、
「一冊だけですか?」と30代の男が聞く、
「どんな感じです?」と40代が問いかけてくる。
わたしは、上着の胸ポケットからそれを取り出した。
すると、
「それ、青いの! わたし赤の方持ってます!」
と隣のテーブルから声がした。
それが彼女だった。
「モノものブックの付録ですよね。付録と侮れない書き味の万年筆ですね。でも、この雑誌あざといですよね。青と赤の二種類を付けているから、どっちも欲しくて、2冊買っちゃいましたよ。ほんとにもう」
彼女は話しながら表情が次々と変わっていった。
彼女は短い髪が似合う整った顔立ちの女性だった。
少し酔っているのか、頬が赤く染まっていた。
「この雑誌の付録を知っているということは、ちょっとマニアの方?」
わたしは彼女の上気した頬が美しい、と思っていた。
「そうです、わたしたち文具好きな乙女たちです!」少しテンションが高めだった。
「偶然、わたしたちも文具が好きなんですよ」
わたしは静かに応じた。
たまたま入った居酒屋の隣同士の席で、同好の士に会う。
偶然が嬉しかった。
その日は、近くである会社のエンドユーザー向けの新製品披露会があったから、全くの偶然ではなかったのだろうけれど。
せっかくだから、テーブルを付けて、改めて飲みはじめた。
彼女たち4人は20代30代、SNSで知り合って、ちょっとしたオフ会を開いていたという。
8人の文具マニアたちは、わたし以外は独身だった。
だからなのか、同好の士である以上に会話がはずんだように思う。
最初に声をかけてきた女性は「ちはる」という名前だった。
「紙の質で書き味変わりますよね、同じ万年質でも」ちはるは、わたしの前の席にきて語りかけてきた。
彼女はノートが好きだった。わたしはチープな万年筆を集めていた。

それがきっかけだった。
たまに飲み会をしよう、好きな文具のことを話そう、とオフ会を開くことになっていった。
それから月に1~2回は集まって好きな文具のことを話し、時に飲みに行くようになった。
集まりには友人を誘ったり、SNSで集ったりと、徐々に人も増え、最初の時の8人が揃うことは稀なことになってしまった。
親から譲り受けた地所に賃貸住宅をいくつか建て、その管理をしているわたしも、時間には余裕があった。
経理の仕事をしているちはるは、期末期以外は残業も少ないといって、毎回参加していた。
オフ会では、ちはるは私のそばに座ることが多かった。否、毎回いつも近くだった。
わたしが最年長にして発起人の職権を使って、近くに座るようにしていたからなのだけれど。
彼女と話しをしていると、心が弾むような気がするのだった。

何度か顔合わせをしていると、ちはるは映画が好きということがわかった。
ある飲み会で、酔いが回ってきた頃、彼女が大きな声で独り言をいったのだ。
「ああ、あの映画を見たい!」と。
わたしも映画が好きだった。だから、誘ってみた。
「じゃあ、今度その映画を見に行こう」と。
彼女はすぐにのってきた。
「え、いつ行きます? 来週の月曜日でも大丈夫です」
これから、毎週月曜日はちはると映画を観にいくようになった。
映画館の近くのカフェで待ち合わせ、映画を観て、そのあと時間があれば飲みにいった。

これまであまり飲みになど行かなかったのが、週に2,3度出かけるようになった。
わたしが出かけるとき、妻はにこやかに手を振って送り出してくれる。
ある時、妻に聞いてみた。どうして、そんなに嬉しそうなんだ、と。
「まったく引き籠もり気味だったのに、出歩くようになって、明るくなったよ、表情が。いい大人が引き籠もりのままだったら、老人になったと起動するのかと、ちょっと心配だったのよ。楽しんでらっしゃい」
妻は、ママ友たちと誰かの家に集って朝まで話し込んだり、好きな歌手のコンサートに北海道まで出かけていったり、好みの俳優のファンミーティングがあれば海も越えていくほど活動的なのだ。
子どもたちも手がかからなくなった。一人暮らしをしている息子は来春には大学を卒業する。中高一貫校に通う娘はしばらく受験がない。
いくぶんかの後ろめたさもあるが、友人と遊びに行くのは構わないということだ。その友人がたまたま女性で、ずいぶん年下で、人が振り返るような綺麗な人だけれど。
わたしは少し自分に言い訳をしていた。

毎週の映画と月に数度のオフ会、わたしとちはるは、週に2回は顔を合わせていた。
いつも文房具や映画のことばかりを話してはいられない。少しずつ、個人的な事も話しはじめた。
ある時、居酒屋で彼女はこんなことを言い出した。
「しばらく一人でいたい。めんどくさい男はもういらない」
彼女はそういって、ハイボールを呷った。伸びた首筋が滑らかだった。
「もういらないって、少しはいたのかな」
わたしは彼女の細く長い指を見ていた。
「去年別れた。5年付き合って、最後は同居みたいになっていたけど、なにも決められない奴だったから、家から追い出したんですよ」
彼女は次の誕生日で20代に別れを告げることになる。
「そうか、次はしばらくはいらないか」
わたしは短いスカートから伸びた細い脚を盗み見た。
彼女の細い脚も長い指も、その決められない男と……。
つまらない想像が頭を満たした。
胸の奥がシンと冷えていった。
空想が暴走する。
その短い髪に手をやるのは、誰なのだろう、と。
胸の奥底の冷えが、苦しくさせる。
「そのうち、君にふさわしい人があらわれるさ」
年上の友人らしいひと言を搾り出す。 斬新でも鋭利さのかけらもない。
その科白のあとに、ふざけて「ほら、目の前に座っている人が!」といってみたかった。
冗句にできない、胸底の冷たさが滲んでしまいそうで口を閉ざしていた。

はじめて会ってから1年が過ぎた頃、我が家でオフ会を開くことにした。
人目を気にせず、心おきなく好きなもののことを語りたくなったのだ。
十数人が集まってきた。その中にはちはるもいた。
集まった人たちと妻や子どもたちを引き合わせた。
「いつもいつも、とてもお世話になっています」とちはるは畏まってあいさつをしていた。
妻はにこやかに、「こちらこそ、この年寄りと仲良くしてやって下さいね」と返していた。
隣でそのやり取りを見ながら、わたしの脳裏にはなぜか「背徳」という文字が浮かんでいた。
オフ会が終わったあと、ちはるからメールが来た。
オフ会の感謝や感想の文言のあとに「奥様が美しくて、素敵で、羨ましかったです。わたしも素敵な奥さんが欲しい!」と絵文字がたくさん入った文章が続いていた。
わたしはその文章と絵文字を見ながら、苦く笑ってしまった。
奥さんが欲しいではなく、奥さんになりたいだろう、という返事はしなかった。
余計なひと言を書いてしまいそうだったから。

我が家でのオフ会から数ヶ月過ぎた頃、ちはるとは会えなくなった。
わたしが外に出ることがほとんどできなくなったからだ。
妻が入院したのだ。
昼間、自転車で買い物に出かけた妻に、脇見運転をしていた車がぶつかってきたのだ。
幸い命に別状はなかったけれど、脚を折られてしまった。
全治3ヶ月の重傷だった。
2ヶ月は病院のベッドにいることになる。その後はリハビリがまっている。
妻が家にいない間は、わたしが大半の家事をこなすことになる。
娘は部活で忙しい。
朝、娘と食事をして、仕事に一段落をつけて家事をこなし、入院している妻のもとにいく。
看護がしっかりしている病院だけれど、自由に動けないのは何かと不便だ。
そして、不便なだけで、あとは元気なのだから、退屈してしまう。
子どもができて以来、二十数年ぶりに夫婦の濃密な時間を過ごすことになった。
家に帰れば、部活で腹を空かせた娘のために料理を作る。
十代の食欲は底なしだ。
毎日体を動かすのだから、十分な栄養とそして量を確保しなくてはならない。
小学生ではないのだから、自分で作れという気もしないでもないが、遅くまで体を動かして疲れて帰ってきた子どもにそんなことはいえない。
妻が入院しているのに、わたしが部活をしていていいのか、と気に病む優しい娘なのだ。

そのような日々では、オフ会に行くことも、月曜日に映画にいくこともできなかった。
その旨をちはるに伝えると、彼女からは「大変ですね。何かあれば、お手伝いします。いつでも、本当に大丈夫ですよ」とメールが来た。
食事の準備を彼女にお願いできたら、それはそれで楽しいのかも知れない。
ちはるが家の台所に立つ姿を想い描いた。
短い髪が揺れる。
なにかを刻む包丁の軽やかな音がする。
食卓に立ち上る料理の匂い、ちはるがわたしの向かいに座る。
隣には娘が……。
そこで妄想は途切れた。
娘は妻のことが大好きなのだ。
ちはるからのメールは、二日に一度、三日に一度、一週間に一度と間遠くなっていった。

妻が退院して、松葉杖の生活にも慣れた頃、妻はにこやかな顔でいうのだった。
「ありがとうね。そろそろ行きたいんじゃないの。もうわたしは大丈夫。いってらっしゃい」
そうだった。
家庭の中だけの生活を続けていたから、ちょっと外の空気も吸いたくなっていた。
文具仲間のオフ会に久しぶりに出かけてみた。
会場でつい、ちはるの姿を探していた。
「彼女は最近は、来なくなったね」と当初のメンバーの一人が教えてくれた。
そうか、それは残念と思いながら、いつしかオフ会の楽しさに彼女の不在を忘れてしまった。
家に帰り、妻にオフ会の楽しさを話しながら、そうだ、ちはるはどうしているのだろう、という思いが幽かに頭を掠めた。

このままでもいいのかも知れない、でも、なにか区切りが付かない。
彼女の細く長い指を思い出すと、少し冷たい塊が胸底で蠢いた。
メールを出そうと思いながら一ヶ月が過ぎ、やっと出しても彼女からの返事はなかなか来なかった。

やっと、二ヶ月前の月曜日、久しぶりに彼女に会うことができた。
有楽町駅で待ち合わせた。時間があまりないので、とすぐに映画を観にいった。
交わす言葉が少なかった。
見終わったあと、「すこし飲みに行くかい?」といつものように聞くと、
「今日は、あまり時間がないから」とちはるは、地面に向かって話しをした。
「そうか、今日は帰ろう」とわたしも地面に言葉を投げかけた。
有楽町の改札口で小さく「さようなら」「また、機会があったら」と別れのあいさつを交わした。
ちはるは改札の向こうに、人混みに瞬く間に紛れていった。

ちはるは、文庫の棚を眺めていた。
わたしは、声をかけるタイミングを逸した。
ちはるは、書店を出ていく。
わたしも、書店を出て、彼女にすぐ後ろまで近づいた。
ちはるは、スマホを取り出した。
わたしは、また、声をかけることができなかった。
ちはるの、声が聞こえてきた。
「うん、御茶ノ水、これからそっちに行くよ。うん、なに食べたい? 作るよ。男のくせになに言っているのよ」
彼女の声が弾んでいた。
わたしは、立ち止まった。
ちはるは、改札を通り過ぎていく。
わたしは、「さようなら」と声にならない声をかけた。
ちはるが、振り返った。声は聞こえていないはずだった。
ちはると、目があった。
ちはるの、目が少し大きくなった。微かにうなずいた。電話の声に応えたのかも知れない。
そして、彼女の姿は、駅の人混みに紛れていった。

わたしの携帯が震えた。
妻からのラインだった。
「みどりが熱! 37度5分! でも元気よ。今どこ?」
みどりは、もう中学生だろう。風邪でもひいたのか。
「了解! 帰りにアイスを買って帰るよ」と打ち返した。
すぐに妻から返信が来た。
踊る熊のスタンプだった。
喜んでいるのか?
わたしgoodのスタンプを返す。
スマホを片手に、彼女の消えた改札を見ていた。
わたしの胸には少し 冷たい幽かな隙間ができていた。

***

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