プロフェッショナル・ゼミ

君とキスをしたから、「王子様」なんて、粉々に砕いて、捨ててしまおうと思った《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:長谷川 賀子(プロフェッショナル・ゼミ)

「どうしよう。キスって、やっぱり、怖い」
心の準備はしていたけど、今日も私は思ってしまった。隣にいる彼が、私の顔を覗き込む。私たちは暗がりの中に立っていて、蛍が星空に混ざりながら飛んでいる。私は前髪で自分の視線を隠しながら、もう一度、彼の瞳の行く先を確かめた。私の顔を覗き込んだ彼の瞳は、まっすぐ私の瞳を見つめている。ああ、だめ。私はこの瞬間が、やっぱり苦手だ。こういう状況になるのも、2年ぶりくらいだけど、そのせいではないだろう。昔から、なんだか、怖いのだ。私だって、もう子供じゃないし、そう多くはないけれど、今までにだって、何人か恋人はいた。男性恐怖症なわけではないし、相手のことも好きだったはず。今、隣にいる彼のことも好きだ。それに、可愛い顔ができないとか、上手にできないとかいう、問題ではない。いつもこうなのだ。なんだかいい雰囲気の中に連れてきてもらい、開いた瞳が私の顔を覗き込んで、視線を下に落としながら近づいてくるのを、目を閉じながら、待つ瞬間。私は、いつも、怖かった。そう、キス自体が、苦手なのだ。

なんでだろう、と私は思う。だって、キスは、私が小さい頃から、何よりも憧れていたものだったから。キスは、女の子をお姫様にしてくれる。私は、そう、信じていた。将来の夢は? とそう聞かれたら、迷わず「お姫様」と答えていた。そして私は、白馬の王子様が来て、キスをしてくれるのを、待っていた。だって、絵本に書いてあったのだもの。白雪姫も、眠れる森の美女も、王子様のキスで目覚めて、本当のお姫様になって、そして幸せになれるんだ。私は、お姫様になりたかった。もっというと、王子様のキスで、お姫様にしてほしかったのだと思う。

そんなにも憧れたキスの瞬間。初めてキスをするときには、そんなのおとぎ話だとはわかっていたけれど、今度は、少女漫画とドラマという刷り込みが入ってくる。毒りんごや毒針にやられて、死にかけているわけではないけれど、女の子は、目を閉じて、男の子が来てくれるのを待つことは知っていた。それが、おとぎ話を現実化した姿なのかもしれない。表向きは馬鹿らしいと思いながらも、私はまだ、王子様を心のどこかで信じていた。自分はお姫様になりたいと思っていた。それから、運命のキスを待っていた。そして、初めてキスをした。一つ上の先輩とだった。同じ部活に入っていて、私たちはこっそり付き合っていた。その日は、部室の片付けをする、という名目で、遅くまで学校に残っていたから、帰る頃には他の生徒の姿は殆どなかった。いつもは手も繋いでくれない先輩が、この日だけは、手を繋いでくれた。私はこの先輩のことが、本当に好きだった。先輩から告白してもらって付き合ったのだけれど、それは、私が好きなことを知っていたからのことであって、どちらかというと、私が一方的に好きで、付き合ったようなものだった。だから、やっと、先輩は私のことを好きになってくれたのだと思った。指の先まで震えてしまいそうになるくらいに、嬉しかった。私はこの嬉しさが、体から溢れて、伝わってしまうのが怖くて、だけど、気が付いて欲しくて、先輩の顔を肩の隙間から、覗いたり、逸らしたりしながら、歩いていた。バス停に着いたとき、先輩は私の顔を覗き込んだ。私たちは、バス停の影に隠れている。先輩の目線が下の方に落ちた時、私は無意識に、目を閉じていた。初めてなのに、これが合図だと、もしかしたら女は本能的に知っているのかもしれない。もうちょっと、だ。私が憧れていた瞬間。一体どんな気持ちになるのだろう。制服のスカートの裾が、ふわって、広がるみたいな気持ちかな。そんなことを思っていると、なんだか、得体の知れない恐怖が近づいてくる。私の身体から溢れそうな、好きという感情を押し倒して、静かに迫ってくるような。手から感じる先輩の体温とはまた違う、何か。私は閉じていた瞼に力を入れた。このままだと、全部、持って行かれそうだった。掃除機みたいに雑に吸って、雑に捨てられてしまう。そんな気がした。私が、精一杯立っていると、唇が、きゅっ、と押されて、今まで感じていた恐怖が、消えた。先輩の手も、離れている。
「大丈夫? ごめん、急に」
先輩はそう言って、私の方を向いたけど、その顔はどこか満足そうだった。私を喜ばせたとでも思ったのだろうか。それとも、そうしている自分が、好きなのだろうか。この時の私には、そんな判断は出来なかったけれど、ただ、この先輩は私の王子様ではないことは、わかった。もし、王子様だったとしたら、キスなんて、なんの役にも立たないと思った。

それからしばらくして、先輩は高校を卒業し、その2年後、私も大学生になった。私は頑張りたいこともあったし、バリバリ働いて、スーツを着て、ヒールを鳴らしながらかっこよく歩くことが目標だったし、高校生の時の恐怖もあって、しばらく恋もキスも、どうでもいいかな、と思っていた。

それでも、大学生になれば、みんなまたちょっと、大人になる。出会いの幅も広くなる。オンナのコたちも、だんだんオンナになってくる。今日、彼氏と、どこどこに行く。好きな人に、こんなふうに言ってもらった。メイクをして、つやつやした唇から零れてくる言葉たちが、ちょっと羨ましくなったりもする。あの時は、私が子供だった、だけなのかな。今ならうまく、できるのかな。

そんなことを思い始めた時、高校の時からの親友が、私に教えてくれた。大学も一緒だった彼女は、他の友達の恋バナに交じる私をみて、もう言ってもいいかな、と、思ったらしい。先輩は、あの時、私と付き合っていると思っていた。あの日、私の気持ちがちゃんと届いたのだと思った。でも、先輩は、別の高校に、彼女がいたらしい。あまりにも先輩が口止めするから、私はこの親友にも、付き合っていることは話せていなかったのだけれど、私の様子に、薄々気が付いてくれていた。私は、黙っててごめんと親友に、ありがとうを言った。だって、どうせ、おかしかったんだ。ちゃんと付き合っていたら、手だって繋いでくれてただろうし、わざわざあんなにしつこく口止めなんてする必要もないのだから。もう、そんなことはどうでもよかったけれど、あの時のキスが怖かった理由は、それが原因なのかもしれない。先輩は私のことが、好きじゃなかった。他に付き合っている人がいるのに、ただ、自己満足と欲望のためだけに私を利用して、キスをした。

私はちょっと、ほっとした。人を好きになるたびに、あの時のような恐怖を感じてしまったら、どうしよう。周りのみんなの話を聞きながら、羨ましく思うのと同時に、新しい恋に躊躇していたから、親友が本当のことを教えてくれて、恐怖の原因が取り除かれた。これで前に進めそうだった。

私は、大学に入ってからはスポーツはせずに、Jazzのクラブに入っていた。私はサックスを選んだ。なんとなく見た目が気に入って、手に取ったのだけれど、楽器なんて、小学校・中学校のリコーダーぶりだった。でも、音は割とすぐにでて、数か月練習したら、なんとか安定して一曲吹けるようになっていた。面白くなってきたころ、ピアノの先輩が、組まない? と誘ってくれた。ピアノの先輩は、他の仲間を誘って、個人的にカフェやライブハウスで演奏をしているのは知っていた。
「私、まだ下手ですけど……」
私がそう言うと、いたずらっぽく笑って、
「見てあげるから、大丈夫」
と、背中から、サックスを出す。
「俺、サックスも吹けるんだよね」
自身満々にいう先輩のサックスは、確かにとても上手だった。素人の私でもわかるくらい。大学では吹かないけれど、個人的に演奏する時には、吹いているらしい。磨き上げられた管から溢れ出てくる音に、思わず体がリズムをとりたくなってしまう。
「吹けるようになるよ」
一度音を止めて、そう言って笑うと、ピアノの先輩は、サックスの先輩になって、また吹き始めた。

この日から私は放課後、時々先輩に教えてもらいながら、サックスの練習をした。その後先輩がよく行くという、お洒落なバーに連れて行ってもらったり、ジャズのコンサートに行ったりした。夏休みも過ぎたころ、私のサックスもだいぶうまくなってきて、ピアノ、時々サックスの先輩のバンドに混ぜてもらって、演奏をした。そうこうしているうちに、私は先輩と、気が付いたら付き合っていた。

私は、今回はあまり期待しないようにしようと思っていた。軽い気持ちで付き合って、たとえ傷ついても、浅い傷で済むように。でも、先輩とは、一緒の時間を過ごし過ぎてしまった。尊敬できるところを見つけ過ぎてしまった。よくしてもらいすぎたのだ。気が付いたら、本当に好きに、なっていた。一緒に合わせる時なんか、私の音をピアノの音で掬い取ってくれるみたいだった。サックスに息を吹き込む体ごと、包み込んでくれているみたいに、優しい。気が付いたら、私は、いつも先輩の傍にいた。先輩の行く場所に連れて行ってもらった。

大学2年の夏休み。ピアノの先輩は、ドライブに連れて行ってくれた。夕方6時に待ち合わせをして、郊外へ向かって走っていった。デートスポットで有名な、丘の方に向かっている。その場所は、私も知っていた。友達が、彼氏と行ったと言っていた。そこまで興味はなかったけれど、先輩が連れて行ってくれるのなら、きっといい場所なのだろうと、ついて行くことにした。

目的地に近づくにつれ、薄暗がりに包まれていく。着いた頃には、日はすっかり沈んでいた。
「見てごらん」
先輩が言う。促される方へ視線を遣ると、闇の中に街の明かりが浮かびあがっていた。綺麗だった。私はこのまま静かに、この景色を見つめていたいと思った。
「綺麗だよね」
ピアノの先輩は、景色に向かって言っているのか、私に向かって言っているのかわからない口調で、つぶやいた。なんの遠慮もなく、筋肉質な腕が、私の顔に、近づいてくる。もう少し静かに眺めていたかった。この人は、闇に浮かぶ騒がしい街を、私に見せたかったのではなかったのか。でも、こうなったら、仕方ない。せっかく好きな人なんだ。高校生の時のことは、少し思い出されるけれど、きっともう大丈夫。頬にあたる体温を感じながら、私は静かに目を閉じた。

先輩の息が、私のところに届いてくる。先輩の奏でるサクソフォンのように、もっと繊細なものを期待していた。でも、その息は、ただ、目の前の男の奥底にある、単純で身勝手な思いを押し出しただけのものだった。音楽と同じものを、恋に求めた私が悪かったのだろうか。たとえ私が悪かったとしても、男が私に辿り着くまでの、この時間の気持ち悪さは、何なのだろう。

結局私は、大学生でも、キスへの恐怖からは、抜け出せなかった。

残りの大学生活は、恋人なんてつくる気は、さらさらなくなって、ただかっこいい女になれるようにと、努力することに努めていた。

そのかいあって、私は第一志望の企業に就職ができた。やっと目標のスタート地点に立てたのだ。仕事に集中しよう、そう思っていたのだけれど、働き始めて一年ほど経ったころ、同期と付き合うことになった。社内恋愛だったから、周りには言っていなかったけれど。彼は真面目だったし、仕事もできたし、今まで「先輩」という括りで失敗してきた私にとっては、同い年であることが、付き合うことを許してしまった。

だけど、結局、相手のことは好きだったけど、キスだけは、どうしても、無理だった。

そんなこんなで、私は、会社の同期とキスをしてから、2年が経ってしまった。

そして、王子様のキスを求めていたはずの私が、まさか、陥ってしまった、キス恐怖症からは、まだ抜け出せていない。

そして、今日、また同じ状況が、来てしまった。
彼は、私を覗き込んでいる。
私は、キスを、嬉しいと思うことは、いつになったらできるのだろう。今日は、大丈夫だろうか。もう、目の前の彼が、運命の王子様であってほしい。

私は、願いというより、すがるのに近い思いで、目を閉じた。

どうか、ちゃんと、キスが、できますように。
私の願いが、叶いますように。

私は、目をつぶったまま、彼のことを、待っていた。
でも、いつもの、怖さは感じない。気持ち悪い温度も、近づいて来ない。

大丈夫なんだろうか。

私が、ほっとしかけた時、彼の細い指が、私の口元に触れた。
「何か、ついてるよ」
「えっ」
私は、目をまんまるくして、彼を見た。
「急に触っちゃってごめん。さっきのクリームでしょ」
彼は楽しそうに、笑っていた。本当は、女の子なら、ここで恥ずかしがらなきゃいけないのだろうけれど、私はどこか、嬉しかった。初めて誰かに、自分のダメなところに、素直にふれてもらえたような気がした。
「大丈夫。あはは。ありがとう」
私も彼につられて、笑ってみる。
「そろそろ帰ろうか。夏だけど、風邪ひいたらいけないし」
私と彼は横に並んで、駅の方へ向かった。
「そうだ。来週の週末、空いてるかな? 今日会ったばかりだけど、それでもよかったら、○○公園に遊びに行かない? 向日葵がちょうど、見頃らしいから」
「行く。来週、大丈夫だよ」
私は、キスのことなんかすっかり忘れて、来週が楽しみだった。公園にデートなんて、何年ぶりだろう。なんだか、小学生の遠足のような気持ちで、浮かれていた。

週末、私たちは、最近できたばかりというサンドイッチ屋さんでお昼を買い、○○公園へ向かった。

彼の言うとおり、向日葵は見頃だった。一面に広がる向日葵たちが、お行儀よくお日様に向かって笑っている。
私たちは、向日葵に近づいて見たり、離れて眺めてみたりしながら、夏の休日を楽しんだ。

「おなか、すいたね」
公園内の仕掛け時計が、愉快な音楽を鳴らし始めた。私たちは、ちょっと高いところにある木の下に座った。芝生がちくちく、くすぐったい。でも、緑のにおいが、鼻を伝って、気持ちがいい。目の前には、向日葵畑が見渡せた。
「さあ、食べようか」
相変わらずこの人は、楽しそうだった。

のんびりご飯を食べ、木陰があんまり気持ちが良いものだから、私たちはウトウトしたり、お喋りをしたりしながら、1、2時間ほど過ごしてしまった。

向日葵の首の向きが、変わり始めた頃、
「ねえ、ミキさん」
と、彼が私の名前を呼んだ。出会った時から、彼は私を名前で呼ぶ。
「なあに」
「僕はミキさんのことが、好きだよ」
彼はいつもの笑顔で、にこっとした後、ちょっと恥ずかしそうに下を向いて、もう一度私の方を見た。
「僕と、お付き合いしてくれませんか」
そうだ、私と彼は、まだお付き合いしていなかったのだ。こんなにまっすぐに、好きと言ってもらったのは、いつぶりだろう。もしかしたら、いままで一度も、なかったのかもしれない。彼の声は、川のせせらぎみたいに透き通って、風鈴みたいに心地よかった。彼の言葉すべてが、本当なんだと信じることができた。

なんでだろう。大人になって、この年になって、好きの意味が、告白の意味が、やっとわかったような気がした。

そうだ、彼は、いつだって、私の名前を呼んでくれた。私の気持ちを、想ってくれた。彼の知らない、私の好きなものをちゃんと聞いてくれた。自分のことと私のこと。いつも、ちゃんと交換をしてくれた。二人の回りに流れる時間が、二人でいる時は、まるで一本の川みたいに、繋がっていた。

彼は、出会った時から、そうだった。

彼と出会ったのは、2か月ほど前。友達に誘われて行った、本屋で出会った。面白そうなお店見つけたんだけど、なんか怪しくては入れない、という友達に付き合わされて入った小さな本屋さんだった。私と友達がお店に入ると、ちょうど、読書会が始まろうとしていた。社交的な友達は、どんどん輪の中に入って行く。私は、隅の方に寄って、本棚を何となく、眺めていた。
「初めまして。ここに来られるのは、初めてなんですか?」
にこにこした男性が、話しかけてきた。これが、彼と私の出会いだった。
「はい。友達に誘われて」
お店で会った人と話す、ということに慣れていない私は、少し戸惑って返事をした。
「僕は何度か来たことがあるんです。僕、お喋りが得意な方ではないんですけど、ここに来ると、楽しいんです」
彼はどこか、嬉しそうに笑う。
「いきなり話しかけて、すみません」
「いえ」
私も、この場所は、話せるような気がした。というより、この彼となら、話せるような、そんな気もした。
「どんな本を読まれるんですか」
彼は私に尋ねてきた。私は、どんな本を読むのだろう。あまり考えたこともなかったけれど、そういえば私は、泣ける話をやたら読んで、いるかもな。感動ものとか、ノンフィクションというより、叶わない、恋愛モノ。切なすぎるか、悲惨すぎるかの、どちらか。もしかしたら、自分の恋愛に泣く代わりに、本で涙を使い切ろうとしていたのかもしれない。
「恋愛もの、かな。絶対叶わない、みたいな、悲しいもの。それで泣くのが、好きなんです。あっ、初めてお話しするのに、ごめんなさい。もう少し、本のこと、知っておいたらよかったのですけれど」
余計なことを、言ってしまった。初対面の私の好みなんて、どうでもいいのだ。こんな暗い話、他人様にするような話でもないし。そう思っていると、彼は、またにこにこ笑って、
「いいですね、素直に泣けるって。僕、最近作品で泣けなくって」
私はびっくりした。いいですね、なんて、言われるなんて、思っていなかった。
「泣ける、って、素直にその世界に浸れてるってことでしょう。僕、最近、途中で恥ずかしくなっちゃって、楽しみ切れていないんですよね。なにか、あなたが好きな本、教えていただけませんか」
この人の声からは、本当に、知りたい、というのが、伝わってくる。
「あっ、名乗りもせずに、すみません。僕、田中といいます」

この時から、私たちは、会うようになった。はじめはこの本屋で顔を合わせる程度だったけれど、だんだん、別の場所でも会うようになった。

私は、こんな形で誰かとお付き合いをするなんて思ってもみなかった。仕事場とか、取引先とか、長く関わる場所や人から始まるものだと思っていたし、合コンとか、婚活とか、そういうものにはあまり近づきたくはなかった。でも、私は、本屋なんかで出会っただけの彼と、こうして会っている。というより、会いたかったのだ。私が、会いたかったのだ。そして、彼も私に会いたいのだと、ちゃんと、伝わってきたから。彼から誘われたり、私から誘ったりしながら、互いの行きたい場所へ、出かけて、楽しくお喋りをした。どんなに話しても、話は尽きなくて、会った後は、心が癒されていた。

そして、彼は、今日、私にちゃんと、伝えてくれている。一緒にいようと、まっすぐに私に伝えてくれている。そして、私の気持ちを待ってくれている。

私も、ちゃんと、伝えたい。
まるで、思春期の少女みたいだけれど、そんなの別にいいじゃない。私は彼の目をまっすぐ見て、
「私も、好きです」
と、返事をした。

彼の目が、笑う。
「よかった」
心底よかった、というのが、彼の空気が、伝えてくれる。

向日葵の上を通って、木々の緑を縫って、風が私の頬を撫でた。

あっ、私、この人と、キスがしたい。

私は、初めて、自分から思った。

君の視線を、覗き込む。ねえ、いい? って、目で、こっそり、聞いてみる。
彼は、いいよ、と、いつもの、ううん、いつもよりずっと甘い目で、答えてくれた。

彼の瞳が、私の瞳と重なって、私の瞳が彼の宇宙に吸い込まれた時、彼の瞳もまた、私の中に、溶け込んでいく。前みたいに、気持ち悪い恐怖を感じることなんて、全然なかった。そんなこと、気にもしていなかった。私と君との間の木を中心に、二人が同じだけ、近づいていく。一秒づつ、ちょっとづつ、同じだけ、距離が近づいていく。

そっか、私がいままでキスが怖かったのは、二人が同じだけ、近づこうとしていなかったからなのかもしれない。キスはいつも、相手の方からしてくれた。だけど、心までは、私に触れようとはしてくれなかった。いつも、相手が選んだ場所で、相手が選んだ時間に、相手の都合でキスをされた。今までされてきたキスは、ただ、相手のエゴでしか、なかったのだ。俺が満足させてやろう。下手だから、教えてやって、うまくしてやる。仕事のできる自分が構ってやっている。ただ、日々の積み重ねの中の独りよがりが、全部、キスに集約されていただけだった。

どうしてそんな簡単なことに、私は気がつかなかったのだろう。それとも、気がついていながら、私もお姫様になりたいというエゴと幻想に、浸っていたかっただけなのかもしれない。

ただ、目をつぶって待っている。自分では何もしなくって、目を開けたら王子様じゃなかったなんて、どうしてそんな文句が言えるんだろう。そもそも、目を閉じて、生き返らせてくれるキスを待っているなんて、そんなのきっと、つまらない。自分で息をして、自分で選んで生きるからこそ、相手をちゃんと、愛すことができるのに。私が憧れた白雪姫や眠れる森の美女だって、彼女たちにとっての「王子様」だったかどうかなんて、わからない。あのキスを覚えているかさえも、わからない。だったら私は、お姫様になんてなりたくないし、私をお姫様にしてしまう、王子様なんて、こりごりだ。

だけど、もう、それは昔のこと。今は、もう、気が付けたんだ。
君と私しかいない、この空間で、そんなことは、どうだっていい。それに、目の前にいる、この君を、相手の気持ちも確かめず、一方的にキスをして、お城に連れていく、王子様になんて、したくない。君と私がここにいる。二人の時間が、ここにある。ただ、それだけでいいのだ。
だからもう、王子様なんて、粉々に砕いて、捨ててしまおう。小さい頃の幼い夢も、向日葵畑のずーっと遠くへ、投げてしまおう。そうしたら、私は、自由になれる。自由になって、君と愛を贈り合える。

同じだけ近づく体温は、ゆっくりゆっくり溶け合って、私たちを包み込む。君のところまで、あと一ミリ。私のところまで、あと一ミリ。二人の胸が、とくん、と鳴った。二人の世界の真ん中で、幸せの花が、ふわっと、咲いた。

今日君とキスをしたら、怖いくらい、幸せになった。

※このお話は、フィクションです。

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