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もう人生なんて変えたくなかった


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【8月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:キクモトユキコ(ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 
自分の人生が大きく変わってしまうなんて思ってもみなかった。

「それ買うのもうちょっと後にしない?」
恋人から電話をもらったのは、一目惚れしたラグの通販サイトのアドレスを「リビングはこれにしたいな」とメールで送ってすぐのことだった。メールの文面から今にも注文しそうな勢いを感じたのか、少し慌てた様子で。「とにかくさ、土曜にそっち行くし、ゆっくり決めよう」

この言葉が私の人生を変える前触れだったことに、当時はもちろん気付くわけがなかった。

「ブラジルに行くことになった」
土曜、朝の喫茶店。コーヒーとトーストとゆで卵。モーニングセットを食べながら私はその言葉を聞いた。式場に打ち合わせに行く前だった。私たちは翌週に入籍、1ヶ月後に式を控えていた。
「早ければ3ヶ月後には向こうに行くことになりそう。2、3年くらいって聞いてる。もちろん一緒に来てほしい」
え……そりゃ、もちろん。多分そんなような返事をしていたと思う。だって、彼の”今の”職場は他県で、結婚したら私は今の仕事を続けることができない。だから月末で退職して、今は彼がひとりで住んでいる新居に引っ越す予定をしていた。

結婚して、今の仕事は続けられないけど新居の近くで新しく仕事を探してしばらく働いて、そのうちに子供産んで、いつかは家を買って。平凡で穏やかな日々を送っていくのだと、ずっと漠然と思っていた。
それが突然のブラジル。
でも新婚だし、仕事も辞めてしまうし、これでついていかなかったら結婚する意味なんて皆無だ。だから私はブラジルに行くという選択肢しかなかった。正直ちょっとワクワクもしていた。結婚は人生の大きな節目だけれど、他の人よりも大きな節目になる、激動の年になるなあ、なんて意外と呑気に思っていたりもした。

「もっと早く分かってたら家具とか家電買わなかったのにな。数ヶ月間だったら一人暮らし時代のもので何とかしたのに」
2ヶ月前に新居を契約した時点ではもちろん海外赴任の話はなく、一通りの家具・家電を購入していた。冷蔵庫や洗濯機の大型家電は持って行くのが難しそうだから、ブラジルにいる間は実家なりレンタル倉庫なりに保管しておかなくてはならない。
「だからあの時ラグ買うのちょっと待ってって言ったんだよ。もうなるべく物を増やしたくないし。さすがにこんな大事な話を電話でするわけにもいかないから」

それから入籍、式は滞りなく行われ、数ヶ月後、私はブラジルに発つ夫を見送った。新居に二人で暮らしたのはたった4ヶ月だった。それから私はひとり日本の新居で過ごし、夫がブラジル生活に少し慣れ、家も見つかった3ヶ月後に私はブラジルの地を踏んだ。

結婚前から薄々、いや、はっきりと分かっていたことがある。
私は家事が苦手だ。
駐在員の帯同家族。とくに配偶者である妻のことは駐在妻や駐妻と呼ばれたりもする。駐在妻に求められるのは夫のサポートだと思っている。慣れない環境の中で働かなくてはいけない駐在員が、家ではリラックスできるように。ところがどっこい、私は家事が苦手だった。料理は昔から好きだったけれど、片付け・掃除がとにかく苦手だった。普通に暮らしているつもりでも、どんどん私の周りだけが散らかっていく。時間はたっぷりあるはずなのに、私は自分たちの家をくつろげる場所に作り上げることができなかった。

海外赴任なんかなかったら。私は再就職して、夫と対等にまではいかないけれどお金を稼いで、夫婦二人で家事をしていれば、こんなに私の不出来っぷりに自己嫌悪に陥ることなんてなかったはずなのに。

最初の頃のブラジルでの生活は、2日間の充実と5日間の孤独の繰り返しだった。
土日は夫に連れられていろんなところに出かけた。見慣れない食べ物や日本にはない名所。私にとってどれもこれも非日常のものばかりで、海外に来たんだ、ということを実感していた。
平日の5日間は孤独との闘い。一日の大部分を自宅でひとり過ごす。ほとんどの時間をパソコンの前で過ごした。時差12時間。ブラジルの午後から夕方にかけてが日本では深夜から早朝の時間帯。どんどん更新されなくなっていくSNSのタイムラインをただひたすら眺めていた。そして家事ができないことへの自己嫌悪。
日本にいた頃の私は多趣味だった。書道も師範の資格を取るまで長いことやっていたし、バンドでベースを弾いたりもしていた。カメラだって趣味だったし、お笑いのライブや好きなバンドのライブを観に行くことも好きだった。
それがほとんど全部、ブラジルではできなかった。書道はとある先生に長年師事していたけれど、ブラジルへ引っ越すのを機にやめてしまった。バンド仲間がいないからバンドはできないし、カメラを首から提げてぶらぶらしていたらあっという間に強盗の餌食になってしまう。どんなに面白そうなお笑いライブや好きなバンドの復活ライブがあろうとも、ブラジル日本間の往復航空券を無職の私に買えるわけがなかった。

ああ、なんでこんな風に人生が変わってしまったんだろう。
ブラジルに来たことを後悔していないけど、日本にいればあれができた、これに行けた、あの人に会えた……そんな思いがどんどん募っていく。ブラジルと日本との距離はどうしようもないもので、何とか折り合いをつけて日々を送るしかなかった。

それでも自分なりにブラジル生活を楽しもうと、少しずつ動くこともできた。3時間かけてアシェというブラジルダンスを習いに行ってみたり、日系の教会のバザーに参加させてもらって書道であなたのお名前書きます、という企画をやってみたり。高速バスで10時間かけて移動して、日本祭りのフードコーナーで3日間たこ焼きを焼くお手伝いをさせてもらったり、ブラジルW杯の時は日本戦のパブリックビューイングのボランティアスタッフをさせてもらった。日系人の友人がブラジル初の讃岐うどん専門店を開くというので、メニューを書道で書かせてもらったこともあった。

行動範囲を広げていくうちに友人もどんどん増えていった。同じような境遇の駐在妻の方々、日系ブラジル人、非日系のブラジル人、住んでいた街の駐在妻会ではアメリカ、ドイツ、フィンランド、メキシコ等々、多くの国の人とも知り合うことができて、さらに私の世界は広がった。
ブラジル国内、ウユニ塩湖やマチュピチュなどの南米の国々、日本にいたらなかなか行けないけど死ぬまでには行ってみたいと思っていた場所にもたくさん行くことができた。

日本の友人たちに私のことを忘れてほしくなくて、SNSの更新は多めだったように思う。だから私の友人たちはみんな口々に「ブラジル生活めっちゃエンジョイしてるね!」と言ってくれた。ああ、そんなふうに思ってくれるんだ、と当時の私は何だかほっとしていた。楽しいことも増えたけれど週に数日間の孤独は依然としてあって、充実と孤独の落差が激しく徐々にまた、ふさぎ込むことが多くなっていった。

気付けば私は29歳になっていた。
26歳で結婚してブラジルへ飛び、3年が経とうとしていた。帰国の目途はある程度ついてきたけど、まだもう少し長引きそうな感じでもあった。

「私の20代、これで終わっちゃうのかな」
好きなことができないストレスは大きかったけれど、もう一つずっと気がかりだったことがあった。
それは自分のキャリアについて。
新卒で入社した会社に3年勤めて、結婚のために退職した。すぐに転職をするつもりだったけれどブラジル行きのために叶わなかった。私は就労ビザではないのでブラジルで働くことはできない。つまり、29歳になった私は3年間の社会人経験しかないことになる。同期は社会人6年目になるというのに。もともと私は働いてお金を稼ぐということが好きだった。帰国しても専業主婦でいるつもりはさらさらなく、早くまた社会人として復帰したいという思いも強い。でも、3年以上のブランクがあって、30代になってしまった自分を雇ってくれるところがあるのだろうか。たいしたキャリアがあるわけではないことは分かっていたけれど、それでも自分のキャリアが完全に止まってしまっていることが辛かった。

「先に日本に帰ったら? 先に帰って働いてたら良いよ」
夫が私の背中を押してくれた。
家事もままならない不出来な妻であった私を責めることもなく、私だけを先に日本に帰すためにいろいろ動いてくれた夫には感謝の念しかない。
辛い感じで日本に帰ることになったように思われるかもしれないけど、友人からブラジル生活はどうだった? と訊かれたら胸を張って「楽しかった!」と言えるくらいにはエンジョイできた自信はある。

私はひとり帰国し、30歳になる直前に今の会社に採用されて社会復帰を果たした。その1年半後に夫も帰国、二人の日本での生活が始まった。

もう、人生なんて変えたくない。このままがいい。
数年遅れだけれど、思い描いていた穏やかな日々を送っていこう。ブラジルにいる時にできなくて悔しかったこともどんどんやろう。そう思っていた。
なのに、私の「好き」はからっぽになっていた。日本に帰ったらあのバンドのライブを観に行こう、あのお笑いの舞台を観に行こう、そう思ってワクワクしていたのに、日本に帰ってしまったらその気持ちがなくなってしまった。カメラもしまい込んだままだし、長いこと書道の筆も取っていない。あんなにたくさんあった、私の「好き」はどこかへ行ってしまった。「好き」はなくても死にはしない。だからそれなりに日々を過ごしてはいた。

2017年。32歳。本厄の歳になった。
厄払いで有名な神社で厄払いをしたのと同時期くらいに、私は天狼院書店という不思議な書店に出会った。書店なのにコタツがあって、書店なのに色んな部活やゼミがある。私が本厄の歳にこんな不思議な書店と出会ってしまったのは何かの縁だろう。これも厄払いの一環かもしれない、そう思って私はこの書店に通うようになった。ここにはフォト部もあって、しまい込んでいたカメラも久しぶりに日の目を見ることとなる。

「人生を変えるライティング教室」
このキャッチコピーを見た時、正直、「胡散臭いな!」そう思った。人生を変える、だなんて自己啓発セミナーみたいで。私はもう人生を変えたいだなんて思っていなかったから、最初はあまり響かなかった。でも、もともと文章を書くことが好きだったので、純粋にライティングの勉強をしてみたい気持ちが大きくなってしまった。人生を変えるというのは置いておいて、文章力をアップさせられたらそれで良し! 厄払いの一環! と受講することを決めたのだった。

天狼院書店のライティングゼミは早起きみたいなものだった。
毎週設けられている締切までに自分で書いた記事を提出する。合格をもらえたら天狼院のWEBサイトに記事として掲載してもらえる。この締切が本当に辛かった。記事は最低2,000字。最初のうちは全然文章が続かず、何とかひねり出して提出した後は脳がカラカラに渇くような気分だった。毎週の課題提出は推奨されているけれど、出さなくても講座を追い出されることはない。それでも自分の提出した記事に講評がもらえるので、出さないともったいない。海外旅行中で提出できなかったことが1回、体調が悪く書ききれなくて出せなかったことが2回。それ以外は意地で書き上げて提出した。

早起きするのは辛い。前日遊びすぎたらできるだけ長く寝ていたい。早起きできなくても、会社の始業時間に間に合うように起きられれば特に問題ない。1回の早起きで劇的に健康になるわけでもない。でも毎日早起きを続けたら生活リズムは整うし、少しずつだけど健康に近づくのではないだろうか。ライティングゼミはそんな早起きに似ている。毎週の課題提出は本当に辛いけど、地道に続ければ少しずつ文章が上達する。続けることによって人生だって変わる人もいるかもしれない。

私はというと、ライティングゼミを受講するのと合わせて、天狼院での他のイベントに参加するうちに、思ってもみないくらい友人が増えてしまった。今では天狼院でなくても遊ぶくらいの友人たちが増えたのだ。写真好きの友人も多く、よく一緒に写真を撮りに行くようになった。失くしてしまった「好き」は全部戻ってきてはいないけれど、新しいたくさんの「好き」を得ることができた。そしてだんだんと考えが変わっていった。

人生は思うようにはならないもの。だから、思い描いた人生を作り上げていくということも、人生を変えることになるのではないだろうか。ここにきてぐっと、私の穏やかで平凡な日々(と素敵な友人たちというスパイス!)がどんどん現実化してきている。

もう人生なんて変えたくなかったのに、私はもう一度、人生を変えようとしている。

 
 
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この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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2017-08-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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