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祖母の唯一の得意


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:森山 寛昭(ライティングゼミ日曜コース)

 
 
え? え? なんでそんなものを食べるの? おいしいの?
 
たぶんこれを紹介しても、皆さんにはそんな感想しか抱かせられない。
おそらくどこの県にも、これといって特徴のない、名産品に格上げされるにはあまりに地味な料理やお菓子があると思う。
それでもその土地のひとや、土地の味になじんだひとは口にせずにはいられないもの。
 
私にとってはこの餅菓子がその範疇に入る。
「あくまき」というもので、主に鹿児島をはじめとする南九州で食される餅菓子である。
あらかじめ灰汁(あく)にひたしたもち米を、一昼夜水に浸けた竹の皮に包みこみ、ボンレスハムのようにタコ糸で縛ったら、それを灰汁にいれて数時間煮るという代物である。
 
製法が面倒なわりに、できる「あくまき」の味といえば、ただの灰汁(あく)にひたしたおこわである。別にしょう油や砂糖を加えることもしていないので、そのままいただくとピリッとスパイシーで、少しの苦みを感じるだけである。
なので、黒砂糖の粉末かきな粉をまぶしていただく。
さしずめ、癖のあるわらび餅といったところ。
 
こんなもの、なんで好んで食うのか……。
小さいころから、母の田舎の鹿児島に帰ると、祖母の家にはこの「あくまき」とふくれ菓子(蒸しパン)しかおやつがなかった。
今ほどスイーツに貪欲ではなかったので、なにかを我慢するでもなく、なにげに食べていた。
ただそれだけ、好んで食べていたわけではない。
が、習慣とは恐ろしいもので、同じものばかり食べていると、次からはないことが普通でなくなる。
いつしか、祖母の家に行くと、小さな私は「あくまき」とふくれ菓子ばかりおねだりする子供になっていた。
特に「あくまき」に限っては、料理の下手な祖母が唯一きちんと手間暇かけてつくってくれたものだったので、味をいただくというよりは心をいただく感覚だったと、ませた私の、当時の幼い心に記憶している。
 
初孫だったこともあり、祖母は私の言うことは快く聞いてくれた。
「あくまき」を作るのに必要な灰を、風呂のかまどからせっせとかき出して集めては調理にかかっていた。
私が小学生のころ、祖母は子宮がんを患って大変な思いをしたが、退院して間もないというのに祖母は私が田舎に帰るとそれを作ってくれた。
祖父が出稼ぎ先から愛人を家のそばに連れてきて、夜中に私の母と一緒に包丁を振り回す修羅場があっても、翌朝何事もなかったかのようにかまどで作ってくれたこともある。
中学生になって、祖母が何を話しても「ああ言えばこう言う」で屁理屈をならべ、決して言うことを聞かない生意気なガキになっても、おやつの時間には、
「これしかねがよ(ないよ)」
と、きな粉をまぶしてこたつに並べてくれていたこともある。
高校生になって私がひねくれてしまって、祖母とほとんど口を聞かなくなっても、大学生のとき、やれ自動車学校の受講料がいる、だの、やれ生活費が足りなくなった、だのと祖母に金の無心ばかりするろくでなしになってもそれは変わることなく続いた。
確実に病魔が体を蝕み、老いが力仕事をできなくするまで私に愛情を注いでくれた祖母。
 
祖母が死の直前、最期に入院した病院で私と母が泊まり込みで看病をした年の瀬のこと。
ベッドに横たわる祖母が、
「やっちゃんひろちゃん、早くよか嫁もらわんと」
自らは息をするのもつらいのに、孫の私の心配をしてそう声をかけてきた。
小さいころから私の名前の前に妹の名を口走る変な癖が祖母にはあったのだが、私はそれがどうにも嫌で、そのときも、
「ひろちゃんや!」
最初に口をついて出た言葉はこうだった。今日明日が峠の命の人間に、苦笑いしながら優しく接することを私はしなかった。
「ばあちゃん、そげんこと言うならしっかりせんばね! 嫁見たいっちゃろ? あくまきも作ってもらわんといかんし!」
祖母にとっての孫の筆頭は私だ。死の間際まで孫の顔は私ひとり覚えてくれていればいい、ばあちゃん子の私の、独りよがりの矜持がこんなことを言わせた。
私の心ない言葉に、このクソガキ、ならもう少し生きてやるわ! と頑張ってくれることも期待した。
「やっちゃんひろちゃん、もう無理じゃが」
小学生のころ、大正生まれとは思えない長身でバリバリ畑仕事をこなす、力強かった祖母の姿はもう微塵もなかった。
年が明けて2日、福岡へ向けて鹿児島中央駅を出る高速バスの中で、私は祖母の死を母から知らされた。
私が最後に病院に祖母を見舞って4時間後のことである。
 
実は、私は祖母の葬式に参列しなかった。
戻るという私に母が、
「あんたは大みそかの日に泊まり込みで看てくれたから」
と。仕事もあるし、とも。
「何を言いよると?」
電話口で口論になった。隣の乗客が、携帯しまえよ、とこちらを睨みつけた。
そんなことお構いなしで次を言おうとしたら、
「あんたが帰ってくるとばあちゃんに話したら、持ち直したんや。年を越せんて、医者に告げられてたのに1週間長らえさせてくれたんやで。もうええわ」
母なりの気の回し方だった。
何を言う! 祖母には孝行らしいことはひとつもできてないのに。あの世へ見送るぐらいさせろや!
だが母は、私の参列をかたくなに断り、あとで遺影を送るから飾ってやってくれ、とだけ言って電話を切った。
 
母への怒りの収まらぬまま福岡へ戻った私の元に、一週間後、祖母の遺影が送られてきた。箱の中には意図したものか、「あくまき」が3本入っていた。
どこに飾ろうか、両手の中の祖母の顔を見ていたら、悔しくなってきた。
参列のことだけではない。本当に祖母には何もしてやれなかった。せめて、世間様で認められる何者かになっていれば、少しは安心させてやれたのに。
遺影をミニコンポの上に飾ることに決めて、送られてきた「あくまき」を供えようと思い立った。そのときはそれしかなかったから。
同梱のタコ糸で「あくまき」を切る。包丁では刃にこれがくっついて切れないので、祖母に教わった通り、糸をぐるっと巻いて引き切る。
それを小皿に乗せ、これまた同梱されたきな粉をまぶして遺影に供えた。
一切れだけ私はそれを拝借して口に運ぶ。
思った通りだ。灰汁(あく)が効いていない。祖母が作った「あくまき」に比べて、まずい!
そこで初めて涙を流した。
もう、祖母のあの「あくまき」が食べられないのだ、と実感した。
 
祖母が亡くなって16年、この間17回忌法要を済ませた。
私の自宅のミニコンポの上には、変わらず祖母の遺影が飾られている。
普段はお供えにふくれ菓子しか置いていないのだが、たまに博多駅や福岡天神のデパートに鹿児島物産展がお目見えすると、私はちょっと足を延ばして「あくまき」を探しに行く。
メジャーではないので、どんなにおいしそうに湯気を立てていてもそれを買い求める人はまばらだ。
売り切れる心配もないので遅めの時間に行ってタイムセールにありつくこともある。
私はそれを見つけると、いつも1本だけ購入してきて小皿に切り分けて供える。
そして、一切れだけ拝借する。
やっぱりおいしくはないのだが、それでも「あくまき」がある時だけは孫と祖母の語らいの時間が訪れる。
元気なころの祖母の笑顔を見ながら、私は心の中でいろんな話をする。祖母が死んだ後の16年間とこれからのことを。
 
 
***

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2017-06-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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