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意外にも“殺し”好き国民と愛される“多殺者”そして“殺人罪”に問われることはないが“殺し”同様の行為《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:山田THX将治(ライティング・ゼミ プロフェッショナルコース)

日本人は国際的にみて、温厚で決して‘好戦的’とは思われていないようだ。
歴史上の一時期、隣国を武力によって併合したり、占領したりしたことはある。
しかし、現代では、もうそのようなことは過去のものとして、日本人なら誰しも自分達を‘厭戦的’と考えているようだ。
実際、既に70年以上も戦争という政治的手段を使っていないし、日本人の殆どが、戦争を良しとは考えていなさそうだ。
もっとも、さらに昔の戦国時代では、絶えず各地で戦さが起こっており、普段は農民であった者達でも、戦場に駆り出されていたと、歴史の教科書には残っているのだが。

これは、我々の先輩達の行為が歴史なのだから、同民族の我々にも同じDNAが継承されていても不思議はない。他国を侵略、即ち進んで戦争を仕掛けるDNAだ。

その‘好殺的’DNAが表れているのが、国民的に人気がある日本の野球だ。
何といっても、一試合で最低でも51の“殺”が行き来する。日本の野球と限定したのは、本国アメリカのベイスボールでは、“OUT”は使うものの“Kill”や“Dead”が付く物騒な言葉は使われない。
一方、日本の野球においては、‘捕殺’‘封殺’‘刺殺’といった、ニュースでしか見掛けない様な単語が横行する。そればかりでなく‘一死、二死’といった‘忌み言葉’だって出て来る。
勿論、競技上での行為なので、‘殺人罪’に問われることはないが……
殺人まで行かなくても時には、‘盗塁’なんて‘窃盗’と間違えそうな単語まであったりする。

これは、ベイスボールの用語(英語)を全て、勝手に無理矢理日本語に翻訳した為に生じた、いわば根本的な誤解だ。もしかしたら、現代の刑法犯を取り扱う感覚が、未だ生じていなかった時代の遺物かもしれない。その上、その当時(明治初期)の庶民感覚は、近代法より前の武士が統治していた時代とあまり変わっていなかったからかもしれない。
そうでなければ、多くの“OUT”を取りに行く野球のピッチャーは、文字通りにとらえると、多くの‘死’を奪いに来る“多殺者”になってしまうし、彼らをまるでヒーローの様に崇めるファン達は、‘死’を好んでいるかの様である。

多くの“殺”を見たいのだろうか。
そんな訳は無いと、十分に理解しているが、熱狂しているファンを見ていると、昔から引き継いだ、日本人の隠れたDNAが見え隠れしている様に思えてしまう。

「汝、殺すなかれ」は聖書の教えである。
日本人の多くは決して、キリスト教徒では無いが“殺してはいけない”ことは、道徳心の中にしっかりと入っている。

では、その反面、‘殺してやりたい程、嫌な奴’は、確かに存在する。
なぜ殺さないのかと問われれば、“殺人”の罪により罰を受けたくないからである。または、その対象が、受ける罰に値しないと思うことも、罪に走らせない抑止力になって居る。
ことほど左様に、人間は最も大罪である“殺人”と隣り合わせで暮らしているといっても過言ではないかとも考えられる。

ニュース報道は、ノンフィクションの代表と言える。
連日のニュースでは、必ずと言ってもいい程‘殺人事件’が取り上げられる。冷静に考えれば、そんなに多くの人が‘殺人の罪に値する「殺してやりたい程、嫌な奴」’を、隣り合わせて暮らしているということになってしまう。
または、多くの人間には、“殺人罪”の抑止力が効かなくなってきていることにもなる。もしくは、‘殺してやりたい’と真剣に思ってしまった時の感情は、罪の抑止力で制御可能な粋を、越えてしまうということなのかもしれない。
それ程、人間の感情は、簡単に制御不能に陥ると思うと、なんだか空恐ろしい。

これは一つに、ゲームやエンターテイメントにおいて、“殺人”が軽く扱われている事に、問題の一つが在ると考える。特に、バーチャルながら画像に“殺人”が現れると、眼を逸らそうにも逸らすことが出来なくなることが多くある。
しかし、バーチャルな“殺人”に対して、目くじらを立てることは少ない。これは、フィクションの世界でも同じだ。
その、バーチャルやフィクションの世界で横行する“殺人”に慣れると、少々危険な感じがしてくる。
ついでに言うと、報道等で知る‘戦争’は、大規模な殺人であるにもかかわらず、離れた異国からの情報なので、ノンフィクションでもバーチャルに見えてしまっているのも事実だ。

そんな日本人の多くが、無意識に行ってしまっている行為がある。
決して、誉められた行動とは言えないことだ。

少々、視点を変えてみることにする。
“殺人”と限定する言葉では、人間の命を絶つこののみの意味となるが、実際のところ、“他人の人生を奪う”ことも、‘殺人’と同じとは言えないだろうか。

日本人は、‘勤勉’を良しとする民族だ。多分、農耕民族が多かったからだろう。
‘勤勉’を好むあまり、‘怠惰’を必要以上に嫌ってしまう。その結果、見せ掛けの‘勤勉’が横行してしまう。サラリーパーソンの多くが、必要の無い(と思われる)残業をしているのがその証拠だ。特に、上司が残業を続ける為、部下が‘空気を読んで’帰宅出来ず、無駄に時間を消費してしまう。
‘空気を読む’ことは、ストレスが掛かる。自分の意志に反しているからだ。
ストレスは、命に鉋(かんな)を掛ける様なものだとも言われる。命を縮めることは、それを強制されれば“殺人”に等しい。

また、「時は金なり」の諺(ことわざ)にある通り、時間は全ての人に平等であり、他人の時間を浪費させることは、人生の浪費であり‘殺人’では無いが、‘人生を奪う行為’に他ならない。
無駄な残業は、その代表と言えるのではないかと考えたりする。

これは、強制された残業だけではなく、他人を無理に・無駄に使ってしまうことも、‘人生を奪う’ことと言えなくはないのか。
誰でも知らず知らずの内に、他人に対し、人生の無駄をさせている行為はないかと思い返せば、何らかの事柄は有ると思うのだが……

他人は誰でも、自由に生きる権利は有している。
ただし、それをはき違え、“エゴ”を振り回すこととなると、大変危険だ。
他人の‘人生を奪う’恐れがあるからだ。

これからは、他人に迷惑を掛けず、かといって、自分にストレスが掛からない様に心掛けていきたいものだ。

とても、困難ではあると思うけれど。

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